EP 3
「学校は都合のいい納税者を作る工場だ」
「……教えてくれ、じいさん。俺に、資本家のルールを教えてくれ!」
頭を下げた俺の言葉が、静まり返った病室に響いた。
ベッドの上の九条源蔵は、獲物を値踏みするような獰猛な目を細め、ニヤリと口角を吊り上げた。
「いい返事だ。頭を下げるってのはタダだからな。だが坊主、さっきも言った通り、俺はお前に金は一円も恵んでやらんぞ。
俺が授けるのは『一億円を刷り出す脳みそ』と『魚の釣り方、網の編み方』だけだ。ここから先は、義務教育という名のぬるま湯じゃねえ。資本主義という名の、ルール無用のサファリパークだと思え」
「望むところだ。……どうせ俺は、高校を出たら地元の工場で一生を終えるはずだったんだ。失うものなんて最初から何もない」
「ケッ、威勢だけはいいじゃねえか。なら、まずその錆びついた頭を綺麗サッパリ洗い流してやる。
お前、さっき『大学へ行って経済を学びたかった』って言ったな?」
源蔵はベッドサイドテーブルから湯呑みを引き寄せ、ほうじ茶を喉に流し込んだ。
「ああ。国公立の経済学部に行って、大企業に就職して、まっとうに稼ぐのが一番安全で確実な人生設計だと思ってた」
「ハッ! 反吐が出るほどテンプレな思考停止だな」
源蔵は鼻で笑い、骨張った指を俺に突きつけた。
「いいか坊主。日本の学校教育ってのが、そもそも何を目的として作られたシステムか考えたことがあるか?
朝八時半にチャイムで席に着かされ、一律同じ教科書を開かされ、前を向いて五十分間じっと我慢する。出る杭は打たれ、協調性を叩き込まれ、テストの点数という単一の物差しで序列をつけられる。
――あれはな、学問を修める場なんかじゃねえ。
文句も言わずに毎朝満員電車に揺られ、上司の命令に従って正確に作業をこなし、期日通りに税金を納めてくれる【都合のいい歯車】を大量生産するための工場なんだよ」
心臓を冷たい指で掴まれたような感覚がした。
小学校から高校まで、十二年間当たり前のように受けてきた教育。
それを「都合のいい歯車を作る工場」と言い切るこの老人の視線は、あまりにも容赦がない。
「考えてもみろ。お前らは十二年間も学校に通っておきながら、なぜ『税金の仕組み』も『社会保険の計算方法』も『複利の破壊力』も、何一つ教わらないんだ?
三角関数や古文の助動詞は必死に暗記させるくせに、確定申告のやり方は教科書のどこにも載ってねえ。
なぜだと思う? 答えは極めてシンプルだ。
国家と支配層にとって、【民衆にお金の知識を持たれたら困る】からだよ」
「……困る?」
「当たり前だろ。全員が賢くなって合法的に節税し、労働者を辞めて資本家になっちまったら、誰が現場で泥まみれになって汗を流す? 誰が黙って給料から四割も五割も税金を天引きさせてくれるんだ?
だから国は、羊たちに余計な知恵をつけさせねえようにしてんだよ。『真面目に勉強して、いい大学に入って、いい会社で定年まで勤め上げることが美徳だ』という巨大な洗脳プログラムを刷り込んでな」
源蔵はベッドテーブルの上にあったノートPCをパタンと引き寄せ、一枚のエクセルシートを開いて俺に見せた。
「さあ、現実のホラー映画を見せてやる。
お前の父親……健一さんだったか。彼が毎月もらっている給料明細の数字を、中学生でもわかる算数で暴いてみようじゃねえか」
画面には、典型的なサラリーマンの給与モデルが示されていた。
「仮に、額面の月給が三十万円のサラリーマンがいるとする。年収にしてボーナス込みで約四百五十万円だな。
本人は『俺は毎月三十万円稼いでいる』と錯覚してる。だが、銀行口座に振り込まれる手取り額はいくらだ?」
「えっと……二十三、四万円くらい、ですか?」
「そうだ。差額の約六万から七万円はどこへ消えた?
まず引かれるのが【所得税】と【住民税】だ。だが、そんなものは前座にすぎねえ。
日本のサラリーマンから最も容赦なく金を毟り取っている真の怪物は、税金という看板すら掲げていない【社会保険料】だ」
源蔵はエンターキーを叩き、控除の内訳を赤文字で強調した。
「【健康保険料】【厚生年金保険料】、そして【雇用保険料】。
この三つを合わせると、給与の約一五%が自動的に天引きされる。月給三十万なら、毎月約四万五千円が右から左へ消えていく。
だがな坊主、本当の地獄はここからだ。
学校では絶対に教えない、社会保険料の最大の詐欺トリックを教えてやる。
――【労使折半】って言葉を聞いたことがあるか?」
「労使折半……会社と従業員が、半分ずつ保険料を払うっていう……」
「そうだ。給料明細には『従業員負担分の四万五千円』しか書かれてねえ。だから情弱なサラリーマンどもは『会社が半分払ってくれてありがたいなぁ』と呑気に感謝してやがる。
だが、経営者の視点に立ってみろ。
会社はな、その従業員を雇うために、裏で同額の四万五千円を社会保険料として国に納めてるんだよ!
つまり、会社にとってその社員を一人雇うコストは、月給三十万円じゃねえ。【三十四万五千円】なんだ。
会社が支払った三十四万五千円の人件費のうち、労働者の手元に残るのはたったの二十三万円。
残りの十一万五千円――実に【全体の三分の一以上】が、本人の口座に入る前に国と自治体にピンハネされてるんだよ!」
「三、分の一……っ!?」
喉がカラカラに渇いた。
十一万五千円。毎月、それだけの金額が消えている?
「さらに追い打ちをかけてやる。
そうやって手取り二十三万円を受け取ったサラリーマンは、スーパーで買い物をすれば一〇%の【消費税】を取られる。ガソリンを入れれば半分近くが【ガソリン税】だ。酒を飲めば【酒税】、タバコを吸えば【タバコ税】、家を買えば【固定資産税】……!
全部合算してみろ。稼いだ富の半分近くを、国に上納させられてる計算になる。
江戸時代の農民ですら『四公六民(収穫の四割を年貢として納める)』だぞ?
今の日本で真面目に働く労働者はな、一揆も起こさずに大人しく五公五民を受け入れている、中世の農奴より従順な奴隷なんだよ」
容赦のない数字の羅列が、俺の脳髄を乱打する。
父さんの姿が重なった。
残業続きで目の下に隈を作り、疲れ果てて帰宅して、発泡酒を喉に流し込んでいた父さん。
真面目に、誠実に、誰の迷惑もかけずに生きてきたはずの父さんが、なぜいつもお金の心配ばかりしていたのか。
理由は明白だった。
努力が足りなかったんじゃない。
ただ単に、最初からそういう「搾取される仕組み」の中に組み込まれていたのだ。
「……どうして、そんな理不尽が許されてるんだよ」
拳を握りしめ、掠れた声で問いかける俺に、源蔵は満足そうに目を細めた。
「いい怒りだ、坊主。その怒りを忘れるな。
じゃあ、なぜそんなルールになっているのか。そして、なぜ富裕層と呼ばれる連中は涼しい顔をして資産を増やし続けているのか……その核心を教えてやる。
フランスの経済学者トマ・ピケティが、二世紀以上にわたる膨大なデータを分析して証明した、資本主義の絶対法則だ」
源蔵はメモ帳に、巨大な文字で数式を書き殴った。
r > g
「あール……大なり、ジー?」
「そうだ。不等式一つだ、中学生でも覚えられる。
左の『r』は【資本収益率(Rate of return)】。株や不動産、事業といった『資産』から得られる富の成長スピードだ。歴史的に見ても、これは平均して【年利四〜五%】で増え続ける。
そして右の『g』は【経済成長率(Growth rate)】。つまり、国全体の経済の伸びであり、労働者の【給料の伸び率】のことだ。先進国におけるこれは、せいぜい【年利一〜二%】、今の日本に至ってはほぼゼロ%だ」
源蔵はペン先で『>』の記号を激しく叩いた。
「何が言いたいかわかるか?
どれだけ真面目に汗水垂らして働いても、労働者の給料が伸びるスピード(g)は、資本家が資産を転がして増やすスピード(r)に【絶対に追いつけない】ってことだ。
資産を持つ者はますます富み、自分の身体一つで働く者はますます貧しくなる。
努力の差じゃない。
資本主義というゲームの基本プログラムそのものが、最初から『格差が広がり続ける』ようにコーディングされてるんだよ」
全身に鳥肌が立った。
世界中の富裕層がますます裕福になり、中間層が没落していくニュースの裏側には、このシンプルな不等式が存在していたのだ。
「そしてな、坊主。この国は、その不平等を是正するどころか、資本家に対してとんでもねえ『チートコード』を用意してやがる」
「チートコード……?」
「税制だ。
労働者の給料は【総合課税・累進課税】だ。稼げば稼ぐほど税率が跳ね上がり、所得税と住民税を合わせると【最高五五%】まで持っていかれる。額に汗して年収一億円を稼いだプロスポーツ選手や大企業役員は、半分以上の五千五百万円以上を国に没収されるわけだ。
……じゃあ、俺みてえな資本家が、株を売っ払って一億円の利益を出した時、税金はいくら取られると思う?」
「半分以上……五五%、ですか?」
「ブーッ! 大ハズレだ」
源蔵は意地の悪い笑みを浮かべ、二本の指を立てた。
「【約二〇%】だ。
正確には、所得税一五%+住民税五%+復興特別所得税で【二〇・三一五%】。
株の配当や売却益はな、【申告分離課税】といって、どれだけ何十億、何百億稼ごうが、税率は一律二〇・三一五%で頭打ちになる。社会保険料の天引きすらねえ。
一億円を働いて稼いだ奴隷は五千五百万円毟り取られ、
一億円をパソコンの前でクリックして稼いだ資本家は、八千万円近い手取りを丸々ポッケに突っ込める。
――これが、この国を支配する者たちが自分たちのために作った、法律の正体だ」
「な……んだよ、それ……」
目眩がした。
あまりにも理不尽で、あまりにも残酷で、そして――吐き気がするほど合理的だった。
同級生たちの顔が脳裏をよぎる。
親の脛をかじって、年間百数十万もの学費を払い、東京の私立大学へ行く拓海。
「高卒の男なんてあり得ない」と蔑みの目を向けた凛。
彼らは四年後、何百万円もの奨学金という借金を背負い、就職活動という名の品評会に並び、「時給の高いスコップ」を持たされるためだけに必死になるのだ。
そして一生、五公五民の税金を搾り取られ続ける。
そのレールから外れたことを、俺は昨夜まで「人生の終わり」だと絶望していた。
だが、違ったのだ。
俺はただ、奴隷船の漕ぎ手になる権利を失っただけにすぎない。
「……じいさん」
俺の声から、迷いが消えていた。
「俺は、スコップを振るう側には戻らない。
資本家の席に座る。
学校が教えてくれないなら、あんたからそのルールを全部奪い取ってやる」
源蔵は腕を組み、満足そうに鼻を鳴らした。
「へっ、少しは面の皮が引き締まったじゃねえか。
いい面構えだ。だがな坊主、威勢だけで資本家になれるなら世の中億万長者だらけだ。
言ったはずだぞ、俺はお前に一円の金もやらねえと。
今のてめえの軍資金はいくらだ?」
「……三万二千円だ。高校のバイト代の残り」
「ハッ、雀の涙だな! だが上等だ。
どんな巨大な資本家も、最初は小さな種銭から雪だるまを転がし始めたんだ。
いいか倉科湊、てめえに最初の実戦課題を与えてやる」
源蔵の瞳が、獲物を狙う鷹のようにギラリと光った。
「これから家に帰ったら、一円も稼ごうとするな。
金儲けなんざ後回しだ。
まずやるべきは――【お前の実家のバケツに空いた大穴を塞ぐこと】だ」
「バケツの穴……?」
「そうだ。底に大穴が空いたバケツに、どれだけ必死に水を注ぎ込んでも一滴も溜まらねえだろ。
お前の実家の家計から、毎月垂れ流されている無駄金を徹底的に洗い出せ。
目標は【毎月五万円の固定費削減】だ。
来週までにこれを達成して報告に来い。
できなきゃてめえはただの口先野郎だ。二度とこの病室の敷居を跨ぐんじゃねえぞ」
「毎月五万円の削減……」
俺は息を呑み、強く頷いた。
「やってやるよ。必ず穴を塞いでみせる」
病室の重い扉を開け、俺は廊下へと踏み出した。
昨日までと同じ風景のはずなのに、目に入るすべてのものが違って見えていた。
資本主義の正体を知った俺の、最初の戦いがここから始まる。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/高校3年生(進学断念・資本主義修行開始)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円
・【今日の源蔵のマネー格言】:「労働者はどれだけ稼いでも最高税率55%で毟り取られ、資本家はどれだけ稼いでも約20%で済む。どちらの側で生きるか、決めるのはてめえ自身だ」
読んでいただきありがとうございます。
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