第17話 真奈美とエレン、文化祭準備の始まり
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夏の終わりは、静かにやってきた。
蝉の声が少しずつ遠のき、校庭を歩く風にわずかな涼しさが混じるようになっていた。真奈美は教室の窓から外を眺めながら、その変化をぼんやりと感じ取っていた。誕生日に聴いた歌の余韻が、まだ胸の奥に残っている。あの透明な声と、涙が出たときの感覚が、今も時折、ふと思い出された。あのときエレンが自分のために歌ってくれたこと。歌い終わったあと、少しだけ赤くなった耳と、俯いた横顔。あの瞬間から、何かが静かに変わり始めていた気がする。
クラスでは文化祭の打ち合わせが本格的に始まっていた。黒板には「クラス企画:喫茶店」と大きく書かれ、その下にいくつかの案が並んでいる。
「今年はちゃんとお客さんが座って休める感じにしようぜ」
詩歩が前に立って話を進める。
「メニューは飲み物とスイーツ中心でいいと思う。あんまり凝りすぎると準備が間に合わないし」
奏海がノートを見ながら現実的に続ける。
「飾り付けも淡い色でまとめて、落ち着いた雰囲気に。衣装は制服のままだと地味だから、袖とか裾にフリルのついたメイド風の可愛い制服をレンタルで揃える方向でどう?」
「それいいね! やりすぎない程度に可愛くしよう」
詩歩が目を輝かせて賛成する。教室に小さな笑いと同意の声が広がった。
「接客の中心は私とさとしでやるね。他の人はサポートに回って」
奏海がそうまとめた瞬間、詩歩が目を丸くした。
「え、あたしがやるのかよ」
軽く嘆くような声に、周囲からまた小さな笑い声が漏れる。詩歩は「まあ、いいけどさ」とすぐに肩をすくめて引き受けた。
真奈美は特に意見を挟まなかった。ただ、隣に座るエレンの横顔を、そっと見やる。
エレンは静かに話を聞いていた。表情に大きな変化はない。でも、真奈美にはわかった。肩がほんの少しだけ強張っていること。指先が、机の上で小さく動いていること。人前で目立つ役割を避けたがっている気持ちと、それでもクラスの役に立ちたいという気持ちが、胸の中で静かにせめぎ合っているのだろう。誕生日の歌を聴かせてくれたときとは違う、別の種類の緊張が、そこにあった。真奈美はそれを見て、自然と口を開いていた。
「私は……どこでも大丈夫です」
エレンが小さな声でそう答えたとき、真奈美はすでに言葉を選んでいた。
「じゃあ、私と柚香で、メニューと飾り付けやるよ」
エレンが少し驚いたようにこちらを見る。真奈美は軽く微笑んで見せた。クラスメイトたちも特に反対はなく、あっさりとその役割が決まった。
放課後。
二人は教室に残り、デザイン案とメニュー案を出し合うことにした。真奈美がノートを開き、エレンが隣に座る。距離は以前より明らかに近い。腕が触れそうな位置で、二人は図を描いたり、色を選んだりした。
「淡いピンクとクリーム色がいいと思う。白も少し混ぜて」
真奈美が提案すると、エレンは少し考えてから頷いた。
「……はい。柔らかい感じがします」
「メニューは紅茶とホットチョコ、あとクッキーとかシフォンケーキとか。甘くて優しいもの中心で」
「お客様が少しだけ日常を忘れられるような場所にできたらいい……」
エレンが小さく呟いたとき、真奈美は胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。その言葉が、どこかエレン自身の雰囲気と重なって見えたからだった。静かで、少しだけ寂しげで、でもどこか守ってあげたくなるような。
「いいね。柚香のイメージにも近い」
そう言われたエレンは、耳まで薄く赤くして俯いた。真奈美はその反応を見て、誕生日のときとは違う、日常の中の小さなときめきを感じていた。最近は、それがはっきりとわかるようになってきている。エレンが自分の隣にいるだけで、空気が少しだけ優しくなるような気がする。
準備はそれから本格化していった。
空き教室を借りて、模造紙に文字を書いたり、紙の飾りを作ったりする日々が続く。真奈美が大まかな形を作り、エレンが丁寧に色を塗る。言葉は少なくても、作業のリズムは自然と合っていた。時折、手が触れる。そのたびにエレンはわずかに動きを止め、真奈美はそれを見逃さずにいた。
ある日の放課後、メニュー表の下書きをしていたとき、エレンが小さな声で不安を漏らした。
「文化祭……私、ちゃんとできるでしょうか」
真奈美は迷いなく答えた。二人きりになった瞬間、自然と名前が変わる。
「できるよ。エレンがいるなら、大丈夫」
エレンは顔を上げ、真奈美を見た。その瞳が、少しだけ揺れている。真奈美は視線を外さずに続けた。
「何かあったら、私が何とかするから」
小さな返事が返ってくる。でも、その声には以前より確かな温度があった。真奈美はノートに目を戻しながら、心の中で思う。この子のそばにいる時間が、最近は特に大切に感じる。守ってあげたいという気持ちと、ただ近くにいたいという気持ちが、もううまく分けられなくなってきている。
別の日には、飾りの紙を切りながら、エレンがふと口を開いた。
「真奈美さんって、いつも私のこと、気にかけてくれますね」
「当たり前だよ。隣にいるんだから」
真奈美はそう答えながら、自分でも少し驚いていた。以前ならもっと軽く流していたかもしれない。でも今は、この言葉が嘘ではなくなっている。エレンの隣にいることが、自然と当たり前になってきている。
下校も、以前より少し遠回りをするようになった。話の内容は大したものではない。明日の作業の確認や、最近の天気の話、あるいは「今日のシフォンケーキの型、うまく切れなかったね」といった小さなこと。それでも、その穏やかな時間が、真奈美にとってはすでに欠かせないものになっていた。
ある夕方、校門を出てしばらく歩いたところで、風が強く吹いた。エレンのプラチナブロンドの髪がふわりと舞い、赤いリボンが少し揺れる。真奈美はそれを見て、思わず足を止めた。
「……綺麗だなぁ」
小さく呟いた声は、風に消えたはずだった。でもエレンは小さく振り返り、少しだけ首を傾げた。
「何か言いましたか?」
「なんでもない。リボンが揺れてたから」
真奈美は軽く笑ってごまかしながら、胸の奥がざわつくのを感じた。あの歌声を聴いた夜から、この子を見る目が、少しずつ変わっている。ただのクラスメイトとしてではなく、もっと特別な誰かとして。
秋の風が、少しずつ強くなっていく。
教室の窓から見える空は、夏の名残を残しつつも、確実に色を変えていた。文化祭までまだ時間はある。でも、その準備の日々そのものが、もう二人の日常の一部になりつつあった。
真奈美は隣で静かに作業をするエレンの横顔を、時折そっと見る。白い指先が丁寧に色を塗る様子。時々、作業の合間にこちらを窺うように視線を上げる瞳。その一つひとつが、胸の奥に静かに沈んでいく。
(もっと、このままでいたい)
言葉にはしないまま、その想いだけが、静かに、でも確かに、胸の奥で育っていっていた。




