第13話 真奈美とエレン、スポーツ後のぬくもり
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白熱したスポーツフェスティバルが、ようやく終わった。
閉会式の余韻が校庭に残り、旗が一つ、また一つと静かに下ろされていく。夕暮れの光は長く地面を這い、影を淡く伸ばしていた。熱を帯びていた空気が、少しずつ温度を失っていく。遠くで機材を運ぶ音だけが、祭りの終わりを告げていた。
真奈美はクラスの荷物を運び終え、ベンチに腰を下ろした。詩歩が「今日は本気出しすぎた」と笑いながら肩を回し、奏海が「お互いよく頑張ったね」と水を渡してくる。
秋もその場にいて、真奈美の様子を静かに見ていた。しばらくして、彼女は無言で真奈美の隣に腰を下ろし、新しいタオルを差し出した。
「……大丈夫? 顔、赤いよ」
声はいつもより少し低い。心配しているのか、それとも別の感情が混じっているのか。真奈美にははっきり分からなかったが、秋の視線は確かに自分だけに向いていた。
その直後、奏海も真奈美の方を見て声をかけた。
「真奈美、大丈夫?」
真奈美は手を振った。
「平気。ちょっと疲れただけ」
けれど実際、体は重かった。テニスの決勝まで走り続けた反動が、じわじわと出始めている。足の裏が熱を持ち、肩のあたりに鈍い張りを感じる。それでも、試合中の高揚がまだ残っていて、自分では「このくらいなら問題ない」と思っていた。
エレンが、少し離れた位置からこちらを見ていた。
赤いリボンが夕陽を受けて小さく輝いている。真奈美が目を合わせると、エレンはそっと近づいてきた。いつもより早足で、表情にも明らかな心配が浮かんでいる。
「……本当に、大丈夫ですか? 顔色が、あまり良くないように見えます」
「うん、大丈夫だよ。柚香こそずっと見ててくれてありがとう」
「いいえ。真奈美さんが、とても輝いていましたから。……でも、無理はなさらないでください」
その言葉に、真奈美は小さく笑った。昨日までの緊張が解けて体の力がふっと抜けていく。その瞬間、立ちくらみがした。視界が少し揺れて、ベンチの縁を掴む。
「真奈美?」
詩歩がすぐに顔を近づけてきた。奏海も心配そうに身を乗り出す。秋も一歩踏み出そうとした、その前に、エレンが先に動いていた。プラチナブロンドの髪をふわりとなびかせて、一目散に真奈美の元へ。
「保健室に行きましょう。私が、お連れします」
声は小さかったが、はっきりとしていた。普段の控えめな様子とは違い、迷いのない口調だった。真奈美の隣に立ち、支えられる位置に体を寄せる。秋はその様子を見て、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。
真奈美は「大丈夫」と繰り返したが、言葉とは裏腹に足に力が入りにくい。額に薄い汗が浮かんでいた。
「大丈夫じゃありません」
「そうだよ真奈美。保健室行こうね」
エレンが珍しく言葉を強く、奏海が静かに言った。真奈美は少し迷ったが、結局頷いた。無理をして倒れるよりはましだと思ったから。詩歩が「あたしが荷物持ってるから」と言い、奏海が先に保健室へ連絡を入れる。秋は真奈美とエレンの方を見て、短く息を吐いた。
「……そう。じゃあ、お願いね柚香ちゃん」
声は明るくまとめようとしていたが、どこか引きずるものがあった。詩歩と奏海が先に歩き出し、秋もその後ろに続く。振り返ることなく、三人は離れていった。
エレンは何も言わずに、真奈美の隣を歩いた。時折、真奈美の顔色を伺うように横目で確認している。その心配そうな眼差しが、真奈美にははっきりと伝わってきた。
保健室は静かだった。
ベッドに横になると、体の重さが一気に広がる。天井の白い板がゆっくりと目に映る。先生が軽く様子を見て、「疲れが溜まっているね。少し休みなさい」とだけ言って、カーテンを閉めてくれた。
「……柚香」
「はい」
「ここにいてくれる?」
「……はい。ずっと、います」
エレンはベッドの横にある椅子に座り、膝の上で手を重ねた。真奈美の方を見る目が、先ほどまでの心配をまだ残している。真奈美は目を閉じてまぶたの裏に、今日の試合の光景が浮かばせる。詩歩との打ち合い。観客の声。そして、声を上げて自分の名前を呼んでくれたエレンの声。
「見ててくれたから、頑張れたよ」
小さく呟くと、エレンが「……嬉しかったです」と返した。その声を聞きながら、真奈美の意識はゆっくりと沈んでいく。疲れが一気に押し寄せてきて、浅い眠りに落ちた。
――――――
エレンは、眠る真奈美の顔を見つめていた。
息は穏やかで、表情も柔らかい。試合中に見せていたキリッとした顔とは違い、今はただの、少し疲れた少女の顔だ。その額に、薄い汗が残っている。心配で、胸の奥がまだざわついていた。
エレンは、自分の掌をそっと見つめた。
母親から何度も止められている力。生命力をわずかに操る力。人間にはほとんど影響を与えないほど弱いものだと、自分ではわかっている。それでも、使ってはいけないと言われ続けてきた。今日も、使わないつもりだった。
でも、真奈美の顔色が少し悪い。このまま何もせずにいることが、どうしてもできなかった。
指先を、真奈美の手の甲に重ねる。熱は高くない。ただ、疲れが深く沈んでいるのが伝わってくるようだった。エレンは小さく息を吸い、意識を掌に集める。ほんのわずかだけ。誰にも気づかれない程度に。自分の中にある温もりを、そっと相手に流し込む。
真奈美の指が、小さく動いた。
――――――
眠りの中で、真奈美は夢を見ていた。
校庭ではない場所だった。柔らかい光が差し込む、静かな部屋。窓の外には何も見えず、ただ淡い明るさだけがある。そこに、エレンが立っていた。赤いリボンをつけたまま、少し困ったようにこちらを見ている。
「真奈美さん」
「どうしたの?」
「近くに、いてもいいですか」
夢の中の真奈美は、自然と手を伸ばしていた。エレンの指先に触れる。温かい。まるで、今まさに掌に感じている感触のようだった。エレンが小さく微笑み、その手を握り返してくる。言葉は少ないけど、そばにいることがとても自然で、安心できる。
「ずっと、見ていてくれたね」
「はい。真奈美さんが、好きでしたから」
夢の中の言葉は、はっきりとしすぎていた。真奈美は少し驚いて顔を上げる。エレンは俯きながらも、手を離さなかった。頰が赤い。その姿が、ひどく愛おしく見えた。
そこから光が徐々に白くなっていく。
真奈美はゆっくりと目を開けた。
天井が見える。保健室の匂いがする。手の甲に、まだ誰かの温もりが残っていた。横を見ると、エレンが椅子に座ったまま、こちらを心配そうに覗き込んでいる。その目が、安堵でわずかに緩んだのがわかった。
「……目、覚めましたか」
「うん。ちょっと、変な夢見た」
「変な夢?」
「エレンが、そばにいてくれて……」
言いかけて、真奈美は自分の言葉に気づいた。
エレン、と呼んでしまった。みんなの前ではしないはずの呼び方だ。ここはまだ学校の中で、近くに誰かがいるかもしれない。その焦りが一瞬で胸をよぎる。自分でも思わず出してしまったことに、少し遅れて慌てた。
エレンの肩が、わずかに揺れる。
それでも彼女は、すぐに真奈美の方を向いて、優しく言った。
「……大丈夫です。誰も、いませんから」
すでに確認済みだと言わんばかりの、静かで確かな声だった。真奈美はそれを聞いて、胸の奥の力が少しだけ抜けた。そしてエレンは続けた。
「……夢に、いたんですね、私」
「なんか、温かかった。体も、少し楽になった気がする」
真奈美は上体を起こし、自分の手を見つめた。疲れが完全に消えたわけではない。でも、先ほどまでの鉛のような重さは薄れている。不思議な感覚だった。
エレンは視線を落としていた。
「……無理をなさらないでください。まだ休んだ方が。私は、ここにいますから」
「わかってる。でも、ありがとう。付き添ってくれて」
「いいえ。……心配、でしたから」
短い沈黙が落ちる。窓の外では、すでに夕暮れが深まり始めていた。真奈美は、改めてエレンの横顔を見た。赤いリボン。プラチナブロンドの髪。オッドアイは今、控えめに伏せられている。
「エレンが見ていてくれたから、頑張れたよ」
もう一度、はっきりと言った。
エレンは顔を上げた。驚いたような、嬉しいような、複雑な色が瞳に浮かんでいる。真奈美は小さく笑って、枕に頭を戻した。
「もう少し、ここにいさせて。そばにいて」
「……はい。ずっと、います」
エレンは静かに頷いた。椅子の位置を少しだけ近づけて、再び手を膝の上に重ねる。真奈美は目を閉じた。さっきの夢の感触が、まだ掌に残っている。温かくて、優しくて、誰にも言えなそうな、甘い残り香のようなものだった。
保健室のカーテンが、風にわずかに揺れた。
二人きりの静かな時間が、ゆっくりと流れていく。




