第一章 病室の帝王学と「バケツの穴」の止血編
【プロローグ】1,460日後の答え合わせと、消えた進学資金
シャンパングラスの触れ合う澄んだ音が、豪奢なシャンデリアの下に響いていた。
地元で最も格式高いシティホテル『ホテル・ロイヤルグランド』の最上階グランドボールルーム。
高校を卒業して丸四年、二十一歳になった元同級生たちが集う学年同窓会の会場は、就職活動の愚痴と、東京の大学へ行った連中の見栄の張り合いで熱気を帯びていた。
「よお、倉科! 探したぜ」
わざとらしく大きな声を張り上げて人混みをかき分けてきたのは、金子拓海だった。
高校時代は同じバスケ部のチームメイトだった男だ。彼はイタリア製の高級ブランドのロゴがこれ見よがしにプリントされたクラッチバッグを小脇に抱え、手首のダイバーズウォッチをギラつかせながら俺の前に立った。
「元気そうじゃん、倉科。……あ、悪い悪い。お前、大学行ってないからまだ作業着焼けが残ってんのかな? 地元の工場で段ボール折る仕事だっけ? 毎日同じことの繰り返しで手取り十四万とか、俺なら三日で発狂するわw」
拓海の甲高い笑い声に、周囲の同級生たちがクスクスと同調の笑いを漏らす。
その隣には、拓海の腕に身体を預けるようにして立つ女子がいた。佐伯凛――俺の幼馴染であり、かつて俺が高卒就職を決めた日に「友達に恥ずかしくて紹介できない」と言い放って拓海に乗り換えた元カノだ。
「ちょっと拓海、やめなよぉ。湊くんには湊くんの身の丈に合った人生があるんだからさ」
凛はブランドの香水を漂わせながら、哀れみと優越感が入り混じった瞳で俺を見下ろした。
「でも湊くん、本当に大変そうだね。拓海はね、東京で投資サークルの幹部やってて、もうすぐ大手のIT企業に内定が決まりそうなの。住む世界が違っちゃったね」
二人の哀れみの視線を受けながら、俺――倉科湊は、手に持ったアイスウーロン茶を静かに口に運んだ。
表情は一つも崩さない。怒りも、惨めさも湧かない。ただ、目の前の二人の「財務状況」を頭の中で冷徹に試算していた。
(拓海の時計は月利15%のリボ払い。クラッチバッグは消費者金融の枠いっぱいまで借りて買ったもの。凛の身につけているアクセサリーもすべて見栄のための借金。二人の負債総額は、奨学金と合わせてすでに八百万円を超えているはずだ)
俺が何も言い返さないのを「図星で言葉も出ない」と受け取った拓海が、さらにニヤニヤと口を開こうとした――その瞬間だった。
「失礼いたしますッ! 倉科社長、白石取締役はこちらにおいででしょうか!?」
バンッ、とボールルームの両開きの大扉が勢いよく開け放たれた。
現れたのは、ホテルの総支配人。そしてその後ろから、額に汗を浮かべ、息を切らして駆け込んできた初老の紳士の姿に、会場の空気が一変した。
地元経済界の重鎮であり、誰もがテレビや看板で目にする東証プライム上場企業のグループ企業・代表取締役社長だった。
「ひ、東條社長……!? なんでこんなところに……」
拓海が息を呑み、目を見開く。
だが、社長は拓海など路傍の石ころのように視界にすら入れず、一直線に俺の前へと駆け寄ると、深々と九十度の角度で頭を下げた。
「倉科社長! 先ほど上層部との緊急役員会を終えて参りました! 例のD2Cブランド買収の件、提示させていただいた七千五百万円の全株式取得条件で、何卒……何卒当社に事業をお譲りいただきたいのです!」
「ちょ……え? しゃ、社長……?」
拓海の顎が外れんばかりに落ちた。凛も目を見張り、完全に硬直している。
会場にいたすべての同級生が、静まり返った。
その時、俺の隣に一人の女性がすっと寄り添った。
艶やかな黒髪を揺らし、仕立ての良いネイビーのスーツを凛々しく着こなした、誰もが見惚れるほどの美女――白石詩織だった。
「湊くん、相手側のデューデリジェンス資料の再確認、終わったよ。条件を呑んでもこちらの利益率は一切毀損しないわ」
「ありがとう、詩織。……東條社長、条件書を拝見しましょう。別室へ」
俺が静かに頷いた瞬間、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。
画面を覗き込むと、ネットバンキングのアプリから定期入金の通知が届いていた。
『総資産残高:102,450,000円』
九桁の数字。
純資産一億円の突破だった。
呆然と立ち尽くす拓海と凛を横目に、俺は歩き出す。
――ここまで、ちょうど一、四六〇日。
時計の針を、すべてが始まったあの地獄のような「高校三年の夏」へと巻き戻そう。
◇ ◇ ◇
四年前、八月。
茹だるような暑さの午後、実家のリビングには重苦しい沈黙が垂れ込めていた。
「……湊、本当にすまない。お前の大学の学費、出せなくなった」
ダイニングテーブルの向かい側で、父・健一が深々と頭を下げていた。
隣では母の由美子がハンカチを目元に押し当て、肩を震わせている。
テーブルの上に置かれていたのは、数枚の保険証券と、自動車ローンの返済予定表だった。
「え……? 父さん、何言ってるんだよ。学資保険、俺が生まれた時から積み立ててくれてたんじゃ……」
俺は必死に声を絞り出した。
バスケ部で汗を流しながらも、俺は推薦や国公立大学の受験を見据えて評定平均4.8を維持し続けてきた。すべては、地元の中小企業に勤める両親に余計な負担をかけず、大学で経済を学ぶためだった。
「その、学資保険なんだがな……五年前、親戚の保険外交員に勧められて、より利回りが良いっていう『米ドル建ての貯蓄型終身保険』に乗り換えたんだ。『銀行に預けても金利はゼロ。これならドルの高金利で二十年後には学費どころか老後資金まで倍になる』って言われて……」
父が差し出してきた証券を奪い取るようにして確認した俺は、背筋が凍りつくのを感じた。
「……解約返戻金、たったこれだけしかないの?」
「円安が進んだ時期に無理して毎月三万円ずつ払ってたんだが……去年から会社のボーナスがカットされて、支払いが苦しくなってな。先週、窓口に解約の手続きに行ったら……」
父が声を詰まらせる。
五年間で支払った保険料の累計は、約百八十万円。
それに対して、今解約して戻ってくる「解約返戻金」の欄に印字されていた数字は――わずか【百十万円】だった。
(元本割れ……マイナス七十万円!? なんで貯蓄なのに金が減ってるんだ!?)
後に知ることになるのだが、これが日本の金融機関が情報弱者をカモにする最大の罠、【外貨建て貯蓄型保険のからくり】だった。
仕組みは極めて残酷だ。
「貯蓄」という甘い言葉を使いながら、客が支払った掛け金からは、莫大な「保険関係費(販売手数料)」や「資産運用関係費」、さらには「外貨両替手数料」が天引きされる。
契約初期の数年間は、支払った金の三割から四割近くが保険会社と外交員の懐に消えるシステムになっているのだ。中学生にでもわかる比喩を使うなら、「百円のリンゴを買うために、三百円の豪華な包装紙代を強制的に払わされている」状態である。
途中で解約すれば「解約控除」という名目でさらにペナルティを毟り取られ、元本割れを起こして大損するようにできているのだ。
「それに……これもあるのよね……」
母が泣きそうな声で差し出したのは、玄関先に停めてある真新しいミニバンの書類だった。
「残価設定型クレジット……残クレ?」
「ディーラーの営業さんがね、『月々二万円台でピカピカのファミリーカーに乗れますよ』って……。湊や妹を旅行に連れて行ってやりたくて……」
俺は頭を抱えた。
残価設定ローン――いわゆる残クレ。
車両価格四百万円の車を、五年後の下取り価格(残価)を百五十万円と仮定し、残りの二百五十万円だけを分割払いする仕組みだ。一見すると月々の支払いが安く見える。
だが、この金融商品の本質は「悪魔の二重搾取」だ。
金利は、据え置いたはずの【百五十万円の残価に対しても丸々かかり続ける】。
車両本体の四百万円全体に対して年利四〜五%の金利を毎月払い続けているのと変わらない。五年間で払う金利手数料だけで数十万円がドブに消え、さらに月々のボーナス払いや車検代、高い任意保険料が家計の首を絞め上げていた。
結果として、実家の貯金は完全に底をついていた。
大学の入学金や初年度の学費を払う金は、一円も残っていなかったのだ。
「奨学金……有利子の奨学金を借りていく手もあるけれど、湊に四百万円以上もの借金を背負わせて社会に出すなんて、父さんたちにはできない……ッ!」
父は拳を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
両親を責める気にはなれなかった。二人は決して贅沢をしたわけじゃない。パチンコも競馬もしない、真面目に汗水垂らして働く善人だ。ただ――「お金の知識(金融リテラシー)」が完全にゼロだっただけなのだ。
そして資本主義社会という戦場において、「無知」はどんな悪徳よりも高くつく致命傷になる。
「……わかった。俺、就職するよ」
自分の口から出た言葉なのに、どこか遠くの他人が喋っているように聞こえた。
「湊……っ!」
「学校に求人票、いくつか来てたから。高卒で働いて、少しでも家にお金入れるよ」
リビングを飛び出し、俺は逃げるように家を出た。
◇ ◇ ◇
「クソッ……! なんでだよ……ッ!」
真夏の太陽が照りつける午後三時。
俺は近所の児童公園のストリートバスケットコートにいた。
汗まみれになりながら、一人でボールをダムダムとアスファルトに叩きつける。
レイアップシュートを放つが、リングに弾かれて虚しく転がった。
頭の中を、同級生たちの顔がよぎる。
親の金で当たり前のように東京の私立大学へ行く拓海。
「高卒の男なんてあり得ない」と笑うだろう凛。
これから自分を待ち受けている「高卒・低賃金労働者」という名のレール。
(俺の人生、始まる前からハードモード確定かよ……っ!)
悔しさと無力感で視界が歪んだ。
息を切らし、膝に手をついたその時だった。
「ぐ、うッ……! はぁ、はぁっ……!」
コート脇の木陰にあるベンチから、絞り出すような苦悶の呻き声が聞こえた。
「え……?」
見ると、ヨレヨレのジャージを着た白髪の老人が、胸をかきむしるようにして地面に崩れ落ちていた。
顔色は土気色を通り越して紫色に変色し、呼吸は浅く荒い。
「じ、じいさん!? おい、大丈夫か!?」
俺はボールを放り出し、老人の元へ猛ダッシュした。
老人は胸を押さえたまま、痙攣するように身体を震わせている。ベンチの下には、老人の手から滑り落ちたと思われる小さなピルケースが転がっていた。
(狭心症……!? いや、心筋梗塞か!?)
バスケ部の救急講習で習った知識が脳内を駆け巡る。
俺は即座にポケットからスマートフォンを取り出し、画面を叩いた。
「119番……! もしもし! 救急です! 緑町中央公園の北側バスケットコート脇のベンチです! 七十代くらいの男性が胸を押さえて倒れて意識が朦朧としています! 呼吸はありますが浅いです、早く来てください!」
住所と状況を一気にまくしたてると、俺は老人の首元のジャージのファスナーを下げて気道を確保した。
真夏の炎天下だ。熱中症の併発も危険すぎる。
俺は持っていた冷たいスポーツドリンクのペットボトルを老人の首筋と脇の下に当て、老人の耳元で必死に声をかけ続けた。
「おい! 聞こえるかじいさん! 目を開けろ! 息を吸え! もうすぐ救急車が来るからな!」
「う、ぐ……が……ッ」
老人の瞼が、ピクリと動いた。
薄っすらと開いたその瞳は、苦痛に染まりながらも――まるで獲物を射抜く猛禽類のように、ゾッとするほど鋭く濁りのない光を放っていた。
老人は震える手で俺のジャージの裾をぎゅっと掴み、掠れた声で呟いた。
「……坊、主……。な、名前は……?」
「倉科だ! 倉科湊! いいから喋るな、体力を使うな!」
「……くらしな……みなと……」
遠くから、救急車のサイレンの音がサイレンの残響とともに近づいてくる。
老人はその音を聞きながら、口元に微かな笑みを浮かべ、そのまま意識を手放した。
――このヨレヨレのジャージを着た老人が、一代で数百億円の資産を築き上げた伝説の個人投資家・九条源蔵であること。
そしてこの出会いが、絶望の底にいた俺の運命を根底から覆し、資本主義のルールを叩き込まれるきっかけになるとは――この時の俺は、まだ知る由もなかった。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/高校3年生(進学断念・就活準備中)
・総資産残高:32,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+0円
・【今日の源蔵のマネー格言】:「『無知』は罪じゃねえ。だがな坊主、資本主義の戦場じゃ『無知』ってだけで身ぐるみ剥がされて一生誰かの養分にされるんだよ」
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