第22話 エレンと真奈美、ひと声の贈り物(前編)
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苦手な方はご注意くださいませ。
二日目の朝は、昨日よりいくらか落ち着いていた。
教室に入るとお店はすでに準備が整えられている。初日ほどではないにせよ客の入りは安定していた。エレンはエプロンの紐を結びながら静かに深呼吸をして整える。胸の奥のざわつきは昨日より少しだけ小さくなっているが、それでも完全に消えたわけではなかった。最終日に控えた『ひと声の贈り物』のことが、常に頭の片隅にある。
真奈美が隣に来て、小さく声をかけてくる。
「おはよう。よく眠れた?」
「……はい。ある程度は」
嘘ではなかった。昨夜は練習をしたあとなるべく早めに床についた。ただ、すぐに眠れたかと言われればすぐにはいとは言えなかった。夢を見たかどうかは覚えていない。
でも朝起きてすぐに、今日も彼女が隣にいてくれるだろうなという事に、安堵したことだけは確かだった。
午前中は、いつも通り喫茶の手伝いをした。客の流れは穏やかで大きな混乱はない。真奈美が目配せを送ると自然と体が動く。言葉を多く交わさなくても、呼吸が合う感覚はもう確かなものになっていた。忙しさの合間に、真奈美がこちらを見て小さく微笑む。そのたびに胸の奥がわずかに温かくなっていく。
空き時間ができたのは、午後の早い時間だった。
真奈美がカウンターの向こうから、こちらを見て小さく手を振った。近づいてくると、いつもの穏やかな声で言った。
「少し回らない? 二日目だし、よかったら一緒に回れたらなって、思ったけど……」
誘われる言葉が胸に優しく落ちた。本当は一緒に歩きたかった。校内の残りを彼女と並んで見たかった。昨日二人で見た掲示板のことも、まだ胸に残っている。最終日に自分が立つステージのことを、少しでも忘れられるなら、そうしたいと思った。
でも、今の自分にはそれができなかった。
それは真奈美もわかっているようで、誘いの言葉に少し陰りがあったような気がしていた。
「……すみません。私、少し練習してこようと思います」
真奈美の瞳が、わずかに揺れた。けれどすぐに理解したように小さく頷く。
「うん、そうだよね。わかった! じゃあ、無理しないでね」
「はい。後で、教室に戻ります」
それだけ言ってエレンは教室を出た。後ろで真奈美が自分を見送っている気配がしたけど振り返らなかった。今振り返ると決意が揺らぎそうだったから。
練習場所に選んだのは誰も使っていない空き教室だった。窓を少し開け秋の風を入れる。楽譜を広げ小さく声を出してみる。喉は安定している。でも、心が追いついていない。誕生日に歌ったときのような、自然な感情が、うまく出てこなかった。
(真奈美さんに、届けるために歌う)
何度も自分に言い聞かせる。それでも緊張は消えない。むしろ、最終日が近づくにつれて胸の奥でゆっくりと膨らんでいくのを感じていた。
午後の残りを、エレンはほとんど一人で過ごした。教室に戻ったとき、真奈美はすでに接客に戻っていた。目が合うと、彼女は小さく手を振ってくれる。それだけで十分だった。今日はこれ以上近づきすぎない方がいい。そう自分に言い聞かせながら、エレンは静かにサポートに回った。
二日目が終わる頃、夕暮れの光が教室の窓をオレンジ色に染めていた。真奈美が近づいてきて小さな声で言った。
「明日、応援してるからね」
「……はい。ありがとうございます」
それ以上の会話はなかった。でもその短い言葉が、夜になっても胸に残った。
最終日の朝はいつもより少し早く訪れた。
教室に入った瞬間から空気が違っていた。文化祭も三日目ともなると客の流れにも慣れた様子が見える。それでも、最終日特有の高揚感のようなものが薄く漂っていた。エレンは自分の席でエプロンの紐を結びながら、静かに深呼吸をした。胸の奥がすでにざわついている。
今日は、ひと声の贈り物――歌う日だ。
真奈美が隣に来て小さく声をかけてくる。いつものように過度に踏み込んではこない。ただ、隣にいてくれる。その存在が今は何よりありがたかった。
午前中は可能な範囲で喫茶の手伝いをした。客の入りは安定していたが、エレンの意識の半分は午後の体育館に向いていた。
そのうち、空き時間ができた。けれど真奈美は何も誘わなかった。すでに二日目に、練習を優先すると伝えてあったからだろう。代わりに静かにこう言った。
「無理しないで。喉、大事にしてね」
「はい」
それだけを交わして二人は別れた。エレンは教室を出る前に、一度だけ真奈美の横顔を見た。彼女はすでに次の客対応に戻っていた。その背中を見て胸の奥で何かが静かに定まるのを感じた。
午後の時間が、ゆっくりと過ぎていく。
エレンは自分で時計を確認した。指定された集合時間より少しだけ早めに行くことにする。その方が心の準備ができる気がした。
教室を出る前に深呼吸を一つする。
体育館の裏手にある控室の前まで来ると、ドアはすでに開いていて中から微かな話し声が漏れている。エレンは一度だけ立ち止まりそれから静かに中へ入った。
他の出場者たちがそれぞれ静かに待機している。誰も大きな声を出さない。空気が、薄く張り詰めている。エレンは入口近くで立ち止まっていたところを、奥から近づいてきた人物に気づかれた。
「柚香ちゃん」
声の主は秋だった。
別のクラスだけれど、真奈美の幼なじみ。最近は二人の関係を静かに見守ってくれている人。そして今日は、実行委員の一人としてここにいるらしい。
「秋さん……」
「早めに来たんだ。ドレスこっちで用意してあるから、行こ」
秋はそれだけ言って奥の小さなスペースへエレンを促した。カーテンで区切られた簡易の着替え場所。そこに、淡い色のドレスが丁寧にかけられていた。袖に控えめなレースが施され、全体はシンプルで、でも上品な印象を受けるデザインだった。
「これ、私と何人かで選んだの。柚香ちゃんに合いそうなやつ」
秋はそう言いながら鏡の前に立たせる。エレンは静かに服を替え秋の助けを借りながら髪を整えた。赤いリボンはそのままだ。外すという選択肢は最初からない。
鏡に映った自分の姿を見て、エレンは息を飲んだ。いつもと違う。普段の制服でもメイド服でもない。ステージに立つための姿。その事実が改めて胸にのしかかってくる。
「似合うよ」
秋が鏡の向こうから言った。声はいつものように軽いが目は真剣だった。
「真奈美、絶対喜ぶと思う。あの子、柚香ちゃんのことになると、意外と顔に出るから」
その言い方にエレンはわずかに胸の奥が動いた。秋の声のトーンは明るいままだ。でも、その奥に別の感情が静かに沈んでいるのがわかった。真奈美を長く見てきた人の目。そして、今の自分と真奈美の距離をちゃんと認識している人の目。
(秋さんは、真奈美さんのことを……)
はっきり言葉にはしない。する必要もなかった。ただ理解している。秋が真奈美に対して抱いている感情の方向と、それでもなお自分と真奈美の関係を邪魔せずに応援しようとしていること。その複雑さを、エレンは静かに受け止めていた。
そして同時に自分の中にあるものも、否定できなかった。
真奈美さんの隣にいると落ち着くこと。声をかけられると胸の奥が温かくなること。今日、このステージに立つと決めた理由が誰かではなく、あの人に届けるためだったこと。それは、もう「友達として大切」という言葉だけでは、説明しきれなくなってきている。
(私も……同じように、真奈美さんのことを)
好き、という言葉はもう……遠くにはない。
それでも、今はまだ口に出すことも、はっきりと心で抱きしめることもできない。ただその距離が、以前より確かに縮まっていることだけは、わかっていた。
「私、企画の一人だから言えるんだけど。柚香ちゃんが本当に出るって聞いたとき、正直ちょっと驚いた。でも、嬉しかった。真奈美のためにって決めたんでしょ?」
「……はい」
「ならいいと思う。あの子は、柚香ちゃんの声を待ってるよ。私が保証する」
その言葉が緊張で固くなっていた胸の奥に、わずかな隙間を作った。秋はそれ以上何も言わず、肩を軽く叩いた。その手が少しだけ余計に丁寧だったように感じられた。
エレンはもう一度だけ鏡に映る自分を見た。淡い色のドレス。そのまま残した赤いリボン。いつもと違う姿の自分が、そこにいる。
(真奈美さん)
心の中で名前を呼ぶ。今、まだ教室にいるのだろうか。それとも、もう体育館の方へ向かっているのだろうか。どちらにしても自分はここで、このドレスのまま、次の時間を待つしかない。
鏡の中の自分が、静かにこちらを見つめ返していた。




