EP 14
種銭50万円突破!そして見つけた「やりがい搾取」の同級生
日曜日の朝八時。
自室のデスクでノートPCを開き、ネットバンキングのログインボタンをクリックした俺の目の前に、清々しい数字が飛び込んできた。
『普通預金残高:518,000円』
「……よし。ついに、五十万円の大台を突破したぞ」
思わず口元が緩み、深く息を吐き出した。
前話で森脇先輩から譲り受けた『Nikon FM2』の売却益四万四千四百円に加え、平日夜に仕上げて出品していたパイオニアの高級カセットデッキと、任天堂ゲームボーイアドバンスのバックライト液晶カスタム品が昨夜立て続けに受取評価されたのだ。
二品合わせて五万七千円の純利益が、一円の狂いもなく口座へ着金した。
高校卒業時、ポケットの中にあったのは高校時代のバイト代の残り、わずか三万二千円。
そこから実家のバケツの止血を断行し、不用品販売で十五万円、セルフバックで二十万円、そして店舗せどりの高速回転を重ねて、わずか一ヶ月足らずで五十万円を突破したのだ。
世間一般の常識で見れば、手取り十四万八千円の工場勤務の新人が一ヶ月で五十万円を貯めるなど、絶対に不可能だと笑われるだろう。
実際、東京へ行った金子拓海は、有利子の奨学金を自分の金と錯覚して散財し、年利一五%のリボ払いで首を絞められている。
元カノの佐伯凛も、見栄のためにブランド品を買い漁る拓海の腕にぶら下がり、借金の泥沼へ一緒に沈みかけているはずだ。
(だが、俺は違う。……すべては、資本主義のルールを正しく理解し、期待値の高い行動だけを積み重ねてきた必然の結果だ)
しかし、目標である「種銭百万円」までは、ちょうど折り返し地点にすぎない。
しかも、せどりというビジネスモデルには明確な限界がある。
仕入れに行き、清掃し、写真を撮り、発送する――。
どれだけ利益率が高かろうが、これは自分の身体を動かして稼ぐ「労働集約型」の延長線上にすぎないのだ。
『せどりでどれだけ種銭を作ろうが、てめえの身体が動かなくなったら利益は止まる。
次のステージへ行くには、てめえの頭脳を補佐する【優秀なパートナー】が不可欠だ』
昨夜、電話口で九条源蔵が放った言葉が脳裏に蘇る。
他人の才能にレバレッジをかけ、事業を仕組み化する。
そのためには、Webメディアやコンテンツビジネスへ展開するための「武器」が必要だった。
「……まずは、今後の事業戦略シートをまとめるか」
俺は愛用のノートPCをリュックに詰め、自転車に乗って駅前の落ち着いたブックカフェへと向かった。
◇ ◇ ◇
午前十時過ぎ。
駅ビルの一角にあるそのカフェは、間接照明と静かなジャズが流れ、休日の朝を読書や作業で過ごす大人たちが集まる居心地の良い空間だった。
「いらっしゃいませ……! あ、ご注文はお決まりでしょうか……?」
レジカウンターで出迎えてくれた店員の控えめな声に、俺は顔を上げた。
緑色のエプロンを身につけ、少し大きめの黒縁メガネの奥から、戸惑ったようにこちらを見つめている小柄な少女。
肩下まで伸びた艶やかな黒髪を後ろで一つに束ね、おどおどと視線を揺らしている。
「……白石? 白石詩織か?」
「えっ……? あ、倉科、くん……!?」
少女がパッと目を見張り、両手で口元を押さえた。
高校の同級生、白石詩織だった。
三年間ずっと同じクラスだったが、彼女は美術部に所属し、放課後はいつも美術室の隅で黙々とキャンバスに向かっていた地味でおとなしい女子だった。
目立つグループにいた凛や拓海とは対照的に、教室ではほとんど自己主張をせず、いつも分厚いスケッチブックを抱えていた姿を覚えている。
「白石、ここでバイトしてたのか」
「う、うん……。高校卒業してから、週に四日くらいシフト入ってて……。倉科くんこそ、どうしたの? スーツじゃないんだね」
「地元のパッケージ工場に就職したからな。今日は休みで、ちょっとPCで作業しに来たんだ。アイスコーヒーを一つ頼むよ」
「あ、うん! すぐ用意するね……!」
詩織はペコリとお辞儀をして、どこかホッとしたような、それでいて恥ずかしそうな笑顔を浮かべてドリンクを準備してくれた。
アイスコーヒーを受け取り、俺はフロアの最奥にある、パーテーションで区切られた一人用のカウンター席へと腰を下ろした。
ノートPCを開き、今後のWebメディア展開におけるペルソナ設計と競合リサーチに没頭すること、約二時間。
時計の針が十二時を回り、店内がランチ客で賑わい始めた頃だった。
「……うぅ、どうしよう……っ。そんなの、あんまりだよ……」
ふと、パーテーションで仕切られた隣のスタッフ用休憩スペースから、押し殺したようなすすり泣きの声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。
(白石……?)
気になって立ち上がり、休憩室の隙間からそっと視線を向けると、そこにはエプロンを脱ぎ、パイプ椅子に座り込んで小さく丸まっている詩織の姿があった。
膝の上には、画面のガラスがバキバキに割れた古いタブレット端末。
彼女はメガネを指先で押し上げながら、液晶画面に映し出されたメッセージを睨みつけ、大粒の涙をポロポロとこぼしていた。
「白石? 大丈夫か?」
「ひゃいっ!?」
俺が声をかけると、詩織は肩を激しく跳ね上がらせ、慌ててタブレットを胸元に抱き込んで隠そうとした。
「く、倉科くん……!? な、なんでもないの! ちょっと目にゴミが入っちゃって……!」
「嘘をつくな。泣いてただろ。……それ、何かトラブルか?」
俺が視線を落とすと、詩織の手から滑り落ちかけたタブレットの画面に、SNSのダイレクトメッセージ(DM)がびっしりと表示されていた。
アイコンは派手な金の鎖を巻いた自称・動画配信者の男。
そこに並んでいたのは、目を疑うような暴力的なテキストの羅列だった。
『おい! 修正版見たけど全然イメージと違うんだけど? 俺が頼んだのはもっとサイバーパンクで覇気のあるキャラデザなんだよ!
これで修正五回目だぞ? プロとしての自覚あんの?
ヘッダーとアイコンと立ち絵の三点セットで【2,000円】も払ってやってんだから、客が納得するまで無償で描き直すのが当たり前だろ!
明日までに全部描き直して提出しろ。もし納期に遅れたりキャンセルするなら、お前の垢名を晒して「金だけ取って逃げようとした詐欺絵師」ってSNSで拡散するからな!』
「……っ」
俺の奥歯が、ギリリと音を立てて噛み合わさった。
胸の奥底から、冷たい怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
「これ、クラウドソーシングかSNSの個人依頼か?」
「……う、うん。SNSで、有償イラストのリクエストを受け付けてて……」
詩織は俯き、震える声で絞り出すように語り始めた。
「私、カフェのバイトだけじゃお給料が少なくて……大好きな絵でお金を稼げるようになりたくて、先月から始めたの。
でも、実績がないと誰も頼んでくれないから、最初は安くしなきゃと思って……アイコンとヘッダーのセットで『二千円』で出品したの。
そうしたらこの人から依頼が来て……最初は優しかったのに、下描きを提出してから『ここを変えろ』『服のデザインを全部やり直せ』って何度も言われて……。もう一週間、睡眠時間を削って描き直してるんだけど、どうしても納得してもらえなくて……っ。
私の画力が足りないからだよね……。もっと上手く描けない私が悪いんだよね……っ」
自分を責め、ボロボロと涙を流す詩織。
俺は無言で、彼女の震える手からタブレットを受け取った。
そして、画面をスワイプして、彼女がその依頼主に提出したというイラストのファイルを開いた。
その瞬間――俺の息が、完全に止まった。
「……な、んだこれ……」
液晶の割れ目をものともせず、目に飛び込んできたのは――圧倒的な「美」の暴力だった。
夜のネオンに照らされた退廃的なサイバーパンクの街並み。
そこに佇むキャラクターの、濡れたような瞳の透明感、風に舞う髪の毛一本一本の緻密な描写、金属パーツに反射する光彩のグラデーション。
キャラクターの感情や息遣いまで伝わってくるような、神がかった構図と色彩感覚。
高校時代、美術室で彼女が描いていた風景画も凄まじかったが、デジタルに移行した彼女の技術は、もはやプロのイラストレーターの最前線に匹敵するレベルに達していた。
(このクオリティの絵が……ヘッダーとアイコンと立ち絵のセットで、たったの【2,000円】だと……!?)
信じられなかった。
神の領域にある芸術品を、泥水に投げ捨てるような暴挙だ。
「白石。質問に答えてくれ」
俺は極めて平坦な、しかし絶対に感情に流されないトーンで問いかけた。
「この絵を一枚仕上げるのに、下描きから線画、着色、リテイクを含めて、合計で何時間かかった?」
「えっ……? えっと……最初のラフに五時間、線画に八時間、色塗りに十時間……。それに、依頼主さんの要望でポーズと衣装を三回描き直したから……全部合わせたら、だいたい【三十時間】くらいかな……」
「三十時間だな。よし」
俺はポケットからスマホを取り出し、詩織の目の前で電卓アプリをタップした。
「白石、今から中学生でもわかる算数をしよう」
「え……? 算数……?」
「そうだ。てめえの頭を冷やすための、極めて残酷な現実の計算だ」
俺は画面に、はっきりと数字を叩きつけた。
『2,000円 ÷ 30時間 = 【66.6円】』
「……ろくじゅう、ろくえん……?」
詩織がポカンと口を開ける。
「そうだ。お前が心血を注ぎ、睡眠時間を削って差し出した命の対価は――時給換算で【わずか66円】だ!
この県の最低賃金は時給千円を超えている。
お前は今、コンビニやカフェのバイトの十五分の一以下の値段で、自分の時間と才能をダンピングして売り飛ばしているんだよ!
江戸時代の小作人ですら、もっとまともな報酬を受け取っていたぞ!」
「ひ、十五分の一……っ」
詩織の顔から、サーッと血の気が引いていく。
「いいか白石、お前は今、世の中の哀れなクリエイターが百発百中で引っかかる最悪の罠――【原価思考の呪縛】に完全に囚われているんだ」
「原価思考の、呪縛……?」
「そうだ。
絵を描くのに、ペンや絵の具の消耗品費はほとんどかからない。電気代もせいぜい数十円だ。
だからお前のような情報弱者のクリエイターは、『材料費がかかっていないから、二千円でも丸々利益だ』と錯覚する。
だが、それは大間違いだ!
ビジネスにおける最大のコストは、材料費じゃない。
――【お前の人生の時間そのもの(人的資本)】なんだよ!」
俺はパイプ椅子の背もたれを強く掴み、俯く詩織を真っ直ぐに見据えた。
「お前が三十時間かけて得た二千円から、タブレットの減価償却費、通信費、電気代を引いてみろ。手元に残るのはタダ働き同然の小銭だ。
『好きを仕事に』『やりがい』という耳触りのいい言葉で自分を麻痺させ、自分の時給をゼロ円で見積もる。
それは謙虚さじゃない。
自分の才能と命に対する、許しがたい【冒涜】だ!」
「じ、自分の命に対する……冒涜……っ」
詩織の肩が小さく震える。
だが、俺の追撃は止まらない。病巣を根本からえぐり出さなければ、この少女は一生カモにされ続けるからだ。
「そして、お前が犯したもう一つの致命的なミス。
それは――【マーケット選定(客層の選択)の決定的な失敗】だ」
「客層の、失敗……? で、でも、安い方がお客さんはいっぱい来てくれると思って……」
「ハッ! そこが資本主義の最大のパラドックスだ」
俺は鼻で笑い、スマホの画面に表示された悪質依頼主のDMを指差した。
「いいか白石、よく覚えとけ。
【安すぎる価格設定は、優良な顧客ではなく、最悪のモンスター(テイカー)を引き寄せる最強の撒き餌になる】んだよ!」
「えっ……!? 安くしたら、モンスターが来るの……?」
「当たり前だろ!
中学生でもわかる心理学だ。
『二千円でアイコンもヘッダーも立ち絵も描かせよう』などと考える人間が、クリエイターへの敬意や礼節を持ち合わせていると思うか?
彼らはな、『二千円しか払えない、あるいは他人の労力を極限まで買い叩くことしか頭にない、ド底辺の人間』なんだよ。
金を払わない人間ほど、権利意識だけは肥大化し、『金を払ったんだから神様だ』と勘違いして、無限の無償修正や理不尽な要求を突きつけてくる。
お前が『安くすれば喜んでもらえる』と善意で設定した二千円という価格が、結果として、お前の心を破壊する寄生虫を呼び寄せる扉を開けたんだ!」
雷に打たれたように、詩織が硬直した。
目から流れていた涙が止まり、その大きな瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。
「じゃあ……私が下手だから怒られてたんじゃ、なくて……?」
「下手なわけがあるか、このド阿呆が!」
俺は思わず声を荒らげ、タブレットの画面を詩織の顔の前に突きつけた。
「この光の表現を見ろ! このキャラクターの表情の艶やかさを見ろ!
色彩の統一感、視線誘導の巧みさ……こんな神レベルの絵を描ける人間が、日本に何人いると思ってんだ!
お前の絵の価値はな、二千円なんかじゃない。
適切なビジネスの市場――例えば、売上を伸ばしたい企業のLPのメインビジュアルや、高単価なWebメディアのオリジナル図解としてパッケージ化すれば、一枚で【三万円から五万円】、いやそれ以上の値段で引く手あまたになる本物の資産だ!
ビジネス用途で発注するクライアントはな、絵の価値で売上が増えることを知っているから、無茶な修正なんか要求しないし、納期を守れば正当な報酬と敬意を払ってくれるんだよ!」
「さ、三万……五万……!? そんなの、私には雲の上の世界だよ……っ!
私、営業なんてできないし、契約書の書き方もわからないし……」
怯えるように首を振る詩織。
その姿を見つめながら、俺の頭の中で、すべてのピースが完璧な音を立てて噛み合わさった。
圧倒的なクリエイティブの才能を持ちながら、マネタイズとマーケティングを知らないために、時給六十六円で買い叩かれている少女。
そして――資本主義のルールを叩き込まれ、マーケティングと交渉術を武器にしながらも、自分のコンテンツを持たない俺。
(……見つけた)
源蔵の言葉が、脳内で炸裂した。
『そういう原石を見つけ出し、てめえがレバレッジをかけてやるんだよ』
俺は深く息を吸い込み、詩織の正面に立ちふさがった。
そして、彼女の涙で濡れた瞳を真っ直ぐに見据えて、力強く告げた。
「白石。その悪質なクレーマーの案件、俺が全部引き受けてやる」
「え……? く、倉科くんが……?」
「ああ。相手の理不尽な無償修正を法的に叩き潰し、正当な対価を回収するか、あるいはノーダメージで契約を白紙解除してやる。
――そして、その代わりと言っちゃなんだが」
俺はスッと、自分の右手を差し出した。
「俺と組め、白石。
お前は、絵を描くことだけに集中しろ。
営業、単価交渉、契約、マーケティング、顧客対応……そういう泥臭いビジネスの領域は、すべて俺が完璧にマネジメントしてやる。
お前の描いた絵の価値を、今の【百倍】にして世の中に届けてやるよ」
「百、倍……っ!?」
詩織の息が止まった。
差し出された俺の手と、俺の目を、信じられない面持ちで見つめ返す。
(……勘違いするなよ、倉科湊)
俺は胸の内で、自分自身に冷徹な言い訳を並べ立てていた。
(これは同情でも、青春のセンチメンタリズムでもない。
将来のWebメディア事業を爆発的にスケールさせるための、極めて合理的な【優秀なクリエイティブ資源の先行投資】だ。
純資産一億円のFIREへ到達するための、最も期待値の高いビジネスアライアンス(業務提携)にすぎない)
合理主義の鎧で武装した俺の計算。
だが、そんな俺の言い訳など露知らず――詩織の目から、今度はまったく違う、大粒の温かい涙がポロポロと溢れ出していた。
「倉科、くん……っ」
彼女は震える両手で、俺の差し出した右手を、ぎゅっと壊れ物を扱うように包み込んできた。
柔らかくて、ひんやりとした指先の温もり。
「信じて……いいの……? 私、倉科くんについていって……いいのかな……?」
「当たり前だ。俺の計算に、狂いはない」
俺はフッと口元を吊り上げ、彼女の手を力強く握り返した。
「さあ、まずはそのクソったれな依頼主に、資本主義のルールってやつを教えてやろうぜ」
手取り十四万の工場男子と、時給六十六円で買い叩かれていた天才絵師。
二人の運命の歯車が、今、劇的な音を立てて噛み合おうとしていた。
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:18歳/食品工場ライン工(手取り月14万8,000円・種銭50万突破)
・総資産残高:518,000円(前話比:+57,000円)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+506,200円(不用品+セルフバック+せどり累計純利)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「自分の時給をゼロで見積もる奴は、搾取する側にとって最高のカモだ。安売りは優しさじゃねえ、悪質クレーマーを呼び寄せる撒き餌だと知れ」
読んでいただきありがとうございます。
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