EP 7
なぜ俺は「手取り14万の食品工場」を選んだのか
四月一日、午前八時三十分。
工業地帯特有の重油とパルプの匂いが混ざり合った春風が、真新しい作業着の襟元を冷たく撫でていた。
敷地の入口に掲げられた看板には、『三晃紙器工業株式会社・本社工場』と錆びた文字で刻まれている。
大手コンビニや食品メーカー向けに、冷凍食品の個装箱や流通用の段ボールを製造している、従業員百二十人ほどの地方の中小企業だ。
今日からここが、俺――倉科湊の職場となる。
「……はぁ。マジでテンション下がるわ」
工場の正門をくぐったところで、隣を歩いていた同期採用の男――山岸が、深いため息とともに安っぽいポリエステルの作業着の袖を引っ張った。
俺と同じく、地元の普通科高校から高卒枠で採用された同期だ。
「なぁ倉科、昨日の夜、東京の大学に行った高校の連中のインスタ見たか? みんなお洒落なスーツ着て入学式に出て、サークルの新歓コンパでウェーイwwってやってんだぜ? それなのに俺らは何だよこれ。今日から毎日このダサいネズミ色の作業着着て、油と紙埃にまみれて機械の番人かよ……」
「そうだな。東京の連中は楽しそうだな」
俺は表情を変えずに淡々と答えた。
山岸は俺のそっけない態度に拍子抜けしたのか、さらに愚痴のトーンを強めた。
「しかもさ、求人票をもう一回見直して絶望したんだよ。基本給十六万五千円。そこから健康保険、厚生年金、雇用保険、所得税、住民税が引かれたら、手取りいくらになると思う? たったの十四万八千円だぜ!? 一人暮らしなんて夢のまた夢、実家に三万入れたら残りは十一万ちょっと。パチンコで二回スったら一瞬で消える金額じゃん! 俺ら、高卒ってだけで完全に人生ハードモード確定だよ……」
頭を抱えて項垂れる山岸。
その姿は、かつて親の金融破綻を知り、中庭で「高卒の工場勤務とか無理w」と同級生たちに嘲笑されて絶望していた半年前の俺自身と完全に重なっていた。
世間一般の常識に照らし合わせれば、山岸の嘆きは百パーセント正しい。
二十一世紀の日本において、「高卒・地方中小工場・ライン工」という属性は、カーストの最底辺に位置づけられる負け組の代名詞だ。
東京の三流私立大学へ進学した金子拓海や、俺を振って乗り換えた元カノの佐伯凛から見れば、哀れみの対象以外の何物でもないだろう。
だが――俺の心には、惨めさも焦燥感も一ミリたりとも存在しなかった。
それどころか、目の前に広がる灰色の工場棟を見上げながら、俺は胸の内で静かに、冷徹な勝利の笑みを噛み殺していた。
(嘆く必要なんて何一つない。……ここは俺にとって、資本主義をハックするための【完璧なベースキャンプ】なんだからな)
◇ ◇ ◇
時計の針を、三週間前の三月中旬へと巻き戻そう。
県立中央総合病院の最上階『801号室』。
カテーテル手術とリハビリを終え、退院を一週間後に控えた九条源蔵の病室で、俺は進路決定の報告をしていた。
『手取り十四万八千円の食品段ボール工場だとぉ!?』
俺の差し出した採用内定通知書を見るなり、源蔵はベッドの上で仁王立ちになり、病室がビリビリと震えるほどのダミ声を張り上げた。
『てめえ、半年間俺の講義を特等席で聞いておきながら、選んだのが地方のしがない下請け工場だあ!? 歩合給で青天井の不動産営業や、実力次第で稼げるフルコミッションの営業職なら、高卒だろうが初年度から月五、六十万稼げる求人がいくらでもあったはずだぞ! 資本家を目指す人間が、初っ端から月十四万のぬるま湯に浸かってどうすんだ、この大バカ野郎が!』
鬼瓦のような形相で怒鳴りつけてくる伝説の投資家。
だが、俺は怯むことなく、用意していた一枚のルーズリーフを源蔵の前にスッと差し出した。
『じいさん、怒鳴る前にこれを見てくれ。俺がこの工場を選んだのは、消去法の妥協じゃない。
俺が四年以内に純資産一億円を作り、資本家へ駆け上がるために、これ以上ない【四つの絶対条件】を完璧に満たしているからだ』
『ああん? 四つの条件だと?』
源蔵が片眉を吊り上げ、怪訝そうに紙面へ視線を落とした。
そこには、俺が徹底的に分析した工場の就業条件と、時間価値の計算式が並んでいた。
『一つ目の条件は――【完全残業ゼロ・十七時定時退社】だ』
俺は人差し指を立てて告げた。
『この工場は、機械の稼働スケジュールが食品メーカーの納品便に合わせて分刻みで完全自動化されている。ラインが止まるのは夕方十六時四十五分。片付けと日報を書いて、十七時ちょうどのチャイムとともに全員がタイムカードを切って帰宅する。突発的な残業は年間を通じてほぼゼロだ』
『ケッ、残業代が出ねえってことは稼ぎが増えねえってことだろが』
『じいさん、中学生でもわかる算数をしよう。
工場の残業代なんて、時給換算すればせいぜい千二百円から千三百円程度だ。月二十時間残業して、心身をすり減らして手に入る金はたったの二万五千円。
そんな雀の涙のために、自分の貴重な夜の時間を会社に切り売りするなんて、投資対効果(ROI)が最悪すぎる』
俺はペン先で、紙に書いたタイムスケジュールを叩いた。
『十七時に退社できれば、家に帰ってシャワーを浴びて飯を食っても、夜十八時から二十四時まで【毎日丸々六時間】の自由時間が手に入る。
土日休みを合わせれば、平日三十時間+休日二十時間で、一週間に【五十時間】。一ヶ月で【二百時間以上】の事業開発時間が確保できるんだ!
フルコミッションの営業会社に入ってみろ。朝八時から夜二十二時までテレアポと飛び込みで拘束され、帰宅したら泥のように眠るだけだ。自分のビジネスを立ち上げる時間なんて一分も残らない』
源蔵の目が、わずかに細められた。
『……続けろ』
『二つ目の条件は――【脳のメモリ(ウィルパワー)を一切消費しない単純作業】であることだ』
『脳のメモリだと?』
『人間が一日に下せる「重要な決断の回数」には、厳格な上限がある。いわゆる【意思決定のエネルギー(ウィルパワー)】だ。
クリエイティブな仕事や、数字のノルマに追われる営業職をやっていると、日中の業務だけで脳のメモリが百パーセント使い果たされてしまう。退勤する頃には頭が完全にオーバーヒートして、夜にパソコンを開いて副業の戦略を練る気力なんて残るわけがない』
俺は工場の作業内容を指差した。
『だが、食品パッケージのライン工はどうだ?
流れてくる箱の印刷ズレをチェックし、決まったパレットに積み上げるルーティンワークだ。最初の二週間で身体が勝手に動くようになる。
つまり、勤務中の八時間は【脳みそが完全にフリー】なんだよ。
耳栓をして耳を澄ませば、頭の中では次に仕掛けるWebマーケティングの動線や、ブログの記事構成、不用品販売の出品戦略を無限にシミュレーションできる。
俺にとって工場の八時間は、ただの【給料が発生する瞑想時間】だ』
『……ふん、屁理屈を並べ立てやがって』
毒づきながらも、源蔵の口元が微かに吊り上がっていた。
『三つ目の条件は――【就業規則に副業禁止の規定が存在しないこと】。
前時代的な中小企業だからこそ、「社員が家でネットビジネスをやって稼ぐ」なんて発想すら経営陣の頭にない。規則を隅々まで確認したが、競合他社への二重就労を禁じているだけで、個人事業の立ち上げを縛る条項は一切なかった。これで堂々と法に則って仕掛けられる』
『そして……最後の一つは何だ?』
源蔵の問いに、俺は最も強く、確信を込めて言い放った。
『四つ目は――【正社員という名の社会的信用(属性)の確保】だ』
源蔵が「ほう」と短く喉を鳴らした。
『じいさん、日本の金融システムにおいて、もっとも優遇されているのは誰だ?
どれだけ月収百万円を稼いでいようが、開業したばかりのフリーランスはクレジットカード一枚作れず、アパートの賃貸契約すら弾かれる。
だが、「正社員」の看板を持っていれば話は別だ。
たとえ手取り十四万の工場勤務だろうが、勤続年数のカウントが回り、社会保険証という最強の身分証明書が発行され、銀行やカード会社からは「毎月確実に給与というキャッシュが入ってくる安定層」として認識される。
これから軍資金を作るための【セルフバック(自己アフィリエイト)でのクレカ乱れ打ち】も、将来の【事業資金の創業融資】も、この「正社員の属性」というプラチナチケットがあって初めてレバレッジが効くんだ!』
病室の空気がピンと張り詰めた。
俺のプレゼンを聞き終えた源蔵は、しばらくの間天井を仰ぎ、喉の奥を小刻みに震わせた。
そして――。
『……くっ、くくく……っ! ぶわっはっはっはっはッ!!』
腹を抱えての大爆笑が病室に轟いた。
『手取り十四万の会社を「固定のベーシックインカムと社会的信用を買い取るための足場」として利用するだと!?
ケッ! とんだ食えねえ高校生だぜ!
会社を「人生のすべて」として依存する奴隷どもを尻目に、てめえは最初から会社を【月十四万八千円のスポンサー】としか見てねえわけだな!』
『ああ。自分の時間を売って会社に骨を埋める気なんて最初からサラサラない。
俺は、俺自身の資本を作るためにこの工場を利用する』
『合格だ、坊主! その腐った根性、資本家として百点満点だ!
いいか湊、世間の馬鹿どもは「どこに就職したか」という看板の見栄だけで勝負する。
だが本物の勝負はな、会社の看板を脱ぎ捨てた【定時後の時間】で何を生み出すかで決まるんだよ!』
◇ ◇ ◇
「おい、新入り! 突っ立ってねえでこっち来い!」
荒っぽい怒鳴り声で、俺の意識は工場の第一製造ラインへと引き戻された。
油染みのついたキャップを斜めにかぶった、四十代半ばの班長・村田が顎で手招きしている。
「お前ら高卒新人の担当は、この第四パレタイズラインだ。
機械から流れてくる段ボール箱の印字を検品して、五十枚ごとに結束バンドで縛ってパレットに積む。
余計なことは考えるな。言われた通りに手足を動かせばいいんだ。いいな?」
「はい、わかりました」
「は、はいっ……」
俺の迷いのない返事と、山岸の消え入りそうな声が対照的に響いた。
午前九時、始業のブザーが鳴り響く。
ゴウンゴウンという重低音とともに、巨大な印刷輪転機が唸りを上げ、ベルトコンベアが動き出した。
次から次へと流れてくる、折りたたまれた段ボール箱。
周囲の先輩作業員たちは、死んだ魚のような濁った目で、無言で手を動かしている。
彼らにとってこの時間は、生きるために耐え忍ぶ「苦役の八時間」なのだろう。
隣の山岸も、開始三十分で腰を痛そうにさすりながら、時計の針をチラチラと恨めしそうに見つめていた。
だが、俺の感覚はまったく違っていた。
(テンポが一定だ。リズムを掴めば、視覚と手先の連動だけで処理できる)
パッ、パッ、と箱の角を揃え、結束機に通してボタンを踏む。
ガシャンとプラスチックバンドが締め上げられ、パレットへと滑らせる。
一切の無駄を削ぎ落とした最短の動線。
高校三年間のバスケ部で鍛え上げた空間把握能力とフットワークが、作業を完璧なオートメーションへと昇華させていく。
そして――狙い通り、俺の脳のメモリは【完全に解放】されていた。
(手首の動きは自動化できた。……よし、思考のバックグラウンドプロセスを立ち上げるぞ)
俺は機械の轟音の中で、頭の中の巨大なホワイトボードに、これからの戦略図を展開していった。
(現在の軍資金は、高校時代のバイト代の残り三万二千円。
まずは、源蔵じいさんから課されるであろう最初の関門――【種銭100万円】の突破だ。
時給労働のアルバイトは禁止されている。手取り十四万八千円の給料からコツコツ貯金したところで、毎月五万円貯めても二十ヶ月……一年半以上かかってしまう。遅すぎる。
必要なのは、リスクゼロで元手を爆発的に増やす【初期資本の錬金術】だ)
段ボールを結束しながら、頭の中でステップを組み立てる。
(フェーズ1:実家に眠る負債(不用品)の現金化。
フリマアプリでの徹底的なマーケティング実験だ。写真の撮り方、タイトルのキーワード選定、出品時間帯のコントロールによる価格の最大化。これでまず十万〜十五万円を作る。
フェーズ2:工場の「正社員属性」を使ったセルフバック(自己アフィリエイト)。
年会費無料のクレジットカード発行と証券口座開設。多重申し込みによる信用情報機関(CIC)のブラック入りを回避しつつ、一撃で二十万円のキャッシュをノーリスクで確定させる。
フェーズ3:出来上がった三十五万円のキャッシュを元手にした、高回転・高利益率の店舗せどり。
ジャンク品の歪みを突き、利益率四十%で資金を雪だるま式に転がす……!)
パレットの上に、整然と積み上がっていく段ボールの山。
それと同時に、俺の脳内では「手取り十四万の工場男子が、資本家へと化けるためのロードマップ」が寸分の狂いもなく完成に近づいていた。
「……おい、倉科」
昼休憩のブザーが鳴った時、班長の村田が怪訝な顔をして俺のパレットを見に来た。
「お前、本当に工場初めてか? 初日でここまで結束のズレがねえ奴は珍しいぞ。それに……」
「何か問題がありましたでしょうか?」
「いや……なんでもねえ。普通の新人は半日やると死にそうな面してんのに、お前、なんだか妙に楽しそうに作業してやがるからよ」
「仕事が楽しいのは良いことですから」
俺は爽やかに微笑んで頭を下げた。
まさか自分が「頭の中で資本主義のハック計画を練っていただけ」だとは、夢にも思っていないだろう。
◇ ◇ ◇
そして――運命の時刻が訪れた。
ピ――――ッ!
工場のスピーカーから、十七時を告げる終業ブザーがけたたましく鳴り響いた。
同時に、ベルトコンベアがピタリと停止する。
「お疲れっしたー……あー、腰が痛え……」
「山岸、この後パチンコ行くか? 新台入ってんだよ」
「行きます行きます! 初任給の前借りってできないんすかねぇ?」
先輩作業員と山岸が、だるそうに談笑しながら更衣室へ向かう。
彼らにとって、今日の一日はこれで「終わり」だ。
時間を会社に差し出し、十四万八千円の対価を得て、そのわずかな小遣いをパチンコや酒という資本家の罠に差し出し、また明日もベルトコンベアの前に立つ。
だが、俺は違う。
ガチャンッ!
十七時零二分、タイムカードをレコーダーに通す。
作業着を脱ぎ捨て、私服に着替えた俺は、ロッカーの鍵をポケットにねじ込んだ。
(終わったんじゃない。……ここからが、俺の本当の仕事だ)
工場の重い鉄扉を押し開けて外へ出ると、西の空が鮮やかな茜色に染まっていた。
涼やかな夕暮れの風が、火照った頬を心地よく撫でる。
手首の時計を見る。時刻は十七時零五分。
これから家へ帰り、シャワーを浴びても、夜二十四時まで丸々六時間の時間が残されている。
誰にも邪魔されない、俺だけの資本を築くための黄金の時間だ。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、退院して自宅に戻ったばかりの源蔵からのショートメッセージだった。
『初日の労働者ごっこはどうだった? 生き残ってるなら、明日さっそく俺の屋敷に来い。種銭100万円の作り方を教えてやる』
俺は口元を吊り上げ、親指を走らせた。
『定時退社しました。頭のメモリは満タンです。明日伺います』
送信ボタンを押し、俺は夕暮れの道を力強く踏み出した。
手取り十四万の食品工場。
世間が「人生の墓場」と呼ぶその場所から、俺の1億円への快進撃が、今まさに始まろうとしていた。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/食品工場ライン工(手取り月14万8,000円・正社員属性獲得)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円(実家固定費削減:+60,000円/月継続中)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「会社を人生のすべてだと思う奴は奴隷になり、会社を固定のスポンサーだと見抜いた奴は資本家になる。17時からの6時間でお前は何者になる?」
読んでいただきありがとうございます。
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