EP 10
第3章クライマックス「資産800万円到達と、忍び寄る最高税率の壁」
桜吹雪が春風に乗って舞い踊る、四月上旬の月曜日。
三晃紙器工業の敷地内には、真新しい紺色のリクルートスーツに身を包んだ新入社員たちが、緊張した面持ちで整列していた。
入社式を終えた彼らは、希望と不安の入り混じった目で第一製造ラインの巨大な機械群を見上げている。
――ちょうど一年前の、俺自身の姿だった。
「……けっ、めでたい連中だぜ。手取り十四万の地獄のベルトコンベアに飛び込んできたとも知らねえでよぉ……」
昼休みの食堂の片隅で、作業着の腕をまくり上げ、爪の間のインク汚れを爪楊枝でほじくりながら愚痴をこぼしていたのは、入社二年目を迎えた同期の山岸だった。
目の下には相変わらず抜けない濃い隈が刻まれ、肌は土気色にくすんでいる。
第34話で知らされた「昇給千五百円」のショックから立ち直れず、深夜の居酒屋バイトで身体を酷使し続ける彼の口からは、呪詛のようなため息ばかりが漏れ出ていた。
「おい倉科、聞いてんのかよ? 新入社員の女の子、可愛い子いたよな? でもよ、俺たちの安月給じゃデート代すら出せねえし、先輩風吹かせたって缶ジュース一本奢るのが限界だぜ……。あーあ、東京へ行った金子や凛が心底羨ましいよ。あいつら、今頃は大学三年生でサークルで遊びまくって、将来は大手企業で年収何百万も稼ぐ勝ち組ルート確定なんだろ? それに比べて俺たちは一生ここで段ボール折って野垂れ死にだ……」
山岸の哀れな愚痴を聞き流しながら、俺――倉科湊は、母が持たせてくれたタケノコご飯を淡々と箸で口に運んでいた。
(山岸、お前には見えていないんだよ。
東京へ行った拓海は、有利子の奨学金を借金と自覚せず、リボ払いで首が回らなくなっている。
そして何より――目の前に座っている俺が、この一年間で手に入れた【本当の現実】がな)
俺は誰にも見られないよう、テーブルの下でスマートフォンの画面を親指でそっとタップした。
ネットバンキング、SBI証券、そしてASPの管理ダッシュボードを統合した、最新の資産集計データ。
前話(三月下旬)で七百七十三万円に達していた資産に、三月末の確定売上金が完全に着金し、さらに新NISAで積み立てていたインデックス株の力強い含み益が加算された結果――
【倉科湊・純資産集計(4月1日確定ベース)】
・普通預金(運転資金・生活防衛キャッシュ):5,860,000円
・新NISA運用資産(オルカン+S&P500評価額):2,180,000円
★ 確定総資産残高:【8,040,000円(800万円突破!)】
(……八百万。ついに、八百万円の壁を完全に突き破ったぞ)
胸の奥で、熱く静かな炎がゴウッと音を立てて燃え上がった。
高校卒業のあの日、ポケットの中にあったのはバイト代の残り、わずか三万二千円。
親の金融無知によって大学進学の道を断たれ、同級生たちから「高卒の工場勤務とか無理w」と見下されてから、ちょうど丸一年――三百六十五日。
時給労働のアルバイトは一秒もせず、工場の残業も一分もせず、十七時零二分に毎日定時退社しながら、資本主義のルールを忠実にハックし続けた結果。
俺の自己資本は、スタート時の【実に二百五十倍】にまで膨れ上がっていたのだ。
八百万円あれば、日本の平均的なサラリーマンの世帯貯蓄中央値を優に超えている。
「……さて。山岸、午後のラインが始まるぞ」
「おう……また油とパルプの粉塵にまみれる時間かよ……死にてぇ……」
ゾンビのように立ち上がる山岸を背に、俺は足取りも軽く席を立った。
今夜は、この一年間、苦楽を共にしてきた最高の相棒との【特別な約束】があったからだ。
◇ ◇ ◇
午後十九時、県庁所在地の駅前にそびえ立つ、地元最高級ホテルの最上階。
ガラス張りのエレベーターを降りると、そこにはピアノの生演奏が静かに流れる、パノラマ夜景のスカイレストランが広がっていた。
「いらっしゃいませ、倉科様。窓側の特別席へご案内いたします」
黒服のソムリエに案内され、夜景が一望できるテーブル席に着いた俺の前で、一人の女性が息を呑んで立ちすくんでいた。
白石詩織だった。
「う、わぁぁぁ……! み、湊くん、ここ本当に私たちが座っていい場所なの……!? 足が震えてきちゃったよ……っ!」
おどおどと周囲を見回す詩織。
だが、その姿は店の洗練された雰囲気に気圧されるどころか、フロア中の客や店員が思わず二度見するほどの圧倒的な輝きを放っていた。
淡いシャンパンゴールドの上品なシルクワンピースに、肩から羽織ったネイビーのシフォンボレロ。
第34話で俺が「寒暖差による体調不良を防ぐ防衛経費だ」と強引に買い与えた、桜色の天然シルクスカーフが首元でエレガントに結ばれている。
艶やかに流れるショコラブラックの髪をハーフアップにし、黒縁メガネを外した大きな茶褐色の瞳は、夜景の光を反射して宝石のように煌めいていた。
一年前にカフェの片隅で、時給六十六円で買い叩かれて泣いていた地味な美術部員のおもかげは、どこにもない。
知性と品格を纏った、誰もが息を呑む【本物の超絶美少女】がそこにいた。
「ビビるな、白石。……今夜は、我が事業部の年商二千万円ペース到達、および純資産八百万円突破を祝う【記念戦略ディナー】だからな」
「えへへ……! うんっ! あ、でも湊くん、スーツすごく似合ってるよ! いつもの工場の作業着と全然違って、なんだか本物の社長さんみたい……!」
詩織が頬を赤らめ、上目遣いで俺を見つめてくる。
至近距離から漂う爽やかな柑橘系の香水と、彼女自身の甘いシャンプーの香りに、俺の心拍計がピクリと跳ね上がる。
いかん、平静を保て。
「……コホン! よし、料理を頼もう。
――ギャルソン、特選牛フィレ肉とフォアグラのロッシーニコースを二人前で」
「かしこまりました」
やがて運ばれてきたのは、美しく盛り付けられた前菜のオマール海老、トリュフの薫るポタージュ、そして炭火で香ばしく焼き上げられた極上の牛フィレ肉だった。
「わぁぁぁ……! すっごくいい匂い……! これ、お肉の上に大きなフォアグラが乗ってるよ……!」
「ほら、白石。温かいうちに口に運べ」
「うんっ! いただきます……っ!」
詩織はナイフとフォークでお肉を小さく切り分け、ぱくりとお口に運んだ。
その瞬間――。
「……っ!? んんん〜〜〜っっ!!」
詩織の両手がパッと頬に当てられ、その大きな瞳が驚愕で見開かれた。
「と、とろける……! お肉がすっごく柔らかくて、濃厚なソースとお肉の甘みがじゅわぁってお口いっぱいに広がって……!
湊くん、こんな美味しいもの、私、生まれて初めて食べたよぉぉぉ……っ!!」
もぐもぐと咀嚼しながら、感動のあまり瞳に涙をいっぱいに溜めて悶絶する詩織。
その無防備で幸せそうな表情の破壊力に、俺の胸の奥がドクンと激しく脈打った。
この笑顔を守るためなら、どんな泥臭いビジネスの修羅場でも乗り越えられると、心の底から思えてしまう。
「白石、勘違いするなよ」
俺は腕を組み、冷徹な仮面を必死に張り直して早口でまくしたてた。
「中学生でもわかる組織財務と人的資本投資の講義をするぞ」
「ふぇ? フォアグラの前で、また講義……?」
「そうだ。
いいかい白石、今日のこのディナー代(二人で三万円)は、単なる贅沢な消費ではない。
税法上、パートナーと今年度の業績振り返りおよび次期デザイン戦略の打ち合わせを行う【極めて正当な会議費(交際費)】として全額経費算入できる!
さらに言えば、最高級牛フィレ肉に含まれる良質なヘム鉄と必須アミノ酸、ならびにフォアグラの不飽和脂肪酸による脳内シナプスの活性化は、我が事業部のアートディレクター(お前)の【創造的直感力を極大化させ、次期メディアの図解成約率を三〇%向上させるための戦略的役員エンゲージメント投資経費】だ!
将来生み出される何百万円ものアフィリエイトキャッシュフローから逆算すれば、このディナー代などROI(投資対効果)は【実に五万%】を超える!
極めて合理的でドライな財務上のリスクヘッジだから、一ミリも遠慮せず胃袋に収めて満面の笑みを咲かせろ」
息をつかずに言い切った俺の、世界一長くて過保護な言い訳。
詩織は目をパチクリさせて聞いていたが――やがて、その桃色の唇をふにゃりと綻ばせ、クスクスと愛おしそうに笑った。
「ふふっ……あはは! ヘムてつ……? ROIがごまんパーセント……?
湊くんの言い訳、本当に世界一長くて……世界一甘くて幸せだよ!」
「な、何がおかしい。純粋な財務戦略だぞ」
「うん、そうだね! じゃあ私、湊くんの『エンゲージメント経費』をいっぱい食べて、五万パーセントのお返しができる世界一可愛いデザインを描き続けるね!
……あ、湊くん! お肉、食べてみて! はい、あーん!」
詩織はフォークにお肉とフォアグラを乗せ、夜景の光をバックに、満面の笑みで俺の口元へと差し出してきた。
至近距離から漂うトリュフソースの香りと、彼女自身の透き通るような白い肌、潤んだ瞳。
「お、おい……自分で食えるって……」
「ダメー! 今日はお祝いなんだから! ほら、あーん!」
逃げ場を失った俺は、観念して口を開けた。
「……あーん」
口いっぱいに広がる、極上の肉汁とフォアグラの濃厚なコク。
信じられないくらい美味い。
そして――心拍数が異常な数値を叩き出し、俺の脳内プロセッサが完全に一時停止した。
(……ダメだ。この女の『あーん』の破壊力は、資本主義のどんなアルゴリズムでも耐え切れない……)
「ふふっ、美味しい?」
「……ああ、最高だ」
見つめ合う二人。
高層階から見下ろす街の灯りが、俺たちの歩んできた一年の軌跡を祝福するように瞬いていた。
だが――この至福の時間の直後、俺たちは次なるステージの「残酷な現実」へと叩き落とされることになる。
◇ ◇ ◇
ディナーを終えた後、俺たちは夜風に吹かれながら、丘の上の九条源蔵の屋敷へと向かった。
重厚な門扉をくぐり、広大なリビングへと足を踏み入れる。
欅の一枚板テーブルの前には、いつものフリース半纏を着た源蔵が、腕を組んで待ち構えていた。
「よう、バカップルどもが。夜景の見えるホテルで、随分と美味い肉を食ってきたようだな」
「じいさん、報告に来たよ」
俺は少しばかり誇らしげに胸を張り、純資産八百万円の残高画面を表示させたタブレットをテーブルに置いた。
「言われた通り、時給労働は一秒もせず、工場の残業にも頼らず、組織化とスケーラビリティを極めて資産八百万円を突破した。
現在の月間事業利益は百六十万円ペース。
目標の一億円へ向けて、第3章の課題は完全にクリアしたはずだ」
源蔵は老眼鏡を鼻の頭にずらし、画面の数字をじっと見つめた。
そして――。
「……ケッ」
盛大に鼻を鳴らし、タブレットをポイと指先で突き返してきた。
そのぎょろりとした鋭い眼光には、賞賛の色など微塵もない。
むしろ、獲物を睨みつける肉食獣のような、冷酷な光が宿っていた。
「なんだ坊主、鼻の穴を膨らませてドヤ顔しに来たのか?
資産八百万、月利百六十万……小僧にしちゃ上出来だがな、てめえ、自分が今どんな【死刑台の階段】の上に立っているか、まるで分かってねえようだな」
「死刑台の階段……!? 何言ってんだよ、事業は順調そのものだぞ!」
「順調だから死刑台なんだよ、この大バカ野郎が!」
ドンッ、と源蔵の拳がテーブルを叩いた。
重厚な欅の板が低く唸る。
「いいか湊、中学生でもわかる算数と税法の現実を教えてやる!
てめえの現在の月間利益は百六十万……このままのペースで走れば、今年の年間事業利益はいくらになる?」
「え……? 百六十万掛ける十二ヶ月で……【約一千九百万円】、少なくとも一千五百万円は超える計算だが……」
「そうだ!
年間利益一千五百万円を、今のままの【個人事業主】で受け取ってみろ!
日本の税制という名の最大の強盗が、てめえの喉元にどんな刃を突きつけてくるか、その目で確かめてみろ!」
源蔵はホワイトボードを引き寄せ、ペンを激しい音を立てて走らせた。
◇ ◇ ◇
「耳の穴かっぽじってよく聞け。
日本の所得税は、稼げば稼ぐほど税率が跳ね上がる【超過累進課税】だ。
個人の課税所得ごとの税率の階段を並べてやる」
・195万円以下:5%
・195万〜330万円以下:10%
・330万〜695万円以下:20%
・【695万〜900万円以下】:【23%】
・【900万〜1,800万円以下】:【33%】
・1,800万〜4,000万円以下:40%
・4,000万円超:45%
「そして、この所得税の上に、地方自治体に強制徴収される【住民税(一律10%)】が乗っかる!
さらに、個人事業主で一定以上の利益を出した者に課せられる【個人事業税(約5%)】が乗っかるんだよ!」
源蔵はペン先を、ホワイトボードの『900万円超』の欄に突き刺した。
「課税所得が900万円を超えた瞬間――
所得税33% + 住民税10% + 個人事業税5% = 【実質税率48%】だ!
稼いだ利益の【半分近く】が、一撃で国と市役所に召し上げられるんだよ!」
「は、半分……!? 稼いだ金の半分が消えるのかよ……!?」
俺の背筋に、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
横で聞いていた詩織も、「えっ……半分……!? そんなの、あんまりだよ……っ!」と青ざめている。
「それだけじゃねえぞ、坊主!
てめえの年間売上は、今年確実に一千万円を突破する。
売上が一千万円を超えた個人事業主には、二年後から何が襲いかかってくると思う?
――【消費税の納税義務(インボイス制度)】だ!
売上の約一割を、消費税としてさらに国に上納しなきゃならねえ!
所得税、住民税、個人事業税、消費税……全部合わせたら、てめえの手元には稼いだ金の三分の一も残らねえんだよ!
個人事業主という制度はな、年商数百万の小遣い稼ぎなら青色申告で優遇されるが、年商一千万を超えた瞬間、稼いだ奴から根こそぎ富をむしり取る【地獄の搾取装置】へと変貌するんだよ!」
雷鳴のような源蔵の怒号。
八百万円を達成して浮かれていた俺の頭が、氷水を浴びせられたように一瞬で冷え切った。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ、じいさん!
せっかく作った自動化メディアの売上を、わざわざ減らせとでも言うのか!?」
「減らすわけねえだろ、この大馬鹿野郎が!」
源蔵は獰猛な笑みを浮かべ、ホワイトボードの右側に巨大な文字を書き殴った。
「個人を捨てろ。
国家公認の最強の盾――【法人(会社)】を設立するんだよ!」
「法人……会社設立……!」
「そうだ。
中学生でもわかる算数を教えてやる。
個人の所得税率は最高45%、住民税と合わせて最大55%まで跳ね上がる青天井の地獄だ。
だがな、【法人税の実効税率】はどうなっていると思う?
中小企業の場合、年800万円以下の所得に対しては【実効税率わずか約22〜25%】!
年800万円を超えた部分ですら、最高でも【約33〜34%】で完全に頭打ちになるんだよ!」
目の前の霧が、サッと晴れるような感覚がした。
「……そうか。
個人なら半分(48%)取られる利益が、法人という器を通すだけで、税率が半分近くにまで激減するのか……!」
「それだけじゃねえぞ!
法人を作れば、自宅を【役員社宅】にして家賃の八割を経費にできる。
出張に行くたびに【非課税の出張日当】を自分に支給できる。
将来の退職金を非課税枠で積み立てることもできりゃ、利益を会社の中に無税に近い形でプールして、次の事業買収(M&A)の軍資金に回すこともできるんだ!
経費にできる自由度と節税の破壊力は、個人事業主とは次元が違う!
年商一千万、純利益八百万を超えた人間が法人化しないのはな、自ら進んで火の中に現金を投げ込んでいる大阿呆だけなんだよ!」
源蔵はホワイトボードのペンを置き、俺の胸元を力強く指差した。
「いいか湊。
てめえはもう、手取り十四万の工場ライン工でもなけりゃ、しがない副業ブロガーでもねえ。
明日から第4章だ。
資本主義という名の荒波を乗りこなす、本物の【会社経営者(社長)】のリングに上がってもらうぞ!」
「会社経営者……社長……」
ゴクリと、喉が鳴った。
隣で詩織が、俺の袖をぎゅっと握りしめてくる。
その瞳には、不安ではなく、俺への絶対の信頼の光が宿っていた。
「……上等だ、じいさん」
俺は不敵に笑み、拳を強く握りしめた。
「個人を捨てて、会社を作る。
税金を完全にコントロールし、資産一億円への最短ルートを突き進んでやるよ!」
夜の窓の外、春の満月が静かに街を照らしていた。
東京へ進学した同級生たちが、大学生活のモラトリアムの折り返し地点を迎え、やがて直面する就職活動という名の品評会に怯えるまでの、残り一、〇九五日。
純資産八百万円を突破した十九歳の少年と、天才美少女絵師。
持たざる者として笑われた二人の進撃は、ここから「法人設立」と「大学生組との直接対決」という、次なる怒涛の第4章へと突入していく!
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:19歳/食品工場ライン工・個人事業主(第3章完結・純資産800万達成!)
・総資産残高:8,040,000円(第3章累計:+4,949,800円 ※3サイト純利+NISA運用益)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+1,608,000円(特化ブログ3サイト自動化純利益)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「年収1,000万を超えた個人事業主は、国家にとって最高に太ったカモだ。実質税率48%の刃が首元に来る前に個人を捨てろ。法人という名の鉄壁の要塞に乗り換えた奴だけが、本物の富を築けるんだよ」
読んでいただきありがとうございます。
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