第30話 真奈美とエレンと、羽の決断
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苦手な方はご注意くださいませ。
3月の空気は、まだ冷えが残っていた。
卒業式の準備が本格的に始まってから、教室の様子はいつもの日常とは少し違っていた。黒板には式の流れが紙で貼られ、生徒たちがそれぞれの担当を確認しながら動いている。真奈美は屋上の飾り付け担当だった。華やかにしすぎず、でも卒業式らしい清潔感のある装飾を、とクラスで決まった方針に沿って作業を進めていた。
朝のホームルームが始まる前、エレンは隣の席で真奈美の横顔を見ていた。
「……真奈美さん、今日も屋上ですか」
「うん。午前中は資材運び、午後から本格的に組み立て。風強いみたいだから、早めに終わらせたいな」
真奈美はそう言って、手元のリストに目を落とす。いつもの、淡々とした調子で。なのに、エレンの表情はどこか暗く、胸の奥に何か引っかかりがあるように真奈美を見つめていた。寒い。高い場所。一人で作業する時間も長くなるだろう。だけど特別大変なことでもないはずだ。しかし、エレンの声色までも暗いことは気になった。
「無理は、しないでくださいね」
真奈美が顔を上げ、大げさなまでに心配するエレンを安心させるように、少しだけ笑った。
「大丈夫。気をつけるよ。柚香こそ、教室の準備がんばって」
「……はい」
短いやり取りだった。それでも、その心配が朝の空気に薄く溶けて、エレンの胸には残ったようだった。赤いリボンが、真奈美の髪で静かに揺れている。エレンがくれたもの。それを見ていると、心配させないようにと、頑張ろうと思えてくる。
ホームルームが終わり、すぐに役割ごとの打ち合わせが始まった。
「式の進行はこちらで確認するから、装飾チームは資材の最終チェックをお願い」
担任の声に、教室のあちこちで返事が上がる。真奈美は担当の生徒たちと円くなり、持ち寄ったリストを確認した。白い布の枚数、スタンドの本数、花の装飾の位置。細かいことでも、当日に慌てないようにと一つずつ潰していく。
「真奈美、屋上の端の方は風が強いから、固定多めにしよう」
「うん。わかった。留め具、多めに持っていくね」
そんなやり取りを交わしながら、午前中は資材の搬入に費やされた。鉄製の軽いスタンドを二人で運び、白い布を畳んだまま屋上へ上げる。階段を往復するたびに、冬の名残の風が頰をかすめた。空は高くて、澄んでいる。卒業まで、あとわずかだという実感が、その青さに混じっている気がした。
「疲れたー」
一緒に運んでいた生徒が、屋上の床に座り込んで息を吐く。真奈美も隣に腰を下ろし、手元の資材を確認した。まだ形にはなっていない。それでも、少しずつ整っていく感覚は悪くなかった。
「午後から本格的に組み立てよう。私、端の方やるね」
「助かるー。真奈美がやってくれると安心するよ」
軽い冗談めいた言葉に、真奈美は苦笑して立ち上がった。教室側では、奏海やエレンが別の準備をしているはずだ。式次第の確認や、受付周りの整理。役割は違っても、同じ卒業式に向かっている。そのことが、妙に心強かった。
午後になって、作業は佳境に入った。
複数人でスタンドを立て、布を仮止めしていく。形が見えてくると、自然と会話も弾んだ。卒業後の話、進路の話、些細な思い出話。真奈美も時折それに混じりながら、手元の作業を進めた。風が強いときは布を押さえ、落ち着いたら固定を増やす。単純な作業なのに、集中していると時間があっという間に過ぎていく。
「真奈美、あとのテープと留め具、下から持ってくるね。ついでに他の資材も確認してくる」
声をかけて、他の生徒たちが階段へ降りていく。真奈美は手を振って応えた。残った作業は、端の方の固定だけだ。一人で十分にできる量だった。
「気をつけて。柵、古いからね」
「うん。わかってる」
軽い注意を受け流して、真奈美は一人になった屋上で作業を再開した。
屋上に、自分だけの時間が落ちる。
風が少し強い。白い布がはためき、真奈美はそれを押さえながらスタンドに結びつけていく。手が冷たい。指先の感覚が、徐々に鈍くなっていくのがわかった。それでも、黙々と作業を続ける。形になっていく装飾を見ていると、達成感のようなものが胸に広がった。
教室から、この様子が見えていることを、真奈美はぼんやりと思い出していた。奏海とエレンがそこにいるはずだ。時折、窓の向こうに視線を向けると、小さな人影が動いているのが見える。安心するような、見守られているような感覚があった。
髪に結んだ赤いリボンが、風に揺れる感触があった。
いつもより風が強い。リボンの端が、何度も頰に触れる。真奈美は無意識にそれに触れ、位置を直した。エレンから受け取ったものだ。大切にしている。なくしたくない。その気持ちだけは、はっきりしていた。
作業は順調だった。
次の布を固定しようと身を屈めたとき、強い風が屋上を横切った。白い布が大きくはためき、真奈美はそれを押さえようとした。その拍子に、髪のリボンがほどけた。
赤い布が、風に乗って舞い上がる。
「あっ……!」
思わず手が伸びる。リボンは柵の近く、崖側へ流れていった。足場のないところまで、あと少しの位置で揺れている。届く。届かせなければ。あれだけは、なくしたくない。
体を乗り出す。指先が、赤い布に触れる。
その瞬間、古い柵が、鈍い音を立てて外側へ傾いた。
足場が消えた。
体が、前へ滑る。手が柵を掴む。冷たい金属が掌に食い込む。足が空を掻いた。下を見る余裕はない。ただ、高い場所に自分がいることと、支えがほとんど残っていないことだけが、本能的にわかった。
「……っ」
声にならない。指が、少しずつ滑っていく。力を入れても、体全体を支えきれない。風が強く、バランスが取れない。視界の端で、赤いリボンが風に翻っているのが見えた。自分が掴み損ねたものだ。
膝が、柵にぶつかる。痛みが走る。それでも、手が離れていく感覚の方が強かった。指の第一関節が、金属からずれ始める。体重が、すべてその薄い接点に集中している。骨が軋むような感触があった。
(落ちる)
その認識が、はっきりと落ちてきた。否定する暇も、叫ぶ余裕もない。ただ、体が外側へ引き出されていく。風が耳を打ち、空が近すぎる。足元に何もないことが、初めて本当の意味で理解された。
指が、もう一本、滑った。
————————
少し前。
教室では、奏海が窓の外を見ていた。
「真奈美、一人でやってるね。もう少しで終わりそう」
隣で資材を整理していたエレンも、その声に釣られて視線を上げた。屋上に小さな人影がある。真奈美だ。白い布を扱っている様子が見える。いつもの、丁寧で真面目な動き。風に布がはためくたびに、小さく体を預けるようにしている。
最初は、何も感じなかった。
ただ、静かに見守るような感覚で見ていた。卒業の準備をしている真奈美。自分たちも教室で別の準備をしている。役割は違っても、同じ時間を共有している。そのことが、静かに胸に収まっていた。
なのに、違和感は突然やってきた。
体の傾き方が、おかしい。柵の方へ、乗り出すようにしている。布を押さえているにしては、重心が前に行きすぎている。次の瞬間、その体が大きく揺れた。
「真奈美さん……?」
エレンの声が、小さく漏れる。手元の資材から、完全に目が離れた。奏海も眉を寄せて、同じ方向を見ている。
「真奈美、危ないよ……あの位置、柵が古いって言ってたのに」
言葉の途中で、屋上の人影がさらに前へ傾いた。両手で何かを掴んでいるのがわかる。柵だ。体が、支えきれずに外側へ持ち上がっている。
エレンの指先が、冷たくなった。
(落ちる)
頭の中で、その単語が浮かんだ。否定したい。見間違いであってほしい。なのに、目の前で起きていることは、あまりにも明確だった。真奈美の体が、不安定に揺れている。足場がない。このままでは真奈美の手が離れてしまう。
周囲の音が、急に遠のいた。
教室のざわめき、資材を動かす音、誰かの話し声。全部が、膜の向こうのように聞こえる。自分の心臓の音だけが、やけに大きい。窓までの距離が、今までで一番長く感じられた。
(間に合え)
動け。動かなければ。誰かが走るより先に、自分が動かなければ間に合わない。頭ではわかっている。なのに、足がすぐに出ない。
そう。羽を出すこと。みんなの前で、自分を晒すこと。過去に力を見せてしまったせいで失ったものが、鮮やかに蘇ってくる。拒絶された目。離れていった人たち。あのときの恐怖が、喉の奥に張り付いている。
それでも、真奈美の手が、さらに滑っていくのが見えた。
もう時間はない。
エレンは、窓の枠に手をついた。指先が、白いほど力が入っている。深く息を吸う。吐く息が、震えていた。怖いはずなのに、体の奥で別のものが勝ち始めていた。失いたくない。この人を、失いたくない。それだけが、他のすべてを押しのけていく。
胸の奥にある力を、抑えずに引き出した。
背中が、熱くなる。羽が、内側から形を帯びていく。物理的な羽ではない。優しい光を帯びた輪郭。広がる感触が、背中全体に走った。怖い。でも、止められない。止めたら、間に合わない。
窓を大きく開けた。
冬の風が、一気に室内へ流れ込む。後ろで奏海が目を見開いているのが、視界の端に映る。椅子が倒れるような音がした気がする。誰かが息を飲んだ気配もした。けれど全部が、今は遠かった。
「ゆ、柚香ちゃん!?」
奏海の叫びが、背中に当たった。
それでも、手は、足は止まらなかった。
「真奈美さん!」
強く名前を叫ぶ。
教室の窓から、外へ身を躍らせる。重力が、一瞬体を引き下ろす。その直後、羽が風を捉えた。体が持ち上がる。校庭が急に遠くなる。屋上の端で、今にも手が離れそうになっている人影が、はっきりと見えた。
だけど、その瞬間、真奈美の指が完全に柵から離れた——
真奈美の体が空へ投げ出される。重さが、一気に解放される感覚。風が全身を打ち、落ちる速度が加速していく。叫ぶ暇も、考える暇もない。ただ、赤い空と、遠ざかる屋上と、近づいてくる地面だけがあった。
エレンは翼を大きく広げ、一直線にその姿へ向かった。風が耳を打つ。時間が、異様に遅く感じられた。真奈美の目が、こちらを向いている。驚愕と、恐怖と、何かが混じった表情。手が、無意識に虚空を掻いている。
腕を限界まで伸ばす。
届くか。届かないか。その境界線上で、指先が真奈美の腕に触れた。
掴む。
冷たい体を、胸に抱きしめた。
強い衝撃が走る。落下の勢いが、腕と羽に一気にのしかかり、体が下へ引き込まれる。それでも、羽が踏ん張る。翼を大きく広げ、風を捉え直し、落下のエネルギーを少しずつ殺していく。骨格が軋むような感触があった。それでも、エレンは離さなかった。
ゆっくりと、しかし確実に、下降を制御する。校庭の地面が、近づいてくる。周囲の悲鳴や、走り寄る足音が、徐々に鮮明になっていく。
真奈美の体温が、腕の中にある。生きている。確かにここにいる。心臓の音が、自分の胸に重なって聞こえる気がした。
エレンは、その感触だけを頼りに、地面へと降りていった。




