第14話 エレンと真奈美、想いの芽生え
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保健室のカーテンが、風にわずかに揺れていた。
真奈美は一度目を覚ましたあと、再び浅い眠りに落ちていた。額の汗はほとんど乾き、呼吸だけが静かに続いている。疲れが体の奥まで染み込んでいるのが、その穏やかな寝息からも伝わってきた。
エレンは椅子に座ったまま、その横顔を見つめていた。
手の甲に触れた感触がまだ指先に残っている。真奈美が眠る前に、そっと握っていた手。離そうとしても、なかなか指が離れなかった。
(真奈美さん……)
スポーツフェスティバルの間、真奈美は本当に輝いていた。コートの上でボールを追い、汗を飛ばし、最後まで諦めずに踏み込み続ける姿。普段のマイペースな表情とは違う、集中した目。あの姿を見ているだけで、胸の奥が熱くなった。声を上げて応援してしまったのも、勢いのまま駆け寄って腕を掴んでしまったのも、すべてその熱のせいだった。
そして今、こうして再び眠る真奈美のそばにいる。
疲れ果てた顔も、どこか安心して力の抜けた横顔も、全部が目に入ってくる。守ってあげたい、というより、何かしてあげたい。その気持ちが静かに、しかし確かに芽生え始めていた。
大きなことではない。
水筒を渡すこと。タオルを渡すこと。疲れたと言われたときに、隣に座ること。そういった、小さなことでいい。真奈美が少しでも楽になるなら、自分はそれをしたい。尽くす、という言葉はまだ大げさに感じる。それでも、近い場所にいたいという願いと、役に立ちたいという想いが、静かな光のように心の奥で揺れていた。
エレンは、真奈美の手を優しく包むように握り直した。
温かい。疲れているはずなのに、その手のひらは柔らかくて、ただ触れているだけで胸の奥が落ち着く。眠っている真奈美の横顔を見つめながら、エレンは静かに息を整えた。
時間はゆっくりと流れた。
真奈美の睫毛が、また小さく動いた。
ゆっくりと、目が開く。ぼんやりとした視線が天井をさまよい、やがて横を向いてエレンを捉えた。まぶたがまだ少し重そうで、焦点が定まらないまま、ぽやぽやとした声が漏れる。その目が、エレンの顔を確かに認めた瞬間、安堵したように細くなる。
「……いてくれてありがとう……」
「はい。ずっと、いますよ」
「……うん。よかった」
真奈美は上体を起こそうとして、すぐに力を抜いた。そのとき、自分の手に温かい感触があることに気づいた。それはエレンの小さく優しい手。真奈美は眠りの端っこにいるまま、その手をそっと握り返した。指先が、弱く、確かめるように重なる。声もまだ溶けかけたまま柔らかく続いた。
「……なんか、温かい……」
エレンは息を止めた。
真奈美の手が、自分の手を包み返してくる。その感触が、胸の奥に染みていく。
「体はいかがですか」
「……うん、とても楽になった。エレン、ずっと手握っててくれたんだよね」
「……はい」
エレンは視線を伏せたまま、握り返された手をそっと受け入れた。ただそばにいて、手を握っているだけなのに、真奈美がこうして安堵してくれることが、予想以上に心を満たしていく。
二人はしばらく、静かな時間を共有した。
真奈美の指が、ほんのわずかに動く。離すでもなく、強く握るでもなく、ただそこにいることを確かめるような触れ方。窓の外では、夕暮れがさらに深まっていく。保健室の白い壁が、オレンジ色の光を薄く反射している。真奈美は枕に頭を預けたまま、天井を見ていた。柔らかく霞む気配が、温かみを手放さないまま、ゆっくりと薄れていく。
「エレン」
「はい」
「一緒に帰ろう」
「……はい。喜んで」
その返事が、自分でも意外なほど自然に出た。以前ならもう少し躊躇していただろう。でも今は、真奈美と並んで歩きたいという気持ちが、先に立っていた。尽くす、というほど立派なものではない。ただ、そばにいて、何かできたらいい。その程度の小さな願い。
真奈美が小さく笑った。握っていた手を、ゆっくりと離す。
「元気出たら、また走ってるところ見せてあげる。見ててくれる?」
「はい。見ます。ちゃんと、見ます」
エレンははっきりと答えた。
胸の奥で、何かが少しだけ形を変えていくのがわかった。スポーツのあいだに芽生えた熱は、試合が終わっても消えなかった。むしろ、こうして静かにそばにいる時間の中で、別の温度に変わろうとしている。真奈美のために、何かしたい。役に立ちたい。その気持ちが、静かに根を張り始めていた。
先生がカーテンを開けて様子を見に来る。
「もう少ししたら帰宅していいよ。無理しないようにね」
真奈美が「はい」と答え、ゆっくりと体を起こす。エレンはすぐに立ち上がり、真奈美の荷物を手元に寄せた。真奈美が「自分で持てるよ」と言っても、エレンは首を横に振った。
「私に、持たせてください」
その言葉に、真奈美は少し驚いたように目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「じゃあ、お願い」
荷物を受け取った腕に、薄い重みがかかる。それだけで、胸の奥が満たされるような感覚があった。小さなことだ。本当に、小さなことだ。でも、今の自分にはそれが大切に思えた。さっき、真奈美が自分の手を握り返してくれた感触が、まだ残っている。
二人は並んで保健室を出た。
廊下はすでに静かで、ほとんどの生徒が帰ったあとだった。窓から差し込む夕陽が、床に長い影を作っている。真奈美の歩くペースはゆっくりで、エレンもそれに合わせた。時折、真奈美が立ち止まり、軽く息を整える。そのたびにエレンは足を止め、待ち、また並んで歩き出す。
「心配そうな顔してる」
真奈美が横目で言った。
「……はい。まだ、無理をなさらないでください」
「わかってる。でも、エレンがいてくれると安心する」
その言葉が、胸に落ちた。安心する、と真奈美が言ってくれた。自分がそばにいることが、誰かの安心につながる。その事実が、予想以上に大きく感じられた。
校舎を出ると、風が少し強くなっていた。
真奈美の家と自分の家は、途中まで同じ道だ。並んで歩く沈黙が、不思議と苦にならない。むしろ、この静かな時間が続いてほしいとさえ思ってしまう。真奈美が時折見せる横顔。汗はもう乾いているが、試合の余韻がまだ残っているような、穏やかで少し満ち足りた表情。それを見ているだけで、今日一日の熱が、別の形で胸に残っていく。
分かれ道の近くで、真奈美が立ち止まった。
「ここまで送ってくれてありがとう。残りは大丈夫」
「……はい。お大事に」
「また学校で。ちゃんと休むから」
真奈美が手を振る。エレンも小さく手を振り返した。真奈美の背中が、夕暮れの道に溶けるように遠ざかっていく。その姿を見送りながら、エレンは自分の手を握りしめた。さっき、真奈美が握り返してくれた場所が、まだわずかに熱を帯びている気がした。
真奈美のために、何かしたい。
尽くす、というほどの大きなものではない。
ただ、できる範囲でそばにいて、支えたい。
その気持ちが、今日という日を通して、はっきりと形を持ち始めていた。
家に帰り、自室の窓辺に立つ。
プラチナブロンドの髪を指で梳かしながら、ぼんやりと空を見る。母親はまだ帰ってきていない。静かな部屋の中で、今日の出来事がゆっくりと蘇る。コートで輝いていた真奈美。声を上げてしまった自分。腕に触れた感触。そして、再び目を覚ました真奈美が、淡い溶けそうな声で、安堵をこぼすようにして、自分の手をそっと握り返してくれた瞬間。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
「……真奈美さん」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が温かくなる。好き、という言葉は、まだ遠くにある。それでもなお、彼女のために何かしたいという気持ちが、静かに胸の奥で息づいていた。小さく、しかし確かに、その想いは芽を伸ばし続けていた。
夕暮れの空が、ゆっくりと藍に変わっていく。
エレンは赤いリボンを指で確かめながら、静かに目を閉じた。今日見た真奈美の姿を、胸の奥に大切にしまっていく。




