第23話 真奈美とエレン、ひと声の贈り物(後編)
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苦手な方はご注意くださいませ。
体育館は、すでに多くの生徒で埋まっていた。
真奈美は入口付近で一度足を止め、深呼吸をした。胸の奥がすでに早く打っている。クラスの喫茶を早退する形で出てきたこと、詩歩と奏海に「一緒に行こう」と誘われたこと、そのすべてが今、現実味を帯びて胸に広がっていた。
「ほんっと、珍しいね。真奈美がこんなにそわそわしてるの」
詩歩が隣で小さく笑う。奏海も穏やかな表情で頷いた。
「無理しなくていいからね。私たちはそばにいるから」
「……うん。ありがとう」
席は後方寄りだった。それでもステージはしっかり見える位置にある。真奈美はゆっくりと座り、手元でプログラムを確認した。全八組。最後に『天園柚香』の名前がある。大トリ。指先でその文字をなぞると、紙の感触が妙にはっきりと感じられた。
(本当に、出るんだ)
昨日までの時間を頭の中でゆっくりと辿る。準備の日々。校内を一緒に歩いた時間。掲示板の前で小さな声で「出ます」と告げられた瞬間。そしてあの言葉。
『真奈美さんに、もう一度聴いてもらいたくて』
胸の奥が熱く締め付けられた。あのとき感じた驚きと嬉しさが、今になってより鋭く蘇ってくる。自分のために、怖い場所へ踏み出してくれたこと。その重みが改めて胸にのしかかる。
最初の組がステージに上がる。明るい曲が流れ拍手が起こる。真奈美は一応耳を傾けていたが、意識の半分は最後の時間に向いていた。二組目、三組目と進むにつれて、体育館の空気が徐々に熱を帯びていく。上手い人もいれば、少し緊張した声の人もいる。どの歌声もそれぞれの想いを乗せて響いていた。それでも真奈美の心はどこか上の空だった。彼女だけを静かに待っている。
四組目が終わった頃真奈美は小さく息を吐いた。手のひらがうっすらと汗ばんでいる。詩歩が横から様子を窺うようにこちらを見る。奏海は何も言わず、ただ隣で静かに座っていた。その存在が今はありがたかった。
五組目、六組目。
時間が奇妙に速く感じられた。七組目の歌が終わり大きな拍手が沸き起こる。司会者が笑顔で次の紹介を始めたところで真奈美は背筋を伸ばした。もう逃げる場所はない。
「それでは、本日最後の出演者です」
体育館が、一瞬静まる。
「天園柚香さん。『そっと追いかけて』」
名前が呼ばれた瞬間、真奈美の心臓が大きく跳ねた。
ステージ袖からゆっくりと姿が現れた。
淡い色のドレス。袖に控えめなレース。そしていつもの赤いリボン。照明を浴びてプラチナブロンドの髪が柔らかく光っている。普段の制服でもメイド服でもない。ステージに立つための特別な姿。真奈美は思わず息を飲んだ。喉の奥がきゅっと縮む。
(綺麗……)
言葉がうまく見つからない。昨日までの彼女と同じなのにどこか違う。静かに、でも確かに光を纏っているように見えた。その光がまぶしすぎて、目を細めたくなる。なのに、目を逸らすことができなかった。
エレンはマイクの前に立ち、一度だけ深く息を吸った。視線を客席にゆっくりと走らせる。その目が、後方の席に届いた瞬間、真奈美は自分が完全に捉えられたのを感じた。逃げ場がない。見つめることしかできない。
目が合った。
ほんの一瞬だった。でも確かに結ばれた。エレンの瞳がわずかに揺れる。そしてゆっくりと、とても小さな笑顔が浮かんだ。誰に向けたものでもない。ただ真奈美にだけ届くような、静かで優しい笑顔。
天使のようだった。
胸の奥が甘く痛む。この笑顔を自分だけが受け取っているという事実が、どうしようもなく大きく感じられた。
ピアノの前奏が流れ始める。エレンが目を閉じゆっくりと口を開いた。
最初の一声が体育館に落ちた。
透明で柔らかく、それでいて芯のある声。誕生日に聴いたあの歌をはるかに超えていた。空気が澄んでいくような感覚。周囲のざわめきが自然と消えていく。誰もがその声に耳を奪われていた。真奈美も例外ではなかった。ただ他の誰よりも深く、その声に沈んでいく。
歌は丁寧に静かに進んでいく。感情を乗せすぎずそれでも確かに想いが滲む歌声。真奈美はただそれを受け止めていた。ステージの上のエレンだけが、はっきりと見えている。ドレスの裾がわずかに揺れ、赤いリボンが照明を受けて時折きらめく。そのきらめきを目で追ってしまっていた。
そして声が明らかに変わる。これまでより、感情が深く、丁寧に込められていく。
『好き、という言葉はまだ遠くにあるのに、どうしてこんなにあなたのことを探してしまうの』
その一節が、胸の一番深いところにまっすぐに刺さった。
真奈美は息を止めた。周囲の音が急に遠のく。歌詞の意味が、頭ではなく胸に直接落ちてくる。
好き、という言葉はまだ遠くにあるのに——。なのに。
今の自分たちを、あまりにも正確に映した言葉。届きそうでまだ届かない距離。確かな熱を持ちながらも名前をつけられないままの感情。
そして目がまた合った。
今度はもう逸らされなかった。エレンは歌いながら、確かに真奈美を見ている。その視線の先に自分がいることをはっきりと自覚していた。笑顔がもう一度、ゆっくりと浮かぶ。緊張しているはずなのにどこか穏やかで、とても優しい。その優しさが胸を溶かすように広がっていく。
真奈美の胸の奥で小さな声が答える。
(……ううん。好き、という言葉は、もう遠くにはない……)
心の中でそっとつぶやく。歌詞とは逆の言葉。でもそれが今の自分の本音だった。遠くにあるはず。でも、もう遠くはない。この胸の高鳴りも、この熱も、このどうしようもなく目で追ってしまう気持ちも。全部、すでに名前をつけられる距離まで来てしまっている。認めてしまえばもう後戻りできない気がする。なのに否定することができなかった。
目の奥が熱くなる。
最初は、ただ霞むだけだった。次の瞬間、熱いものが溢れ出す。真奈美は慌てて顔を伏せ手の甲で目元を押さえた。涙が静かに頰を伝う。止めることができない。声も出せない。ただ胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れてしまった。
隣で詩歩が小さく息を飲む気配がした。奏海がそっとハンカチを差し出してくれた。真奈美はそれを受け取ることしかできず、ありがとう、とも言えなかった。ただステージから目を離せないまま、涙をこぼし続ける。
声が続きを紡いでいく。でも真奈美の意識は、さっきの一節と自分の心の答えから離れられなかった。エレンが、この歌を選んだ理由。この言葉を、この場所で、自分に向けて歌っている意味。すべてがひとつに繋がっていくようだった。自分はこの声に、この想いを受け止めてもらおうとしている。その事実が、怖くて、嬉しくて、どうしようもなく大きかった。
(わかってるんだ、もう)
お互いの距離を。今の感情の温度を。それなのにこうして歌にして届けてくれている。テニスのコートで、エレンが自分の名前を呼んでくれたときの熱がふと蘇る。あのとき彼女が感じていたであろうものが、今、自分の中で同じ温度になって燃え上がっている。今は自分が、輝く彼女を追いかけてしまっている。
真奈美は手元のプログラムを握りしめたまま、動けなかった。まばたきをするたびに涙が落ちる。姿も、声も、笑顔も。そして今、胸に残ったその言葉も。すべてが今、真奈美の前で輝いている。このままずっとこの時間の中にいたかった。
曲がクライマックスを迎える。
エレンの声が、最後のフレーズを丁寧に紡ぎ出す。視線は最後まで真奈美から外れなかった。微笑みがとても小さく、でも確かにそこにあった。天使が自分だけに微笑んでいるような錯覚すら覚えた。その錯覚を否定したくなかった。
最後の音が静かに消える。
体育館に一瞬の沈黙が落ちた。
次の瞬間、大きな拍手が沸き起こる。誰かが「すごい」と呟く声が聞こえた。別の場所からは、感嘆の息が漏れる。真奈美はその拍手の中で、ただステージを見ていた。エレンが軽く頭を下げ、赤いリボンが揺れる。照明の中でその姿がまぶしくて、目が痛くなるようだった。なのに目を閉じることができなかった。涙で視界が滲んでいても彼女の姿だけは、はっきりと見えていた。
(心が包まれた)
その認識がゆっくりと沈んでくる。姿に。声に。自分に向けられた優しい笑顔に。そしてあの歌詞に。すべてに、完全に捉えられてしまっていた。抵抗する力など最初からなかった。
エレンがステージを降りようとする。真奈美は自分が立ち上がりかけていることに気づいて、慌てて姿勢を戻した。胸の鼓動はまだ収まらない。手のひらに熱が残っている。頰を伝った涙の感触も、まだ生々しい。
矛盾したあの想いが甘くて、切なくて、どうしようもなく胸に残っていた。そして、自分の心が返した小さな答えもはっきりと残っている。
(もう、遠い場所にはない)
拍手がなかなか止まない。
真奈美はステージの方を見たまま、小さく息を吐いた。目の奥がまだ熱い。もう新しい涙は出てこないけれど、ただ胸の奥に溜まったものがあまりに大きくて、うまく処理できずにいるだけだった。このまま何も考えずに、この余韻の中に沈んでいたい。そう思うほど心が満たされ、同時に少し怖かった。
隣で詩歩が何も言わずに肩を寄せてくる。奏海も静かに真奈美の手元を見ていてくれた。その沈黙が今は何より優しかった。
(ありがとう)
心の中で何度も繰り返す。声には出せない。今はこの場所で、この余韻の中に浸っていることしかできなかった。言葉にすれば壊れそうなものが、胸の奥にある。
エレンの姿がステージ袖に消えていく。赤いリボンが、最後に照明を反射して小さくきらめいた。その光を、真奈美は目で追いかけた。消えてしまったあともしばらくは同じ場所を見続けていた。
真奈美は心を完全に奪われたまま。
動けずにただそこに座っていた。




