第29話 真奈美とエレン、バレンタインのひととき
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苦手な方はご注意くださいませ。
バレンタインの朝は、いつもより少しだけ空気が甘い気がした。
いつもの空き地で落ち合うと、ゆきみがすでにいて、二人の足元を図々しくすり抜けていく。真奈美は猫の頭を撫でながら、横に立つエレンの様子をちらりと見た。いつもと変わらない静かな横顔なのに、どこかそわそわしているようにも見える。自分も鞄の中の小さな包みが気になって仕方なかった。
「今朝は冷えるね」
「はい。風が強いです」
会話はいつも通りだ。バレンタインの話題は出る。
「教室、今日は騒がしくなりそう」
「そうですね。朝からすでに少し、甘い匂いがしました」
「手作り派と、買った派で分かれそう」
「……どちらも、気持ちは同じだと思います」
エレンはそう言って、小さく息を吐いた。真奈美は「そうだね」と頷きながら、自分の鞄の中を意識する。昨夜遅くまでかかって作った生チョコ。相手も何か用意しているのかどうか、まだわからない。聞くのも、自分から切り出すのも、今は少し早かった。
校門をくぐり教室に向かう。廊下ですれ違う生徒たちの手元にも、小さな包みが目立つ。真奈美は隣を歩くエレンの横顔を、時折そっと見た。赤いリボンが、朝の光を受けて静かに揺れている。自分の髪にも、同じ色がある。
ホームルームが始まる前に、詩歩が席を立ってこちらへやってきた。
「はい、二人とも。あたしの分」
小さな袋を二つ、机に置いていく。奏海も続いて、丁寧に包まれたものを差し出した。
「私も。よかったら」
「ありがとう」
真奈美は受け取り、すぐに自分の鞄からチョコを取り出す。エレンも同じように、用意していた小さな包みを差し出した。詩歩は「お? 真奈美、ちゃんと用意してたんだ」と笑い、奏海は「気を遣わせてごめんね」と受け取る。自然な交換だった。特別な意味を持たせすぎず、それでも今日だけは少し甘い空気が混じっている。
その後、別のクラスから秋が顔を出した。
「あ、いたいた」
彼女は真奈美の机に小さく手をつき、二つまとめて包みを置いた。手つきは軽いのに、どこか一瞬だけ迷ったような仕草があった。
「二人分。よかったら食べて」
「ありがとう。これ、私たちからも」
真奈美は自分の分を差し出し、エレンも静かに自分の包みを差し出した。秋は両方を受け取る。真奈美の分を見る手が、ほんのわずかに遅れた気がした。すぐにいつもの笑顔に戻ったけれど、その隙間に、何かが沈んでいるのがわかった。自分に向ける感情を、今はうまく処理できずにいるのかもしれない。それでも、彼女は二人の関係を邪魔しないと決めてくれている。その複雑さが、胸に小さく引っかかった。
秋は軽く手を振って踵を返す。数歩歩きかけてから、一度だけ振り返った。視線が、真奈美ではなく、隣にいるエレンに向く。そして、片目を閉じて、小さくウィンクをした。
エレンの肩が、びくりと震えた。
すぐに顔を伏せる。耳まで一気に赤くなったのが、横から見てもはっきりわかった。秋は少し楽しそうに目を細めながらも、瞳の奥だけは笑いきれていないように見えた。そのまま廊下へ消えていく後ろ姿を、真奈美は少しだけ目で追いかけた。
隣でエレンは俯いたまま、手元の包みを強く握り直している。真奈美は何も聞かなかった。聞かなくても、だいたいの空気は伝わってくる。秋の気持ちも、エレンの動揺も、自分の胸の奥にある熱も。全部が、今日の甘い空気の中に静かに混ざっていた。
昼近くになっても、エレンはなかなか切り出せない様子だった。
真奈美は無理に急かさず、ただ隣で自分のノートを開いて見せるふりをした。隣の気配が、そわそわと動く。やがて、小さな声がした。
「……真奈美さん」
「ん?」
「あの……これ、よかったら」
差し出す手が、わずかに震えている。白い包み紙に、簡素な紐が結ばれている。手作りだと一目でわかる形だ。真奈美はそれを受け取りながら、相手の顔を見た。耳まで赤い。目は合わせられないらしい。
「……ありがとう。いいの?」
「はい。昨夜、作りました。不格好かもしれませんが」
「全然。嬉しい」
本当に嬉しかった。予想はしていた。それでも、実際に彼女から直接渡されると、胸の奥が熱くなる。真奈美は自分の鞄から、用意していた包みを取り出した。
「実は、私も」
エレンが顔を上げる。目が、少し見開かれた。
「……真奈美さんも?」
「うん。あげようと思って。受け取って」
同じように、不揃いな形の生チョコ。お互いが、お互いに用意していたという事実が、空気を少し甘くする。エレンは両手でそれを受け取り、大切そうに膝の上に置いた。しばらくは、顔を上げられないままだった。
「……一緒に、食べますか」
真奈美が提案すると、エレンはこくりと頷いた。二人は席を立ち、誰もいない空き教室を見つけて入る。窓から見える校庭は、冬の光に照らされて静かだった。机を一つ挟んで向かい合い、包みを開く。
中から出てきたのは、どちらも素朴な生チョコだった。形は違う。真奈美のものは少し大きめで、エレンのものは小さめで丁寧に整えられている。お互いの性格が出ているような気がして、真奈美は小さく笑った。
「可愛くて、美味しそう」
「……ありがとう、ございます」
エレンに貰った可愛いチョコを、真奈美は口に運ぶ。甘さが、ゆっくりと溶けていく。カカオの苦みが残る、素直な味だ。上手いとか下手とかではなく、ただ「彼女が作ったもの」という事が、味を特別にしていた。
「わぁ! 美味しい。ちゃんと甘くて」
「……よかったです」
次に、真奈美のチョコをエレンが口にする。彼女は小さく目を細め、ゆっくりと噛んだ。しばらくして、静かに言った。
「……甘いです。真奈美さんの、味がします」
「私の味がするって、どういう」
「……あ、いや……ごめんなさい。うまく言えなくて」
エレンは俯いて、耳を赤くした。真奈美はその反応を見て、胸の奥がくすぐったくなった。お互いがお互いに用意して、こうして分け合っている。この状況が、すでに十分に特別だった。
二人は残りのチョコを、少しずつ分け合った。言葉は多くない。それでも、沈黙が居心地悪いものではなかった。窓の外を時折見たり、手元の包み紙を畳んだりしながら、ただ甘い時間を共有する。髪に結んだ赤いリボンが、同じ色をして並んでいるのが、妙に愛おしかった。
「ねえ」
真奈美が口を開くと、エレンが顔を上げた。
「これ、毎年やろうか」
「……毎年、ですか」
「うん。お互いに作って、一緒に食べる。いいでしょ」
エレンは少しだけ目を丸くし、それから静かに頷いた。
「はい。ぜひ」
真奈美は、そこで少しだけ笑った。
「それか、今度は一緒に作るのも面白いかもね。私の家とかで」
エレンの手が、わずかに止まった。顔を上げる。驚いたような、戸惑ったような、それでも嫌ではなさそうな目をしている。
「……一緒に、ですか」
「うん。材料出し合って、失敗しながら。それもいいでしょ」
「……はい。楽しそうです」
その返事がただ嬉しかった。来年も、再来年も、こうして並んで甘いものを分け合える関係でいたい。一緒に作る未来まで、自然に想像できてしまう。恋心は、もう否定できないところまで来ている。それでも、まだ「好き」とは言わない。言わなくても、伝わってしまうような気がするこの距離が、今はちょうどよかった。
休み時間が終わるチャイムが、遠くから聞こえてきた。
二人は席を立ち、包み紙を鞄にしまう。廊下に出る前に、真奈美はふと足を止めた。
「ありがとうね。今日の分」
「こちらこそ、です。本当に」
エレンはそう言って、小さく微笑んだ。文化祭のステージで見せた天使の笑顔とは違う。もっと日常的で、近くて、温かい笑顔。真奈美はその笑顔に、また少し心を奪われた。
教室に戻ると、詩歩が「おい、なんかいい匂いするぞ」と騒ぎ、奏海が「まあまあ」と窘めている。真奈美は軽く手を振って応えてから、席に着いた。隣でエレンが、静かに教科書を開いている。横顔が、いつもより少し柔らかい。
(好き、なんだろうな)
心の中で、確認するように思う。もう、遠い場所にはない。チョコの甘さが、まだ舌に残っている。お互いに渡し、お互いに受け取ったもの。その事実が、胸の奥で静かに灯っている。
午後の授業が終わる頃には、包み紙の感触も、チョコの味も、すでに記憶の中に沈み始めていた。それでも、胸の奥に残ったものは消えなかった。お互いに用意していたという事。一緒に食べた時間。小さな笑顔。一緒に作るかもしれない、未来の話。
下校の時刻になる。
いつものように並んで校門を出る。冬の風が、頰をかすめる。真奈美は鞄の中で、空になった包み紙に触れた。来年も、また作ろう。それとも、一緒に作るか。どちらでもいい。隣にいる人が、同じものを考えていてくれるなら。
「真奈美さん」
「ん?」
「……今日は、ありがとうございました」
「こっちこそ。また来年も、ね」
エレンはこくりと頷き、それから少しだけ歩幅を合わせた。肩が触れそうになる距離。赤いリボンが、二人の髪で同じように揺れている。
恋心は、さらに深く、静かに育っていた。
まだ、ちゃんと結ばれる前の、甘くて、少しだけもどかしい時間。
それでも、今はこれでよかった。
チョコの余韻と、赤いリボンと、隣にいる感触を胸に、二人は冬の道を並んで歩いていった。




