第25話 エレンと真奈美、祈りの夜
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苦手な方はご注意くださいませ。
文化祭が終わった翌日の朝は、妙に静かだった。
いつもの待ち合わせ場所に立って、エレンは小さく息を吐いた。校門からは少し離れた、細い道の先にある空き地。朝の光が斜めに差し、草の先端がわずかに揺れている。ここは、白い猫のゆきみとよく戯れる場所でもあった。今日もゆきみは来ていて、エレンの足元で小さく鳴いている。時刻は、二人がいつもここで落ち合う時間を少し過ぎていた。
(遅いですね)
真奈美は時間に正確な方だ。多少の遅れはあるかもしれないが、連絡もなくこれほど遅いのは珍しい。携帯電話を確認しても、新しいメッセージはない。ゆきみが裾を爪で軽く引っ掻いてくる。いつもなら、真奈美が来て「おはよう」と声をかけ、ゆきみの頭を撫でる。その当たり前の光景が、今日はない。
もう一度、画面を見る。
そのとき、短く振動した。
真奈美からのメッセージだった。
『ごめん。熱が出て動けない。今日は休む』
短く、簡潔な文面。いつもより少し硬い印象がある。エレンは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。文化祭の疲れが出たのだろうか。それとも、風邪をひいたのだろうか。どちらにせよ、彼女が一人で熱を出しているのだと思うと、それだけで胸が重く沈んだ。
ゆきみの頭を一度だけ撫でてから、空き地を離れる。一人で校門をくぐり、教室に向かう。席に着いても、隣は空いたままだった。鞄を置く音が、やけに大きく響く。
「真奈美、来てないね」
詩歩が席を立ちながら、こちらを見て言った。
「メッセージ見た? 熱出たらしいよ」
奏海も心配そうに眉を寄せる。
「文化祭で動き回ってたし、無理したのかも。大丈夫かな」
「柚香ちゃんも心配そうだね」
エレンは小さく頷くことしかできなかった。クラスメイトたちの言葉が、胸にじわりと染みる。自分だけが心配しているわけではないのだと、改めて感じた。それでも、授業中も意識はなかなか戻らなかった。真奈美がいない教室は、思っていた以上に静かで、広く感じる。
放課後になるのを、じっと待った。
チャイムが鳴った瞬間、エレンは席を立った。誰かに声をかけられることもなく、教室を出る。校門をくぐり、足を向ける先は決まっていた。真奈美の家には、以前お泊りで行ったことがある。道順も、玄関の様子も、部屋の位置も知っている。初めて訪れるときの緊張はなかった。あるのは、心配だけだった。
インターホンを押す指が、わずかに震えている。
「……はい」
小さくだるそうな声が返ってくる。真奈美だとわかった。
「真奈美さん、私です。天園です」
一瞬の沈黙。
「……エレン? どうして」
二人きりだと思ってくれているこの空間で、自然ともう一つの名前が呼ばれる。
「お見舞いに来ました。開けてください」
「だめ。うつるよ」
「天使は、人間の風邪は引きませんよ」
静かに、でもはっきりと言った。受話器の向こうで、真奈美が小さく息を飲む気配がした。しばらくして、ドアの鍵が開く音がした。
玄関に立った真奈美は、予想以上に顔色が悪かった。頰に熱が集まり、目元が少し赤い。いつもより小さく見える。エレンは思わず一歩近づいた。
「すぐに帰って。本当にうつるから」
「いえ。看病します」
「エレン……」
「お願いです。私を……一人にしないでください」
その言葉に、真奈美は少し迷うような表情を見せた。それから、力なく扉を大きく開けて、中へ招いてくれた。
部屋は以前来たときと変わらず、カーテンが半分閉じられている。ベッドの上には、使いかけのタオルと、飲みかけの水のペットボトルがあった。真奈美はふらつく足取りでベッドに戻り、そのまま横になった。エレンはそっと近づき、額に手を当てる。熱い。思っていた以上に高い熱だった。
「いつからですか」
「朝から……。文化祭の疲れと、風邪が重なったみたい」
「薬は?」
「飲んだよ。でも、あまり効いてないみたい」
エレンはタオルを取り、水で湿らせてから額に乗せた。真奈美が小さく目を細める。その仕草が、普段より弱々しくて、胸が痛んだ。
「何か、食べられますか。簡単なものでいいので」
「ううん。いらない。喉も通らないし……」
「じゃあ……水分だけでも」
「……うん。水は飲む」
エレンは枕元のペットボトルに手を伸ばし、真奈美の上体を少し起こして口元へ運んだ。小さく啜る音がして、また横になる。それ以上は何も受け付けない様子だった。
「ありがとう……。でも、本当に帰って。心配かけたくないから」
「私は大丈夫です。真奈美さんを一人にしている方が、ずっと心配です」
それ以上は何も言わず、ただ側に座った。時計の音が、静かに部屋に落ちる。真奈美は時折うなされ、時折小さく咳をした。そのたびに、エレンはタオルを替え、水を口元へ運んだ。自分にできることが、あまりにも少ないのがもどかしかった。
夕方を過ぎ、部屋の明かりを少しだけ落とした。
真奈美の呼吸が、徐々に荒くなっていく。熱が下がる気配はなく、むしろ上がっているように感じられた。額に当てた手が、熱くて離れそうになる。エレンは何度も水を替え、体を拭き、声をかけた。返事は次第に曖昧になっていく。
「真奈美さん。真奈美さん」
「……ん。大丈夫……だから」
大丈夫ではない。それは誰の目にも明らかだった。エレンは唇を噛んだ。天使の力は、人間の病にはほとんど効かない。それでも、全くの無力というわけではなかった。生命のぬくもりを移すように使えば、一時的にでも楽にさせることができる。ただし、その代償は大きい。
(心配かけてしまうから……使ってはだめ)
何度も自分に言い聞かせた。真奈美は、自分が無理をすることを望まない。それなのに、目の前で苦しむ彼女を見ていると、理性が音を立てて軋む。
夜が深くなった頃、真奈美の容態が急に悪くなった。
呼吸が浅くなり、時折苦しそうに身をよじる。呼びかける声にも、はっきりと応じなくなった。エレンはベッドの縁に座り込み、彼女の手を握った。熱い。普段は少し冷たい自分の手が、今は彼女の熱に負けている。
「真奈美さん……お願いです。目を開けて」
返事はない。ただ、苦しそうな吐息だけが返ってくる。
エレンの中で、何かが決壊した。
(このままじゃ、ダメ)
怖い。力を使えば、自分も倒れるかもしれない。それでも、今、目の前で苦しんでいる人を、放っておけなかった。誕生日に歌を届けたときと同じように。文化祭でステージに立ったときと同じように。この人のためになら、自分は動けてしまう。
エレンは真奈美の手を両手で包み、額を寄せた。目を閉じる。胸の奥にある、普段は押し込んでいる力の源に触れる。温かくて、繊細で、限りのあるもの。それを、慎重に、しかし強く引き出した。
(届いて。お願い。楽になって)
祈るように、力を流し込む。人間に対しては、効果が薄い。だからこそ、いつも以上に深く、自分の生命の一部を削るようにして押し出す。背中の奥が、熱くなった。羽が、うっすらと形を帯びる。
真奈美の荒い呼吸が、わずかに落ち着き始める。
熱が、少しずつ和らいでいくのが手に伝わってきた。成功している。そう実感した瞬間、急激な脱力感が全身を襲った。膝が、がくりと折れる。視界の端が、暗くにじむ。
(あ……)
体がいうことを聞かない。ベッドの縁に手をつこうとして、そのまま床に膝をついた。息が、うまく吸えない。胸の奥が、空洞になったように冷たい。力を使いすぎた。わかっていたはずなのに、止められなかった。
真奈美の手は、もう熱くない。穏やかな温度に戻っている。それだけが、今の自分にとっての救いだった。
「……真奈美さん」
声が掠れる。返事はない。けれど、彼女はもう楽な呼吸をしている。よかった。本当に、よかった。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
床に手をついたまま、エレンは体を支えきれなくなっていた。背中に、羽の気配が薄く残っている。戻さなければ。でも、もう指先に力がない。ただ、真奈美の寝息だけが、近くで聞こえていた。
(これで……いい)
そう思いながら、意識は静かに落ちていった。




