第16話 エレンと真奈美、誕生日の贈り物
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真奈美の誕生日を知ったのは、ごく自然な会話の中だった。
下校の途中、真奈美がふと「来週の水曜、私の誕生日なんだ」と、特別な響きを持たせずに言った。詩歩たちとの軽いやりとりの流れで出た言葉で、真奈美自身はすぐに話題を変えてしまった。でもエレンは、その一言だけを、静かに胸に留めた。
誕生日。
何かを贈らなければ、と思った。
でも何を贈ればいいのかがわからない。
お菓子や小物は誰でも選べる。お金を出せば手に入るものでは、自分の気持ちが届かない気がして。真奈美が本当に喜んでくれるものが、自分には見当もつかなかった。
しばらく悩んだ末に、エレンは歌を選んだ。昔から歌は好きだったから。
決心をしてからは誰にも言わず、ひとりで練習を始めた。放課後の空き教室。誰も来ない音楽室の隅。家に帰ってからの短い時間。声を抑え、旋律だけを丁寧に繰り返す日々が続いていた。
選んだ曲は、特別なものではなかった。ただ、真奈美のことが頭をよぎるたびに、自然と口ずさんでしまった旋律。優しくて、少しだけ切なくて、でも最後は温かく閉じるような歌。歌詞も、自分で少しだけ直した。誰かに聴かせるつもりは、最初はなかった。誕生日に、何か伝えられるものがあったらと思っただけだった。
その「何か」が、練習を重ねるたびに少しずつ重くなっていくのを、エレンは感じていた。
ただの贈り物では、もう足りない気がしていた。
真奈美に、自分の声で届くものが欲しかった。
真奈美の誕生日当日。
教室では、朝から真奈美の机の周りが少し賑やかだった。詩歩が派手な包装の菓子折りを渡し、奏海が手書きのカードと一緒に小さなアクセサリーを贈る。秋も無言で丁寧に包まれた本を差し出した。他のクラスメイトからも、次々と小さな贈り物が集まっていく。真奈美は一つひとつ丁寧に受け取り、笑顔で礼を言っていた。特別にはしゃぐわけでもなく、ただ穏やかに、みんなの気持ちを受け取っている。
エレンは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
机の上に並ぶ色とりどりの包みを眺めながら、自分の胸の内を静かに確かめる。
形のあるものではない。声だけ。
これで、いいのかな。
放課後。
詩歩たちからの祝福を受けたあと、いつものように二人で下校する流れになった。夏の陽射しはまだ強く、校舎の影が長く落ちている。エレンは胸の内側で、何度も息を整えながら歩いていた。指先が冷たい。心臓の音が、自分だけに大きく聞こえる。
(今日、伝えなければ)
校門を出る前に、真奈美が立ち止まった。
「少し、中庭で休んでいかない? 今日はまだ暑いし」
エレンは小さく頷いた。中庭には大きな笹が置いてあり、校内で七夕イベントが終わったあとにもまだ葉を残していて、風に揺れていた。短冊はほとんど外されていたが、葉の緑だけが夏の光を受けて輝いている。ここには誰もいない。遠くに、蝉の声だけが聞こえる。
二人はベンチに並んで腰を下ろした。真奈美は空を見上げ、軽く息を吐いて。誕生日だと特別に騒ぐ様子もなく、いつもの穏やかな横顔をしていた。その姿を見ていると、エレンの胸の奥が熱く締めつけられた。
「真奈美さん」
「ん?」
「……ひとつ、聴いていただけますか」
真奈美がこちらを向く。エレンは視線を落とし、小さく息を吸った。そして、歌い始めた。
最初の音は、少しだけ震えていた。
けれど、すぐに声は澄んでいく。高くも低くもなく、ただ透明で、柔らかい。中庭の空気に溶けるように広がっていく声。風が止まり、蝉の声すら遠のいたように感じられた。歌詞は少なく、旋律が主だった。それでも、ひとつひとつの音に、伝えたかった気持ちが静かに乗っていた。
そばにいたい。
見ていてほしい。
今日という日が、穏やかでありますように。
そして——私のことを、少しでも覚えていてほしい。私のことを、少しでも心に置いていてほしい。
言葉にはしないまま、声だけがそれを運んでいく。
歌っているあいだ、エレンはほとんど真奈美の顔を見られなかった。見たら、声が止まってしまいそうだったから。ただ、隣にいる気配だけを、確かに感じていた。
歌が終わるころ、真奈美は静かに目を伏せていた。
頰に、一筋だけ光るものがあった。
涙。大きなものではなく、ただ目尻に浮かんだ、細い光。真奈美はそれをすぐに指で拭い、小さく息を吐いた。
「……きれいだった」
声が少し掠れている。
「ありがとう。誕生日に、こんなの貰えると思わなかった」
少し間を置いて、真奈美は続けた。
「みんなからもらったものも、言葉も、全部嬉しかったよ。でも……これが、一番だった」
エレンは胸の奥が、熱く満たされていくのを感じていた。緊張で固まっていた体が、ようやく緩む。真奈美が喜んでくれた。涙を流すほどに受け取ってくれた。それだけで練習してきた時間のすべてが、静かに報われた気がした。
でも同時に、胸の奥で、もうひとつ別の感情が静かに疼いていた。
このままでは、足りないかもしれない——という、小さな恐れ。
この気持ちが、これからもっと大きくなっていくのだとしたら。
自分は、どこまで真奈美のそばにいていいのだろう。
「……お誕生日、おめでとうございます」
「うん。ありがとう、エレン」
二人きりのときだけ許される名前が、優しく落ちる。エレンは小さく頷き、視線をベンチの端に落とした。幸せだった。深く、静かに、胸の底まで沈んでくる幸せだった。
そしてその幸せは、少しだけ、怖かった。
その歌声は、運悪く——あるいは幸運にも——近くを通りかかった生徒の耳に触れていた。
翌日、クラスの片隅で、小さな噂が流れた。
「天園さんの歌、すごく良かったらしい」
「中庭で誰かに聴かせてたらしいよ」
「声、透き通ってて……」
大きな話題にはならなかった。ただ、数人が興味深そうにエレンの方を見る程度。エレン自身は、その噂をほとんど気にしなかった。真奈美が受け取ってくれたことだけが、胸に残っていたから。
放課後、いつもの道を並んで歩く。
真奈美は時折、こちらを見て小さく笑った。その笑顔が昨日の涙の続きのように優しかった。エレンは赤いリボンに指を触れながら、静かに息を整えた。
歌は、たった一度きりの贈り物だった。
でも、その余韻は夏の光の中でまだ細く続いていた。
(それでも——もっと、そばにいたい)
その想いだけが、胸の奥で、静かに灯り続けていた。




