EP 2
1泊5万円の特別個室と、300万円のデイトレード
県立中央総合病院の最上階、八階のエレベーターホールに降り立った瞬間、俺は思わず自分の履いている履き古したスニーカーを見下ろしてしまった。
一階の受付や待合室の喧騒が嘘のように消え失せ、フロア全体に静けさが広がっている。
足元には足音を完全に吸い込む深い毛足の絨毯が敷き詰められ、壁には柔らかな間接照明と抽象画が飾られていた。消毒液のツンとした匂いすらしない。漂っているのは、高級ホテルのロビーと同じアロマの香りだった。
「……特別フロア、か」
昨日、公園で倒れたあのジャージ姿の老人を救急車に乗せた際、救急隊員に連絡先として自分の名前と携帯番号を伝えていた。
すると今朝、病院のコンシェルジュと名乗る丁寧な女性から電話が入ったのだ。
『昨日搬送された患者様が、意識を取り戻されまして。「命を救ってくれた坊主を連れてこい」と仰っております。恐れ入りますが、八階の特別室までお越しいただけますでしょうか』
案内板に目をやると、フロアの利用案内が金色のプレートで掲げられていた。
『特別個室A:室料差額 一日五〇,〇〇〇円(税別)』
(い、一泊五万……!?)
息が止まりそうになった。
保険の適用外となる「差額ベッド代」だけで、一泊五万円。一ヶ月入院すればそれだけで百五十万円が吹き飛ぶ計算だ。俺の家が外貨建て保険の元本割れで失った七十万円など、この部屋の半月分の室料にも満たない。
案内された最奥の部屋――『801号室』の重厚な木製ドアの前に立つ。
本当にあのヨレヨレのジャージを着たじいさんがここにいるのか?
人違いじゃないのかと疑いながら、俺は恐る恐るノックをした。
「失礼します……。昨日救急車を呼んだ、倉科湊ですが……」
「おう、開いてるぞ。入れ!」
中から返ってきたのは、昨日死にかけていた人間とは思えないほど野太く、張りのあるダミ声だった。
ドアを押し開けて足を踏み入れた俺は、目の前の光景に完全に言葉を失った。
二十畳はあろうかという広々とした病室の中央、高級リクライニングベッドの上で、白髪の老人が胡座をかいていた。
昨日の汚れたジャージではなく、仕立ての良いシルクのパジャマを羽織っている。点滴スタンドを脇に退け、ベッドテーブルの上に置かれていたのは――二台の超薄型ノートPCと、折りたたみ式のモバイルモニターだった。
「カチャカチャ、ターンッ!」
軽快かつ暴力的なタイピング音が室内に響く。
画面には、緑と赤の無数のバーが激しく上下するローソク足チャートと、秒単位で凄まじいスピードで数字が書き換わる「板情報」が映し出されていた。
「……へっ、甘ぇんだよ機関投資家が。見せ板で個人をふるい落とす気配丸出しじゃねえか。底で全部拾ってやるよ」
老人はニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべ、マウスをクリックした。
画面の数字が一瞬で跳ね上がる。
緑色のプラス表示とともに、右下の取引ログに確定損益のポップアップが表示された。
『約定通知:+3,120,000円』
「よし、利確だ。……朝の小遣い稼ぎはこれくらいでいいだろ」
パタン、とノートPCを閉じた老人が、ぎょろりとした鋭い眼光を俺に向けた。
「お、おい……嘘だろ……?」
俺の口から、掠れた声が漏れ出た。
今、俺は何を見た?
たった数クリック。三分にも満たない時間で、画面の中の数字が『三百万円』増えた……?
父さんが毎月汗水垂らして夜勤までこなして稼ぐ手取りが、二十数万円だ。
俺が高校の三年間、部活の合間を縫ってファミレスの厨房で必死に皿を洗い、時給九百円で稼いだ預金の全額が、たったの三万二千円だ。
そのすべてを嘲笑うかのような光景が、病院のベッドの上で繰り広げられていた。
「なんだ坊主、突っ立ってねえでそこらへんのソファに座れ。茶の一杯も出したいところだが、生憎とここは病室でな」
老人はベッドから身を起こすと、昨日俺のジャージを掴んだ骨張った手で、サイドテーブルのミネラルウォーターをゴクリと飲み干した。
「じいさん……あんた、一体何者なんだ……?」
「昨日名乗りそびれたな。俺は九条源蔵だ。しがない隠居ジジイさ。昨日は助かったぜ、倉科湊。あのまま公園で野垂れ死ぬところだった。お前の迅速な119番と気道確保、それに首筋を冷やした判断は見事だったな。当直医が『あと十分遅れてたら心停止して脳をやられてた』って褒めてたぞ」
「……助かってよかったよ。でも、その……さっきの画面は……」
「ああん? これか? ただの株式のデイトレードだ。寄り付きの数分間、値動きの歪みを突いて小銭を掠め取っただけの手慰みよ」
小銭。
三百万円を「小銭」と言い切った。
全身の血が逆流するような感覚を覚えながら、俺は乾いた喉を鳴らした。
「……三百万円が、小銭なのかよ」
「ん? なんだ坊主、妙に暗い顔してやがるな。命の恩人がそんな通夜みてえな面してちゃ、助けられた俺まで気が滅入るぜ。何か気に食わねえことでもあったのか?」
源蔵の遠慮のない問いかけに、俺の胸の中でせき止められていた感情のダムが、決壊した。
見ず知らずの他人に話すことじゃない。みっともない愚痴だ。
けれど、昨日の親の告白と、目の前で展開された「数分で三百万円」という現実のギャップに、俺の精神は限界を迎えていた。
「……俺の家、昨日破綻したんだ」
「破綻?」
「親父とお袋が、親戚の保険屋に勧められて外貨建ての貯蓄型保険に毎月金を注ぎ込んでた。大学の学費にするはずだったのに、途中で払えなくなって解約したら七十万も元本割れした。おまけにディーラーの口車に乗せられて残クレで高いミニバンを買わされてて、金利だけで毎月何万も毟り取られてた。……貯金はゼロだ。俺の進学資金は消えた」
握りしめた拳の爪が、手のひらに深く食い込む。
「俺、評定4.8取って、国立の推薦受けるつもりだったんだ。でも、全部白紙だ。春からは地元の工場に高卒で就職するしかない。同級生には『高卒は人生ハードモード確定w』って笑われて、彼女にも振られる予定だ。……あんたが数分でクリックして稼いだ三百万円があれば、俺は四年間大学に通えたんだよ! 俺の人生、始まる前から終了なんだよ……っ!」
静まり返った特別個室に、俺の荒い呼吸だけが響いた。
言ってしまった。八つ当たりもいいところだ。命を助けた相手に、金を恵んでくれと言わんばかりの醜い嫉妬。
殴られるか、怒鳴りつけられて追い出されることを覚悟した。
だが――。
「……ぶはっ」
源蔵の肩が、小刻みに震えていた。
「ぶははははははッ! ぎゃはははははははッ!!」
突然、腹を抱えて爆笑し始めたのだ。
病室の窓ガラスがビリビリと共鳴するほどの、豪快で容赦のない大爆笑だった。
「な、何がおかしいんだよ……っ! 俺は真剣に――」
「おかしいに決まってんだろ! 腹が痛え、心臓の手術痕が開いちまうわ!」
源蔵は目尻に涙を浮かべながら、ベッドのシーツをバンバンと叩いた。
「高卒だから人生終了? 大学に行けねえからハードモード? ケッ、笑わせんじゃねえぞ坊主! お前、自分が何を言ってるのか分かってんのか? まだゲーム盤の前に座ってもいねえガキが、『ルールブックの表紙に泥がついたから負けました』って泣き喚いてるのと一緒だぞ!」
「な……!?」
「いいか湊。お前の親父さんをカモにした保険屋も、ディーラーも、そしてお前を笑う同級生も、果てはお前自身もだ――全員揃いも揃って、この【資本主義というゲームのルール】を何一つ知らねえんだよ」
源蔵の笑みがスッと消え、その瞳に底知れない深みと冷徹な光が宿った。
彼は閉じたノートPCの天板を、トントンと指先で叩いた。
「坊主。お前、さっき俺が稼いだ三百万を見て『皿洗い何千時間分だ』って頭の中で計算しただろ」
「……っ、なんでそれを……」
「目を見りゃわかる。それが【労働者脳】の限界だ。お前ら一般人はな、金を稼ぐ方法を『自分の時間と体力を切り売りすること』しか教えられてねえんだよ」
源蔵はベッドサイドからメモ帳とボールペンを引っ張り出し、サラサラと一本の横線を引いた。
「中学生でもわかる算数をしてやる。耳の穴かっぽじってよく聞け。
世の中の収入には、根本的に二種類しかねえ。
一つは【労働収入】。もう一つが【資本収入】だ」
老人はメモ帳の左側に『労働』、右側に『資本』と殴り書いた。
「労働収入ってのは、お前がやってる時給九百円のバイトや、お前の親父さんのサラリーマン給料、そしてお前が憧れてた『大卒エリートの初任給』も全部これだ。
特徴は単純だ。『自分の身体一つ』を担保にして、時間を切り売りして金に換える。
だがな、人間の一日は何時間だ?」
「……二十四時間だ」
「そうだ。どんな天才でも、ビル・ゲイツでも、一日二十四時間しかねえ。飯も食えばクソも漏らすし、寝なきゃ死ぬ。つまり、労働収入ってのは構造上、【稼げる上限が絶対に決まってる】んだよ。お前が不眠不休で二十四時間皿を洗っても、一日二万円ぽっちが限界だ。
おまけに、身体を壊して動けなくなったらどうなる? 収入は一瞬でゼロだ。昨日のお前んちの親父さんみたいにな、残業代やボーナスをカットされただけで家計が即死する脆い砂上の楼閣なんだよ」
源蔵の言葉が、鋭いメスのように俺の胸を抉る。
父さんの疲れた顔、母さんの震える肩。まさにその通りだった。
「じゃあ……さっきの三百万はなんなんだよ」
「それが右側、【資本収入】だ」
源蔵はメモの『資本』の文字をペン先で強く突いた。
「わかりやすく例えてやる。
ここに深さ十メートルの巨大な穴を掘る仕事があるとする。
労働者ってのはな、自分の素手や小さなスコップを握りしめて、炎天下で汗水垂らして毎日泥だらけになって穴を掘る連中のことだ。どんなに真面目に頑張っても、掘れる土の量はたかが知れてる。
じゃあ、資本家はどうするか?」
源蔵はニヤリと笑った。
「資本家はな、自分でスコップなんか握らねえ。金を払って『巨大なショベルカー(資本)』を調達するんだ。そしてそのショベルカーを誰かに貸し出すか、自動で動かして、レバー一本で労働者百人分、千人分の土を一瞬で掘り出させる。
ショベルカーは疲れたなんて愚痴は言わねえし、文句も言わずに二十四時間働き続ける。
さっきの株取引も同じだ。俺の代わりに、俺が投入した『資本という名の兵隊』が市場で勝手に戦って、三百万円の利益を掠め取って帰ってきただけだ。俺がやったのは、どの戦場に兵隊を送り込むか判断して、指先をピクッと動かしただけよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
素手で穴を掘る人間と、ショベルカーを所有する人間。
両者の間に横たわっているのは、努力の量でも、学歴の差でもない。
「……ルールが、違いすぎる」
「やっと気づいたか。大学を出て大企業に入ったってな、所詮は『ちょっと時給の高いスコップ』を持たされるだけの高級奴隷にすぎねえんだよ。
資本主義ってゲームの勝者はいつだって、スコップを振るう奴じゃなく、スコップやショベルカーを所有して他人に振るわせる『資本家』なんだよ」
源蔵はメモ帳を放り出すと、腕を組んで俺を真っ直ぐに見据えた。
「高卒だから人生終了だと? ヘソが茶を沸かすぜ。
目的もなく周りに流されて大学へ行き、奨学金という名の借金を何百万円も背負って、四年間を遊んで溶かす大半の大学生どもに比べりゃな……十八歳でこの残酷な現実にぶち当たったお前は、むしろスタートラインに立つ資格を得たんだよ」
「俺が……スタートラインに?」
「そうだ。いいか坊主、お前が昨日俺を助けたおかげで、俺の寿命はもう少しだけ伸びた。
俺は恩を仇で返すような無粋な生き方はしてねえ。……どうだ? 高卒で手取り十四万の工場で一生を終えるのが嫌なら、俺がこの病室にいる半年間、お前に『資本主義の攻略法』を叩き込んでやろうか?」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
目の前にいるのは、一代で途方もない富を築き上げた本物の資本家だ。
もしこの人から、金を生み出す技術を学べたなら――。
「ほ、本当か……!? あんたが、俺に投資してくれるのか!?」
すがるように身を乗り出した俺を見て、源蔵は再び口元を吊り上げた。
だが、その笑みは先ほどよりも遥かに冷徹で、獰猛だった。
「勘違いすんなよ、甘ったれが。金なんぞ一円も恵んでやる気はねえよ」
「え……?」
「魚を恵んでもらった乞食は、魚を食い尽くしたらまた飢えて死ぬだけだ。
俺がやるのは『金』じゃねえ。『一億円を刷り出す脳みそ』と『魚の釣り方、網の編み方』だけだ。
元手はお前が自分の頭と身体で稼ぎ出せ。俺の指導は地獄のように厳しいぞ。……どうする、倉科湊? 大卒どもの見栄の行列に並び直すか、それとも俺から資本家のルールを奪い取ってみせるか?」
病室の空気が、張り詰めた。
金はくれない。頼れるのは、自分の頭と手だけ。
けれど、昨日の公園で感じたあの真っ暗な絶望の底に、一条の凶暴な光が差し込んだのを感じていた。
見下してきた同級生たち。
俺を振って乗り換える元カノ。
親を食い物にした悪質な金融機関。
――全部、この手で見返してやりたい。
「……教えてくれ、じいさん。俺に、資本家のルールを教えてくれ!」
俺は深く、頭を下げた。
源蔵は満足そうに喉を鳴らすと、ベッドの上で不敵に言い放った。
「いい返事だ。合格だ、坊主。――じゃあまず最初の授業だ。なぜ真面目に働く大人ほど貧乏になり、税金で毟り取られるのか……そのクソったれなカラクリを教えてやるよ」
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/高校3年生(進学断念・資本主義修行開始)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円
・【今日の源蔵のマネー格言】:「労働者は自分の時間を切り売りしてスコップを振るう。資本家はショベルカーを所有して他人に振るわせる。お前が目指すべきはどっちだ?」
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