EP 4
最初の課題「お前の家のバケツの穴を塞げ」
病室の重厚なドアを閉めた後も、九条源蔵の野太いダミ声が耳の奥で激しく反響していた。
『これから家に帰ったら、一円も稼ごうとするな。金儲けなんざ後回しだ。まずやるべきは――お前の実家のバケツに空いた大穴を塞ぐことだ』
八階の特別フロアからエレベーターで一階へと降りると、そこには現実の生々しい空気が渦巻いていた。
薄暗い待合室、長蛇の列を作る会計窓口、疲弊した顔で処方箋を握りしめる高齢者たち。
自動ドアを抜けて外へ出ると、八月の暴力的な熱風が全身を包み込む。
駅へ向かう道すがら、俺の目に入る景色のすべてが、昨日までとはまったく違った意味を帯びて見えていた。
駅前のロータリー。ピカピカに磨き上げられた高級外車から降りてくる男。
テラス席で一杯千円以上するフラペチーノを片手に、スマートフォンでSNSをスクロールしている若い女性たち。
街頭ビジョンに映し出される「今なら月々のお支払いがラクラク!」と謳うカードローンの甘美な広告。
(……全部、罠だ)
背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
彼らは自分たちの欲望のために金を使っているつもりで、その実、資本家たちが張り巡らせた見えないクモの巣に自ら飛び込んでいるだけなのだ。
見栄のために買い物をさせ、支払いに困ればリボ払いやローンで年利十数%の手数料をむしり取る。
真面目に働く労働者を巧妙に誘惑し、一生労働者から抜け出せないように設計された、巨大な集金システム。
(俺の実家も、そのクモの巣に完全に捕まっていたんだ)
ポケットの中のスマートフォンを握りしめ、俺は家路を急いだ。
目標は「毎月五万円の固定費削減」。
源蔵から課された最初の試練だ。
もしこれをクリアできなければ、あの怪物は二度と俺を相手にしないだろう。
◇ ◇ ◇
ガラガラと玄関の引き戸を開けると、家の中はどんよりと重い空気に支配されていた。
居間に入ると、父・健一はダイニングテーブルの端で、背中を丸めて求人情報誌をめくっていた。
会社のボーナスカットを補うため、週末の深夜バイトでも探そうとしているのだろう。その横顔には、五十歳という年齢以上の深いシワが刻まれている。
母・由美子はキッチンで、近所のスーパーの特売チラシを数枚並べ、電卓を叩いていた。
「……あ、湊、おかえり。今日ね、駅前のスーパーで卵が一パック九十八円なんですって。自転車でひとっ走り行ってこようかしら。あっちのドラッグストアだとモヤシが十円安いし、夕飯は少し切り詰めれば……」
母の言葉に、胸が痛んだ。
母はいつもそうだ。
十円、二十円の安さを求めて炎天下を自転車で何キロも走り、電気の消し忘れを口うるさく注意し、エアコンの設定温度を上げて汗を拭いながら耐える。
それが「正しい節約」だと信じ切っているのだ。
だが、違う。
そんなものは節約ですらない。
命の時間を削り、精神をすり減らしているだけの「貧乏の我慢比べ」だ。
「母さん、チラシを置いてくれ。父さんも、その雑誌を閉じてほしい」
俺の落ち着いた、しかし芯の通った声に、二人が怪訝そうに顔を上げた。
「湊……? どうしたんだい、急に改まって」
「二人にお願いがあるんだ。今すぐ、うちの家計に関係する書類を全部このテーブルに出してほしい。
銀行の通帳、生命保険と学資保険の証券、車のローンの返済予定表、家族全員のスマホの利用明細、それから電気・ガス・ネット回線の請求書。全部だ」
父が眉をひそめ、戸惑ったように視線を揺らした。
「な、何を言い出すんだ湊。そんなものを見てどうする。お前はもうすぐ高校を卒業するんだぞ。
進学させられないのは本当に申し訳ないと思っているが、大人の金の話に子どもが口を出すもんじゃない。
お前は自分の就職のことだけを考えていればいいんだ」
「子どもじゃない。俺はもう十八歳だ」
俺は父の目を真っ直ぐに見つめ返し、一歩も引かずに告げた。
「成人年齢が十八歳に引き下げられた今、法律上、俺はもう一人前の大人だ。
それに、俺が進学を諦めたのは、うちの家計が破綻しかけているからだろ?
原因もわからないまま、ただ『お金がないから諦めろ』と言われて納得できるわけがない。
――父さん、母さん。俺に、うちの家計の【外科手術】をやらせてくれ」
「外科手術……?」
呆気にとられる両親を前に、俺は自室から愛用のシャープペンシルと、ルーズリーフを取り出してきた。
俺のただならぬ気迫に押されたのか、母はおずおずとリビングの引き出しから分厚い蛇腹ファイルを取り出し、父もため息をつきながら通帳とローンの書類をテーブルに並べた。
散らばった書類の山。
外貨建て保険の証券、残価設定クレジットの契約書、大手キャリアの利用明細書、クレジットカードの明細……。
それらを前に、俺はルーズリーフに大きく円を描いた。
「父さん、母さん。まず、一番大事な事実を教えるよ。
家計ってお金はね、水を注ぎ込む【バケツ】と同じなんだ」
俺は円の底に、ペン先で大きな穴をいくつも描き殴った。
「今、父さんは『収入が減ったからバイトをして水を注ぎ足そう』としている。
母さんは『モヤシを十円安く買って、こぼれる水滴をすくおう』としている。
でもね、底に直径三十センチの大穴が空いているバケツに、どれだけ必死に水を注いでも、全部そのまま地面に垂れ流されるだけなんだよ。
水が溜まらないのは、注ぐ量が足りないからじゃない。
【底に空いた大穴を放置しているから】だ」
「バケツの、大穴……?」
母が不安そうに胸元を押さえる。
「そう、それが【固定費】だ。
食費や光熱費みたいな『変動費』を削るのは、ただの苦行でしかないし、削れてもせいぜい月に数千円だ。
家族の笑顔が消えて、ギスギスして、健康を害して終わる。
そんなものは節約じゃない。
本当にメスを入れなきゃいけないのは、毎月、何もしなくても口座から自動的に引き落とされていく【固定費の怪物】たちなんだ」
俺は電卓を引き寄せ、テーブルの上の明細から数字を拾い上げていった。
「まず、俺の進学資金を吹き飛ばした親戚の美代子おばさんの『米ドル建て終身保険』。毎月三万円。
次に、玄関先にある新車のミニバン。残価設定ローンの支払いが毎月二万五千円、さらに高い車両保険と駐車場代、税金、ガソリン代を合わせれば、車だけで毎月五万円近くが消えている。
そして、家族三人の大手キャリアのスマートフォン代。明細を見ると、不要な補償オプションや使ってもいない動画サービスの月額が山ほど盛られて、三人で毎月二万六千円も払ってる」
カタカタと電卓のキーを叩く音が、静まり返ったリビングに響く。
「固定費だけで、毎月十一万円以上が右から左へ消えている。
父さんの手取りの半分近くが、息をしているだけで自動的にむしり取られているんだ」
「で、でも湊……!」
父が焦ったように身を乗り出した。
「保険は、万が一のことがあった時に家族を守るためのものだし、美代子さんだって『将来のために一番いい商品を特別に案内した』って言ってくれたんだぞ!
車だって、家族で出かけるために必要だし、スマホだって仕事の連絡で使うんだから仕方ないじゃないか!」
「そうよ湊」と母も同調する。
「美代子さんは親戚なのよ? うちを騙すようなことなんてするはずないわ。
それに、途中で保険をやめたら七十万円も損しちゃうんでしょう? 今さら解約なんてできないわよ……」
出た。
典型的な「サンクコスト(埋没費用)の呪縛」と「親戚への義理」だ。
すでに失った七十万円への執着のせいで、これから先も毎月三万円をドブに捨て続けようとしている。
俺は深く息を吸い、ルーズリーフに大きな文字で二つの数字を書いた。
『月5万円の削減』
『資産1,500万円』
「父さん、母さん。中学生でもわかる算数をしよう。
今から俺が言うことを、よく聞いてほしい」
二人が息を呑み、紙の上の数字を見つめる。
「もし、うちが固定費を見直して、【毎月五万円】の支出をカットできたとする。
年間でいくら浮く?」
「え……五万掛ける十二ヶ月だから、年間で【六十万円】……か?」
「そうだ、年間六十万円だ。
じゃあ父さん、この『年間六十万円の不労所得(手取り)』を、投資の利回りで生み出そうとしたら、元本がいくら必要だと思う?」
「えっ……? と、投資の元本……?」
金融知識のない父が目を白黒させる。俺は容赦なく数式を展開した。
「世界中の大富豪や機関投資家が目標にする、現実的で堅実な資産運用の利回りは【年利4%】だ。
しかも、投資で得た利益には約二十%の税金がかかるから、税引き前の利回りで考えなきゃいけない。
税金を引いた後の手取りで、毎年確実に六十万円の現金を生み出すために必要な資産額――
それは【1,500万円】だ」
「い、一千五百万円……!?」
母が小さく悲鳴を上げた。
「そうだよ。千五百万円の現金を年利四%で運用して、ようやく手に入るのが年間六十万円のキャッシュだ。
逆を言えばね――
【毎月五万円の固定費を削る】ということは、銀行口座に【非課税で利回り4%を生み出す資産1,500万円】が突然降ってきたのと、まったく同じ経済的価値があるんだよ!」
ドンッ、とルーズリーフを指先で叩いた。
リビングが凍りついたように静まり返る。
父の表情が強張り、母の瞳が大きく見開かれていた。
ただの「節約」という言葉では響かなかった二人の脳天に、「千五百万円の資産価値」という冷徹な数字が直撃したのだ。
「千五百万円……。うちが、そんな大金を持ってるわけがない……」
父が震える声で呟いた。
「持ってないよ。でも、毎月五万円を垂れ流しているってことは、千五百万円の資産をドブに捨てているのと同義なんだ。
逆に、この大穴を塞ぎさえすれば、うちは今日この瞬間から、千五百万円の資産家と同じだけのキャッシュフローを手に入れられるんだよ。
これ以上のハイリターンな投資が、この世のどこにある?」
源蔵の言葉が、俺の口を通して両親を揺さぶっていた。
リスクはゼロ。元手もゼロ。
ただ無駄な契約を打ち切るだけで、年間六十万円、十年で六百万円、二十年で一千二百万円もの純現金が手元に残るのだ。
「湊……。でも、車を売ったり保険をやめたりしたら、生活が成り立たなくなるんじゃないのか……?」
なおも不安そうに尋ねる父に、俺は不敵に笑ってみせた。
「生活水準は一ミリも落とさないよ。
スマホは格安SIMに乗り換えるだけで、通信品質はそのままで家族で月一万五千円以上浮く。
車は、あの見栄っ張りな残クレのミニバンを一刻も早く売却して、現金で買える中古の軽自動車に乗り換える。それだけで毎月のローンとバカ高い任意保険、ガソリン代が浮いて月三万円以上のプラスだ。
そして何より――美代子おばさんのドル建て保険だ。
あれを今すぐ解約して、月三万円の流出を止める」
「で、でも美代子さん、なんて言うかしら……」
母がおろおろと視線を彷徨わせる。
「親戚の顔色を窺って、息子の大学進学資金をドブに捨てるのかい?
美代子おばさんは、自分の営業成績と手数料のために、うちの無知につけ込んだんだよ。
情けをかける必要なんて一ミリもない」
俺が言い放ったその時だった。
ピンポーン――。
玄関のインターホンが、間の抜けた音を立てて鳴り響いた。
続いて、聞き覚えのある甲高い、よく通る中年女性の声が響いてきた。
「健一さーん! 由美子さーん! 美代子よー!
保険の解約の手続き書類の件で、ちょっとお話しがあって寄らせてもらったわー!」
母の顔から血の気が引いた。
父がビクッと肩を跳ね上がらせる。
テーブルの上に散らばる、元本割れした外貨建て保険の証券。
解約を引き止め、さらに別のクソ商品を売りつけにきたに違いない。
俺はスッと立ち上がり、冷徹な目で玄関の方向を見据えた。
「……ちょうどいいカモが、向こうからネギを背負ってやってきたみたいだね」
「み、湊……!?」
「父さんも母さんも、黙って座ってて。
――うちのバケツの大穴、まず俺が一つ塞いで見せるよ」
資本主義の洗礼を受けた十八歳の、最初の防衛戦の幕が上がろうとしていた。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/高校3年生(進学断念・家計再建中)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円
・【今日の源蔵のマネー格言】:「月5万円の固定費を削る奴は、1,500万円の資産を持ってる奴と同じだ。我慢の節約でモヤシを数える前に、構造の欠陥をブチ壊せ」
読んでいただきありがとうございます。
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