第18話 真奈美とエレン、静かな教室で
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苦手な方はご注意くださいませ。
準備の日々は、静かに続いていた。
真奈美とエレンは、放課後になると決まって教室に残り、喫茶の表側を整えていく。メニュー表はほぼ完成し、飾り付けの紙も少しずつ形になっていく。空き教室の壁には淡いピンクとクリーム色の紙が貼られ、テーブルには白いクロスが仮置きされている。小さな空間が、徐々に「日常を忘れられる場所」へと変わっていく様子を、真奈美は静かに眺めていた。
この日も、二人は教室に残っていた。
真奈美が椅子の配置を直し、エレンがテーブルクロスのしわを丁寧に伸ばしている。時折、視線が合う。そのたびにエレンは少しだけ目を伏せ、真奈美は胸の奥が柔らかく温まるのを感じた。
「柚香、こっちの椅子、もう少し前に出してみて」
真奈美が声をかけると、エレンは素直に動いた。二人きりのときは自然と「エレン」と呼んでしまうのに、教室のドアが少し開いている今は、無意識に「柚香」と口にしていた。その切り替えが、最近はほとんど意識しなくてもできるようになっている。
「……これで、どうでしょうか」
「うん、いい感じ。お客様が座りやすそう」
エレンは小さく頷き、再びクロスに手を伸ばした。白い指先が布を撫でる様子を、真奈美はしばらく見つめていた。丁寧で、静かで、どこか大事に物を扱うような仕草。あの歌声を聴いた夜と同じように、エレンのすべてが、優しくて、少しだけ脆く見えた。
「真奈美さん」
突然名前を呼ばれて、真奈美はわずかに身を起こした。
「どうした?」
「……このクロス、もう少し端を折り込んだ方が、綺麗に見えるでしょうか」
「見せて」
真奈美は隣に寄り、エレンの手元を覗き込んだ。肩が触れそうな距離。エレンの体温が、わずかに伝わってくる。真奈美はクロスの端を一緒に整えながら、自然と声を落とした。
「いいねいいね。そして、こうしたらいいかな。エレンのやり方、すごく素敵だよ」
「……ありがとうございます」
エレンの耳が、薄く赤くなった。真奈美はその色を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。守りたい。そばにいたい。最近は、この二つの気持ちが、ほとんど同じもののように感じられる。
作業は黙々と続いた。
真奈美がメニューボードの位置を決め、エレンが小さな紙の飾りを壁に貼っていく。言葉は少なくても、息は合っていた。時折、手が触れ合う。そのたびにエレンはわずかに動きを止め、真奈美はそれを見逃さずにいた。特別なことを話しているわけではない。ただ、隣にいるだけで、空気が柔らかくなるような気がした。
夕方近くになって、教室のドアが軽くノックされた。
入口に立っていたのは、胸に実行委員のバッジをつけた生徒だった。真奈美は手を止め、少し離れた位置から様子を窺う。エレンが静かに立ち上がり、その生徒と短い会話を交わしている。声の内容までは聞こえない。ただ、エレンの肩がわずかに強張り、時折こちらを窺うように視線を走らせているのがわかった。
(何かあったのかな……?)
真奈美はそう思うだけで、無理に近づかなかった。会話が終わると、実行委員の生徒は軽く頭を下げて退出し、エレンは少しだけ間を置いてから、再び飾り作業に戻ってきた。表情に大きな変化はない。でも、真奈美にはわかった。いつもの静けさの中に、ほんの少しだけ別の影が落ちていること。
真奈美は何も聞かなかった。ただ、隣に戻ってメニューボードの角度を微調整した。
「……真奈美さん」
「ん?」
「……いえ、何でもありません」
エレンは小さく首を振り、作業を続ける。真奈美はそれ以上踏み込まなかった。ただ、エレンの横顔が、今日は少しだけ遠い場所を見ているような気がした。
その後も二人は黙々と準備を続けた。
窓の外の光が次第に橙色に変わり、教室の空気が少し冷えてくる。真奈美が窓を少し開け、外の風を入れる。遠くで部活の声が聞こえる。秋の風は、夏のそれとは違う匂いがした。少し乾いていて、少しだけ寂しい。
「真奈美さん」
エレンが、窓の近くに立っている真奈美の方へ歩いてきた。
「今日は、遅くまで残ってしまいましたね」
「うん。でも、進んだからいいよ」
二人は並んで窓の外を見た。校庭の木々が、風に揺れている。沈黙が流れた。でも、それは居心地の悪いものではなかった。むしろ、言葉がなくても、隣にいるだけで十分な気がした。
「……私、最近、少し不思議な気持ちなんです」
エレンが突然、静かに言った。
「何が?」
「真奈美さんと一緒にいると、すごく落ち着くんです。普段は人の多さが少し苦手なのに……真奈美さんがいると、大丈夫だって思えて」
真奈美は息を止めた。胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。
「私も、同じだよ」
思わず口にしていた。
「エレンがいると、安心する。変な話だけど……この時間が、すごく大事になってるんだ」
エレンは驚いたようにこちらを見た。そして、ゆっくりと微笑んだ。それは誕生日に見せたくれた天使のような笑顔とは少し違って、もっと静かで、日常の中にある、優しい笑顔だった。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、エレンはまた窓の外に視線を戻した。真奈美は隣に立つ彼女の横顔を、じっと見つめた。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、赤いリボンが小さく揺れる。この子のそばにいたい。もっと近くで、この子の声を聞いていたい。そんな想いが、胸の奥で静かに、でも確かに、膨らんでいく。
下校の道も、以前より遠回りをするようになっていた。
「明日は、飾りの最終調整だね」
「はい。あと少しで、完成しそうです」
「完成したら、ちょっと寂しいかも」
真奈美がぽつりと言うと、エレンは足を止めた。
「寂しい……ですか?」
「うん。準備してる時間が、意外と楽しかったから」
エレンはしばらく黙っていた。それから、小さな声で返した。
「私も……です。真奈美さんと一緒にいる時間が、すごく……好きでした」
その言葉を聞いた瞬間、真奈美は自分の心臓の音が、少し大きく聞こえるような気がした。好き、という言葉はまだ遠い。でも、「そばにいたい」という気持ちは、もうはっきりと形を持ち始めていた。
家の近くまで来たとき、エレンがふと立ち止まった。
「真奈美さん」
「ん?」
「文化祭が終わっても……また、こうして一緒にいられますか?」
真奈美は一瞬、言葉に詰まった。そして、すぐに笑った。
「当たり前だよ。終わったあとも、ずっと隣にいるよ」
エレンは目を見開いた。それから、ゆっくりと、深く頷いた。
「……はい」
その返事には、以前よりずっと確かな温度があった。
夜になって真奈美は自分の部屋で天井を見上げていた。
今日もエレンと長く一緒にいた。作業をして、話をして、静かに並んで歩いた。特別な出来事は何もなかった。それでも、胸の奥には温かいものが残っている。実行委員の生徒と話していたあの短い時間の、エレンのわずかな緊張も、今はまだ胸の片隅に残っている。でも、それは今は深く考えない。
(もっと、このままでいたい)
同じ想いが、昨日より少しだけ強くなっていた。
文化祭まであとわずか。準備の日々が終われば、本番が始まる。そこで何が起こるのかは、まだわからない。でも、少なくとも今は、隣にいるこの時間が、何より大切だった。
真奈美は目を閉じ、今日のエレンの小さな笑顔を思い浮かべた。
そして静かに願った。
この先も、ずっと、この子のそばにいられますように。




