EP 6
卒業式の決別。「高卒の工場勤務とか無理w」
三月の風は、まだ肌を刺すように冷たかった。
グラウンドの隅にある桜の蕾は固く閉じたままで、体育館から流れてくる『旅立ちの日に』のピアノ伴奏が、講堂の重い扉の隙間から冷え切った渡り廊下へと漏れ聞こえていた。
あの日、真夏の太陽の下で九条源蔵を救い、病院の特別個室で「資本家のルール」を学ぶと決意してから、およそ半年。
俺の高校生活は、周囲の同級生たちとはまったく別の軌道を描いて進んでいた。
放課後、受験勉強に追われる同級生や、推薦が決まって遊び歩く連中を横目に、俺は毎日欠かさず県立中央総合病院の八階『801号室』へと通い詰めた。
源蔵の病室は、俺にとっての世界で最も過酷で、最も実利的なビジネススクールだった。
決算書の読み方、キャッシュフローの構造、複利の運用、資本家と労働者の税制格差、そして人間という生き物が「見栄」と「感情」によっていかに合理性を失い自滅していくか――。
源蔵は一切の妥協なく、時に怒号を飛ばしながら、俺の頭の中に資本主義のOS(基本ソフト)を徹底的にインストールし続けた。
その間、俺が第4話で断行した「実家の外科手術」の効果は絶大だった。
悪徳な外貨建て終身保険を解約し、大手キャリアから格安SIMへ乗り換え、残価設定クレジットのミニバンを売却して現金一括の中古軽自動車へ乗り換えたことで、倉科家からは毎月六万円、半年で三十六万円の余剰資金が生まれた。
父の表情からは焦燥感が消え、母の笑顔が増えた。
実家のバケツに空いていた致命的な大穴は、完全に塞がれたのだ。
そして今日、三月一日。
卒業証書授与式が終わり、三年生の教室は騒然とした熱気に包まれていた。
「おい、打ち上げどこ行く!? カラオケの部屋、拓海が予約してくれたぜ!」
「東京行く前にみんなで写真撮ろうよー!」
「俺、春休み中に教習所通って免許取らなきゃ!」
黒板に描かれたチョークのアート、飛び交うサイン帳、涙を流して抱き合う女子生徒たち。
誰もが「明るい未来」を信じて疑わない無邪気な笑顔を浮かべている。
自分の机の引き出しから上履きと卒業アルバムをカバンに詰め終えた俺の背中に、遠慮がちな、しかしどこか冷たい声がかけられた。
「……湊くん。ちょっと、中庭のベンチまで来てくれる?」
振り返ると、そこに立っていたのは佐伯凛だった。
幼稚園からの幼馴染であり、高校に入ってから付き合い始めた俺の彼女だ。
清楚な黒髪に、整った目鼻立ち。校内でも男子からの人気が高かった彼女は、東京の私立大学の文学部への進学が決まっていた。
「ああ、わかった」
俺は短く答え、凛の後を追って校舎を出た。
◇ ◇ ◇
中庭の片隅、枯れ芝が広がるベンチの前に立つと、凛は腕を組み、視線を足元に落としたまま口を開いた。
その横顔には、かつて俺に見せていた屈託のない笑顔は微塵もなかった。
「単刀直入に言うね、湊くん。……私たち、今日で終わりにしよ」
冬の風が、二人の間を吹き抜けていく。
予想通りの言葉だった。
夏休みの終わり、俺が進学を断念して就職活動を始めた頃から、凛のLINEの返信は露骨に減り、週末のデートも理由をつけて断られるようになっていたからだ。
「理由は?」
俺が努めて平坦な声で尋ねると、凛は不満そうに眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「理由? そんなの、湊くんが一番よくわかってるでしょ?
……湊くん、地元の食品パッケージ工場に就職するんでしょ?
毎日作業着着て、ベルトコンベアの前で段ボール組み立てる仕事だって聞いたよ」
「ああ。食品用の段ボールや化粧箱を製造・印刷するライン工だ。初任給は額面で約十七万円、社会保険や税金を引かれた手取りは十四万八千円だな」
「ほら、それ!」
凛は苛立たしげに両手を広げ、蔑むような視線を俺に浴びせた。
「手取り十四万!? 信じられない! そんなの、東京じゃ家賃払ったら一円も残らないじゃん!
私ね、春から東京の大学に行って、サークルに入って、インカレで青学や慶應の人たちとも交流するの。
みんなキラキラしてて、就活で大手商社や外資系企業を目指すような人たちばっかりなんだよ?
それなのに……『私の彼氏、地元の工場で高卒で段ボール折ってるんだ』なんて、友達に言えるわけないじゃない! 恥ずかしくて絶対に紹介できないよ!」
感情を露わにして捲し立てる凛の言葉。
かつての俺なら、男としてのプライドを粉々に砕かれ、惨めさに打ちのめされて涙を流していただろう。
だが、今の俺の心は、凪いだ水面のように静まり返っていた。
怒りすら湧かない。
源蔵の病室で半年間、冷徹な数字の世界に浸かり続けた俺の脳は、目の前の少女の感情的なヒステリーを、極めて機械的な「財務データ」として処理していた。
「おいおい、佐伯〜! 話終わったか?」
校舎の影から、甲高い笑い声を響かせながら一人の男が歩み寄ってきた。
金子拓海だ。
高校のバスケ部でチームメイトだった男であり、東京の中堅私立大学の経済学部に進学が決まっている。
拓海は着崩した制服のポケットに手を突っ込み、勝ち誇ったようなニヤケ面で俺を見下ろした。
「よお、倉科。佐伯から聞いたぜ? 地元の工場に就職決定なんだってな」
「拓海くん……」
凛がホッとしたように拓海の隣へ寄り添い、その腕に自然な仕草で自分の腕を絡ませた。
二人がいつの間にか裏で繋がっていたことは、もはや隠すまでもなかった。
「悪いな倉科、略奪愛みたいになっちまってよw」
拓海はわざとらしく肩をすくめ、手首に巻かれた海外ブランドの腕時計を見せびらかすように振った。
「でもまあ、仕方ねえよな? 男の価値は最終学歴と稼ぎで決まるんだからさ。
高卒で手取り十四万のライン工なんて、現代社会じゃ完全に『人生詰み』の負け組だろw
奨学金すら借りられなかったお前の貧乏な親を恨むんだな。
俺は東京で経済学を学んで、イケてる投資サークルに入って、卒業後は外資系ITか大手メガバンクに内定決めて年収一千万プレイヤーになる予定だからさ。
佐伯のことは俺が責任持って幸せにしてやるよ。お前は一生、油にまみれて段ボール箱でも折ってろよな!ww」
ゲラゲラと下品に笑う拓海。
その隣で、凛もまた「住む世界が違っちゃったの。ごめんね」と、憐憫と優越感が入り混じった冷笑を浮かべている。
二人の姿を見つめながら、俺はポケットの中でスマートフォンの電卓アプリを立ち上げた。
画面は見ない。指先の感覚だけで、頭の中に浮かび上がる数字を淡々と弾き出していく。
(……中学生でもわかる算数だ)
俺は心の中で、拓海と凛が踏み出そうとしている「大学進学という名の投資案件」を冷徹に査定していた。
まず、東京の私立文系大学に四年通うための【直接費用】。
入学金と四年間の授業料・施設費の合計は、平均して約四百五十万円。
さらに、東京で一人暮らしをするための家賃、光熱費、食費、生活費。仕送りやバイト代を含め、控えめに見積もっても年間百五十万円、四年で六百万円。
これだけで、キャッシュの流出は【一,050万円】に達する。
だが、本当のホラーはここからだ。
源蔵から徹底的に叩き込まれた概念――【機会損失(Opportunity Cost)】の計算だ。
もし、大学へ行かずに十八歳から就職して働いた場合、手取り十四万八千円にボーナスを加えれば、年間の可処分所得は約二百万円から二百二十万円になる。
四年間の累計稼働で得られる手取り給与の総額は、最低でも【約八百五十万〜九百万円】だ。
大学に進学するということは、この「稼げたはずの九百万円」をドブに捨てることと同義である。
直接費用の千五十万円と、機会損失の九百万円を合算してみろ。
(二人がこれから四年間で支払う本当のコストは――実に【約2,000万円】だ)
二千万円。
地方なら新築の一戸建てが買える巨額の資本を、彼らは「なんとなくみんなが行くから」「大卒という看板が欲しいから」という思考停止の理由だけで投じようとしている。
投資の世界において、二千万円の資本を投下するなら、最低でもそれを上回るキャッシュフローの回収が確定していなければならない。
しかし、拓海が進学する三流私立文系の経済学部で、彼が得られるスキルは何か?
サークルで酒を飲み、テスト前に過去問をコピーし、アルバイトで時間を切り売りする四年間。
四年後、彼を待ち受けている日本の大卒初任給の平均は、手取りにして【約十八万〜二十万円】だ。
俺の工場の初任給(手取り十四万八千円)との差額は、わずか月々三万〜五万円程度にすぎない。
さらに、拓海は自慢げに「奨学金を月十万円借りている」と言っていた。
それは給付型ではなく、利息のつく【第二種奨学金】だ。
四年後、彼は社会に出るスタートラインに立った瞬間から、【四百八十万円の借金】を背負わされているのだ。
月手取り十八万円の給料から、東京の高い家賃と生活費を払い、さらに毎月二万数千円の奨学金返済が二十年間にわたって口座から自動引き落としされる。
手元に残る可処分所得は、俺の工場の給料よりも遥かに少なくなる。
投じた二千万円の資本を回収するのに、一体何十年かかる?
回収できるわけがない。
彼らが買おうとしているのは「将来の富」ではない。
ただの「四年間のモラトリアムという名の高額な消費財」であり、金融機関と大学法人が情報弱者をカモにするために仕掛けた「合法的な借金地獄の入場券」なのだ。
(ROI――投資対効果は、完全にマイナスだ)
「……おい、倉科? 聞いてんのかよ」
拓海が、黙り込んだ俺の顔を覗き込んできた。
「図星すぎて声も出ねえか? ま、せいぜい頑張れよ。お前みたいな底辺が汗水垂らして作った段ボールを、俺たちエリートがAmazonでポチッて消費してやるからさww」
「ちょっと拓海、もう行こ。こんなところで立ち話してると、誰かに見られたら恥ずかしいもん」
凛は俺の顔を二度と見ようともせず、拓海の腕を引いて歩き出そうとした。
幼い頃、泥だらけになって一緒に公園を走り回った記憶。
夕焼けの中、他愛もない話で笑い合った日々。
部活の試合に勝って、真っ先にハイタッチを交わしたあの夏。
かつての思い出が、一瞬だけ脳裏をかすめた。
だが、その感情の波が立ち上がるより早く、源蔵のダミ声が俺の思考を冷徹に制した。
『いいか坊主。投資の世界で最も愚かなのは、【損切り(ロスカット)】ができない奴だ。
過去にどれだけ時間や金を注ぎ込んだかなんて関係ねえ。将来の価値がゼロ、あるいはマイナスだと確定した不良債権はな、一秒でも早く市場に投げ捨てろ。
未練タラタラと抱え続ける奴から順番に、破滅の底へと引きずり込まれるんだよ』
――サンクコスト(埋没費用)の呪縛。
過去の情や執着にとらわれ、将来の損失を拡大させる愚行。
目の前の少女は、俺の人生において明確な「負債」へと変質したのだ。
他人の看板(大学名や男の肩書)でしか自分の価値を測れず、見栄のために生きる人間を伴侶に選べば、生涯にわたって資本を食いつぶされるリスクしかない。
俺は息を静かに吐き出し、二人の背中に向けて、はっきりと声をかけた。
「凛」
凛が怪訝そうに立ち止まり、肩越しに振り返る。
復縁を懇願されるとでも思ったのか、その瞳にはわずかな警戒と、優越感が浮かんでいた。
「わかった。別れよう」
淀みのない、澄み切った俺の声に、凛がわずかに目を見開いた。
「……え?」
「今までありがとう。君の言う通り、俺たちの見ている世界はあまりにも違いすぎる。
――今日この瞬間、君を綺麗サッパリ【損切り(ロスカット)】できて、本当によかったよ」
「は……? そ、損切り……?」
意味が理解できず、呆然とする凛。
俺は視線を拓海へと移し、口元に薄い笑みを浮かべた。
「金子。四年間、東京の大学生活を思いっきり楽しんでくれ。
有利子の奨学金とリボ払いで買ったブランド品で、せいぜい見栄を張り続けるといい。
――四年後、同窓会があるなら、その時にすべての【答え合わせ】をしよう」
「あ、あん? 答え合わせだあ? 何言ってんだこいつ、負け惜しみ乙ww 行くぞ凛!」
拓海は吐き捨てるように笑い、凛の手を引いて早足に去っていった。
凛は一度だけ振り返り、なぜか俺の平静な顔を見て酷く動揺したような表情を浮かべたが、そのまま人混みの中へと消えていった。
中庭に残されたのは、俺一人だった。
冷たい風が吹き抜ける。
胸の奥底に、ぽっかりと穴が空いたような感覚がなかったと言えば嘘になる。
だがそれ以上に、両肩から巨大な鉛の重石が滑り落ちたような、圧倒的な解放感が全身を満たしていた。
ポケットからスマホを取り出し、画面を見る。
『預金残高:32,000円』
俺の種銭は、まだ高校時代のバイト代の残り、たった三万二千円だ。
肩書も、ただの「高卒・無職(四月から工場勤務)」にすぎない。
世間一般の物差しで見れば、俺は紛れもない最底辺の敗残者だろう。
だが――俺の頭の中には、源蔵から叩き込まれた「資本家の思考回路」がある。
実家の固定費を月六万円削減した実績がある。
そして何より、見栄や感情に囚われず、すべてを数字と確率で判断できる冷徹な合理性を手に入れた。
(ここからだ)
四月からの食品工場勤務。
世間はそれを「妥協の選択」と呼ぶだろう。
だが、俺にとってあの工場は、資本家への階段を駆け上がるための【最強の足場】にすぎない。
時計の針は動き出した。
同級生たちがモラトリアムを貪り、就職活動という名の品評会に並ぶまでの、一、四六〇日間。
俺の逆襲の物語が、ここから幕を開ける。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/高校卒業(春から食品工場勤務内定)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円(実家固定費削減:+60,000円/月継続中)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「過去の情に縛られて損切りできない奴から市場で死んでいく。見栄と不良債権を抱えて溺れる奴には、浮き輪じゃなく鉛の重りをプレゼントしてやれ」
読んでいただきありがとうございます。
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