EP 3
「湊、お前を工場から救ってやるよw」拓海からの呼び出し
五月上旬、ゴールデンウィークの初日。
初夏の陽光が新緑を眩しく照らし出す地方都市の駅前は、帰省客や観光客の賑やかな声で溢れかえっていた。
午後十三時三十分、実家の作業部屋。
俺――倉科湊は、外出用の清潔感あるネイビーのサマーニットの袖をまくり、デスクの上のスマートフォンを確認していた。
「湊くん、本当に一人で行くの……? 私、やっぱりすごく心配だよ……っ」
作業部屋のソファから、不安げな声がかけられた。
白石詩織だった。
淡いアプリコット色のシフォンブラウスに、揺れるマーメイドスカート。
ショコラブラックの髪を後ろでハーフアップにまとめ、黒縁メガネを外した大きな茶褐色の瞳を、眉を八の字にして潤ませている。
その手には、俺のために淹れてくれた冷たい水出しのアールグレイティーが握られていた。
「心配いらないよ、白石。
相手が何を仕掛けてくるか、手口は百パーセント読めているからな」
「でも……金子くん、東京の怪しい先輩も連れてくるんでしょ……?
無理やり変な契約書にサインさせられたり、怖い人に囲まれたりしたらどうするの……っ!」
おろおろと身を乗り出し、俺の腕をぎゅっと掴んでくる詩織。
柔らかな指先の感触と、至近距離から漂う甘い柑橘の香りに、俺の心拍計がピクリと跳ね上がる。
いかん、出撃前にプロセッサを乱されるわけにはいかない。
「白石、中学生でもわかる防犯と法科学の講義をしよう」
「ふぇ? こんな時に、講義……?」
「そうだ。
現代のビジネス防衛において、最大の武器は筋肉でも怒号でもない。
――【客観的電磁的記録】だ」
俺は胸ポケットから、小型のICボイスレコーダーを取り出して見せた。
すでに録音ボタンは赤く点滅している。
さらに、スマホのクラウドストレージとリアルタイムで同期された音声録音アプリもバックグラウンドで起動させてある。
「待ち合わせ場所を『駅前のファミレス(ガスト)』に指定したのも計算通りだ。
昼下がりのファミレスは家族連れで満席で、防犯カメラが張り巡らされ、店員の出入りも激しい。
密室での軟禁や暴力的な脅迫行為は物理的に不可能な空間だ。
――そして、白石。お前にはもっと重要な任務がある」
「えっ……? 私に……?」
俺はデスクの引き出しから、あらかじめ用意しておいた小箱をスッと取り出し、詩織の前に差し出した。
地元で予約困難な人気パティスリーの『特選・完熟佐藤錦のジュレパフェ』と、長時間のiPad作業でも首や肩が凝らない最新の低反発ネックピローだ。
「ほら、白石。これを受け取れ」
「えっ……!? これ、すごく高そうなさくらんぼのパフェ……! それに、ネックピロー……?
湊くん、これから危ないところに行くのに、どうして私にこんな素敵なものを……?」
「勘違いするなよ」
俺は腕を組み、冷徹な仮面を必死に張り直して早口でまくしたてた。
「中学生でもわかる組織財務とBCP(事業継続計画)の講義だ。
我が法人の最高アートディレクター(お前)が、外敵(拓海)の低レベルな襲来によって過度な情動的ストレスを受け、作業部屋で指先を震わせて待機した場合、次期特化メディアの図解着色スピードは確実に四〇%低下する!
高級さくらんぼに含まれる良質なブドウ糖とアントシアニンによる脳疲労回復、ならびにネックピローによる頸椎アライメントの維持は、組織の基幹クリエイターの【精神的平穏と生産性を死守するための戦略的BCP防衛および役員メンタルヘルス経費】だ!
お前を甘やかすためのプレゼントなどではない!
将来生み出される何百万円ものメディア収益から逆算すれば、このパフェ代などROI(投資対効果)は【実に五万%】を超える!
極めて合理的でドライな財務上のリスクヘッジだから、一ミリも遠慮せず胃袋に収めて部屋で待っていろ」
息をつかずに言い切った俺の、世界一長くて過保護な言い訳。
詩織は小箱を胸にぎゅっと抱きしめ、目をパチクリさせて聞いていたが――やがて、その桃色の唇をふにゃりと綻ばせ、クスクスと愛おしそうに笑った。
「ふふっ……あはは! けいついアライメント……? ROIがごまんパーセント……?
湊くんの言い訳、本当に世界一長くて……世界一甘くて優しいね!」
「な、何がおかしい。純粋な防衛投資だぞ」
「うん、そうだね! じゃあ私、湊くんの『メンタルヘルス経費』を美味しく食べて、世界一可愛い図解を描きながら待ってるね!
……湊くん、絶対に無茶しないでね? 何かあったら、すぐ電話してね!」
詩織は両手で俺の手をぎゅっと包み込み、満面の祈るような笑みを咲かせた。
柔らかくて温かい手のひらの感触。
その温もりを胸に刻み、俺は静かに頷いて作業部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
午後十三時五十五分。
駅前の大通りに面したファミリーレストラン『ガスト』。
自動ドアをくぐると、休日とあって店内は小さな子ども連れのファミリーや学生グループで満席に近く、ドリンクバーの機械音が賑やかに響いていた。
「お、おい! 倉科! こっちだこっち!w」
フロアの最奥、四人掛けのボックス席から、これ見よがしに手を振る声が上がった。
金子拓海だった。
席へ近づくと、そこには三つの顔が並んでいた。
通路側に座る拓海は、明るいミルクティーベージュの髪に、首元には安物のシルバージェーンをジャラつかせている。
その隣の奥には、どこか落ち着かない様子でストローをいじっている佐伯凛がいた。
淡いピンクのノースリーブを着て綺麗にメイクをしているが、その瞳は拓海と俺の間を不安そうに泳いでいる。
そして――拓海の向かい側の上座に、ふんぞり返るように座っていたのが、拓海が連れてきた「東京の先輩」だった。
テカテカと光るイタリア風の細身スーツに身を包み、胸ポケットからはサングラスが覗いている。
テーブルの上には、これ見よがしに分厚いゴールドのウブロ風ダイバーズウォッチと、ポルシェのロゴがついたスマートキーが、ドンと置かれていた。
「よお倉科! 待たせんなよ! 座れ座れ!」
拓海はニヤニヤとした下品な笑みを浮かべ、上から目線で空いている下座の席を指差した。
「悪りぃな、忙しいところ呼び出してよw
お前、今日も午前中まで工場で段ボールの結束作業だったんだろ? 手取り十四万のライン工、毎日油にまみれて大変そうじゃん!
同窓会の時は色々偉そうなこと言ってたけどさ、やっぱり現実はキツいだろ? だから今日、高校のダチのお前を救ってやろうと思って、特別に東京のすげえ先輩を連れてきてやったんだよ!w」
拓海は立ち上がり、隣のスーツの男を仰々しく両手で紹介した。
「こちら、俺の大学のインカレサークルの超カリスマ先輩であり、弱冠二十一歳にして港区の高級タワマンに住んで、個人投資家として毎月数千万円動かしてる竜也さんだ!
竜也さんのグループに入ればな、高卒のお前でも一瞬で人生大逆転できるんだぜ!」
「初めまして、倉科くん」
竜也と名乗った男は、わざとらしくゴールドの腕時計を見せつけるように腕を組み、値踏みするような視線を俺に向けた。
「拓海から話は聞いてるよ。地元の工場で真面目に働いてるんだって? 偉いねぇ。
でもさ、悪いけど今の日本でサラリーマンやってる奴らって、全員ただの『情報弱者』なんだよね。
物価は上がるのに給料は上がらない、年金も崩壊する。
これからの時代、自分の頭で【AI】と【投資】を回せない人間から順番に野垂れ死んでいくんだよ」
淀みなく繰り出される、どこかのビジネス書から拾い集めたような耳触りのいい常套句。
その横で、凛が気まずそうに小さく口を開いた。
「あ、あの……湊くん、久しぶり……。元気にしてた……?」
「ああ、元気だよ」
俺は極めて平坦なトーンで返し、末席のソファへと静かに腰を下ろした。
そして、テーブルの上のタッチパネルを操作し、アイスコーヒーを一杯だけ注文した。
俺の表情は、完全に凪いだ水面のように静まり返っていた。
だが、その脳内プロセッサは、目の前に並ぶ三人の仕草、服装、発言のすべてを瞬時にスキャンし、冷徹な分析結果を弾き出していた。
(……中学生でもわかる、薄っぺらな演出のオンパレードだな)
竜也がテーブルの上にドヤ顔で置いているゴールドのウブロ。
クロノグラフのインダイヤルの針の動きがクォーツ特有のステップ運針をしており、秒針の刻印も甘い――十中八九、海外サイトで三万円程度で買った【粗悪なスーパーコピー(偽物)】だ。
ポルシェのスマートキーも、フリマアプリで二千円で転がっている「キーケースだけの中古品」をポケットに入れて持ち歩いているだけだろう。
本物の富裕層である九条源蔵の屋敷と、本物の資産家たちの立ち居振る舞いを間近で見てきた俺の目を、こんなチープな張り子の虎で誤魔化せると思っているのか。
「おい倉科、ビビって声も出ねえか?w」
俺が黙ってアイスコーヒーのグラスを受け取ったのを見て、拓海は「完全に呑まれた」と確信したように身を乗り出してきた。
そのポケットをごそごそと探り、一本の金属製の黒いUSBメモリをテーブルの中央にコトッと置いた。
「これを見ろよ、倉科。
これこそが、ウォール街の天才エンジニアと共同開発された、世界最先端の【AI自動売買アルゴリズム】が入った神ツールだ!
このUSBをお前のパソコンに挿すだけで、お前が工場で段ボールを折ってる間も、夜ベッドで寝てる間も、AIが勝手に暗号資産と為替の市場から富を吸い上げてくれるんだよ!
その利回りは――なんと驚異の【月利10%保証】だ!!」
「月利、10%?」
俺が静かにオウム返しすると、竜也が「そうだよ」と我が意を得たりとばかりに頷いた。
「銀行に百万円預けたって、一年の利息は数十円だろ?
でもこのAIシステムを使えば、元手五十万円を預けておくだけで、毎月何もしなくても【5万円】の純現金が口座に振り込まれ続ける!
年間で六十万円だ! たった一年で元本以上の金が手に入るんだよ!
手取り十四万のお前にとって、毎月五万円の不労所得がどれだけデカいか、言わなくてもわかるだろ?」
「なるほど。毎月五万円の不労所得、ですか」
「そうだ! しかも、このツールの正規ライセンス料は【50万円】だが、今なら俺の紹介枠で特別に手に入る!
金がなくても大丈夫だ。学生や工場勤務でも、スマホから消費者金融のアプリを落とせば、即日五十万の枠なんて一瞬で作れる!
年利十八%の金利なんて月利一.五%だ。月利十%の配当があれば余裕でお釣りが来る【良い借金】なんだよ!
倉科、お前、今日ここで決断しろ! 俺の紹介でこのUSBを買えば、工場なんて今すぐ辞めて俺たちと一緒に自由な投資家になれるんだぞ!ww」
唾を飛ばしながら、目を血走らせてまくしたてる拓海。
その姿は、友人を救おうとする善意などではない。
自分自身が背負った五十万円の消費者金融の借金を埋めるため、湊から【十万円の紹介ボーナス】をもぎ取ろうと必死になっている、哀れな亡者の形相そのものだった。
横に座る凛が、耐えきれないように顔を覆い、蚊の鳴くような声で呟く。
「た、拓海くん……もうやめなよ……。湊くん、困ってるじゃない……」
「うるせえ凛! 黙ってろ!
俺は倉科のために、最高のチャンスをくれてやってんだよ!
なぁ倉科、早く消費者金融のアプリ開けよ! 今すぐ免許証スキャンすれば、今日の夕方には五十万手に入るからさ!w」
ボックス席に響き渡る、拓海の甲高い嘲笑。
だが――。
コトッ。
俺はアイスコーヒーのグラスをテーブルに置き、組んでいた手を解いた。
そして、胸ポケットから静かにスマートフォンを取り出し、画面をタップしてテーブルの真ん中にスッと滑らせた。
「……拓海。そして、竜也さん」
氷のように冷徹な、しかし寸分の揺らぎもない声が、ファミレスの喧騒を切り裂いた。
「お前たちが今、俺に対して犯した【極めて重大な違法行為】について、中学生でもわかる法律の講義をしてやるよ」
◇ ◇ ◇
ピシリ、とボックス席の空気が凍りついた。
「は……? い、違法行為……!? 何言ってんだよ倉科!」
拓海が引きつった顔で声を上ずらせる。
俺はテーブルの上のスマートフォンを指先でトントンと叩いた。
画面には、先ほどから一秒も途切れることなく録音を続けている波形データと、国税庁・消費者庁の公式Webサイトの条文が表示されていた。
「特定商取引に関する法律――通称【特定商取引法(特商法)第三十三条の二】だ」
俺は淀みなく、冷徹な判事のように条文を突きつけた。
「特商法において、いわゆるマルチ商法(連鎖販売取引)を行う勧誘者は、公衆の出入りする場所以外の場所で勧誘を行う場合、あるいは電話やLINEで相手を呼び出す際、あらかじめ相手に対して【統括者の名称】【勧誘を行う者の氏名】【商品の種類】そして――
――【『契約の締結について勧誘をする目的である旨』を明確に告げなければならない】と定められている」
「な……んだと……!?」
竜也の眉がピクリと跳ね、喉がゴクリと鳴った。
「拓海、お前が先週俺に送ってきたLINEを見直してみろ。
『お前にめちゃくちゃデカい神案件を持って帰ってやるよ!手取り14万の工場勤務から救ってやるからファミレスに来いよな』――
ここには、商品を販売する目的であることも、五十万円のUSBを買わせる連鎖販売取引であることも、一文字も書かれていなかった。
単なる旧友との再会を装い、目的を隠してファミレスへ呼び出し、その場で不意打ちのように高額な契約を迫る行為――
これは法律用語で【ブラインド勧誘(目的隠匿勧誘)】と呼ばれる、特商法第三十三条の二に明確に抵触する【完全な違法行為】だ!」
「ぶ、ブラインド勧誘……!?」
拓海の顔から、みるみる血の気が引いていく。
隣の竜也が慌てて身を乗り出し、顔を真っ赤にしてテーブルをバンッと叩いた。
「お、おい君! 人聞きの悪い言いがかりをつけるなよ!
俺たちは善意で、儲かる投資の情報を教えてあげようとしただけだろ! マルチ商法だなんて誰が言った!?」
「善意? 片腹痛いな」
俺はフッと冷笑を浮かべ、テーブルの上の黒いUSBメモリを指先で弾いた。
「『一人紹介するごとに十万円の紹介料が入る』……。
紹介によって報酬が発生するピラミッド型の組織構造そのものが、特商法第三十三条で定義される【連鎖販売取引】そのものなんだよ!
目的を隠してファミレスに呼び出し、年利十八%のサラ金で借金を背負わせ、十万円のキックバックを山分けしようとする……。
これが違法でなくて、一体何が違法だと言うんだ?」
「う……っ、ぐ……っ!!」
竜也の額から、タラリと冷たい脂汗が流れ落ちた。
反論は、一言も出てこない。
感情論ではなく、法律の条文と客観的なチャットログという【絶対の証拠】を突きつけられたからだ。
そして――俺は冷徹な眼光を、ガタガタと震え出した拓海の目元へと突き刺した。
「拓海。お前、さっき『月利10%保証』って言ったよな?
……次はその、中学生でも吹き出すような【稚拙な数字のペテン】を、算数で完全に解体してやるよ」
逃げ場を完全に塞がれた詐欺師たちに対し、俺の冷徹なカウンターパンチの第一幕が、今まさに振り下ろされようとしていた。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:19歳/食品工場ライン工・個人事業主(純資産800万突破・マルチ撃退戦突入)
・総資産残高:8,040,000円(前話比:±0円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+1,620,000円(特化ブログ3サイト純利益ベース)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「『儲かる話を教えてやる』と目的を隠して呼び出す奴は、全員特商法違反の犯罪者予備軍だ。感情で怒鳴り返すな。スマホの録音ボタンと条文を突きつけ、法とロジックで息の根を止めてやれ」
読んでいただきありがとうございます。
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