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銀鹿亭

蝋燭の火が揺れた。


目の前に座る彼女は、まるで別人に見えた。


灰青色の古いスカート。

色は地味だが、仕立てはとても良い。


袖口はきれいに整えられ、爪もきちんと手入れされている。


背筋を伸ばし、両手を卓の上に軽く重ねていた。


パンを配っていた修道女の姿でもない。


路地で古い外套を深くかぶっていた、あの慎重な少女の姿でもない。


まるで宮廷の絵から抜け出してきた人間が、この古い食堂の小さな部屋に静かに座っているようだった。


「ずっと、あなたのことを見ていたの」


エレナが、先に口を開いた。


彼女が見ていたのは、俺ではない。


エリスだった。


「あなた、毎週教会に来てるでしょう?」


「……そうね」


「パンをもらうと、いつも端に立ってる。お年寄りが先に帰るのを見てから、自分も帰る」


エレナは、淡々と続けた。


「それに、二回ほど自分のパンを、灰色の服を着た男の子に分けてた」


「物覚えがいいのね」


エリスが言った。


「黒茨領の人たちの瞳は、ほとんどが茶色か灰青色」


エレナはエリスの目を見た。


「金色の瞳は珍しい」


エリスは何も言わない。


「髪も染めてるわね」


エレナの視線が、エリスの銀髪へ移った。


「色が均一じゃない。根元から伸びてきた色と、毛先の色が違う」


エリスの指が、ほんの少しだけ動いた。


だが、それだけだった。


「古い本で、竜血の家族について読んだことがあるの」


エレナが言った。


「金色の瞳を持つ者が多い。少数だけど、銀の髪を持つ者もいる」


俺は黙って聞いていた。


「帝国は、そういう家族の記録を厳重に隠してる。帝都の人間でさえ、ヴァンドリックとヴァルデマー以外の名前は、ほとんど知らない」


エレナは一度、言葉を切った。


「だから私は、あなたがどこかの没落した竜血の家の子なんじゃないかと思ってた」


「……」


「流れてきた小さな女の子が、一人で辺境の村に住んでいる」


その声が、少しだけ柔らかくなった。


「きっと大変なんだろうなって。だから、ずっとあなたと話してみたかった」


エリスは黙っていた。


表情も変わらない。


ただ、卓の上に置かれた指が、ほんのわずかに強張っていた。


「それが今日――」


エレナの視線が、俺へ向いた。


「急に、お兄さんを連れてきた」


俺を見る。


「あなたと同じ、染めた髪。そして金色の瞳」


俺は何も言わなかった。


エレナは少しだけ間を置いた。


「そして……私の秘密を言い当てた」


卓の縁に置かれていた彼女の指が、止まった。


「私の竜契は、ヴァンドリック家の人間と、あのとき竜穴にいた者以外、誰も知らないはずなの」


声が低くなる。


「黒茨領の領主ですら、詳しくは知らない」


エレナが、まっすぐ俺を見る。


「彼が知っているはずがない」


敵意はなかった。


もっと複雑な目だった。


長い霧の中を歩いてきた人間が、突然、別の誰かの足音を聞いたときのような目。


「だから、追いかけてきたの」


「どうして?」


エリスが聞いた。


「半分は興味」


エレナは少しだけ笑った。


「もう半分は、心配」


「何が心配なの?」


「あなたたち、このまま町を歩いていたら目立ちすぎる」


エレナの声から、笑みが消えた。


「私に分かるなら、砦の人間にも、いずれ分かる」


「警告するためだけに?」


「それだけじゃない」


エレナは答えた。


「私が知りたいからでもある」


「……」


「あなたたちが誰なのか」


彼女の視線が俺とエリスの間を往復する。


「どうして、私のことを知っているのか」


エリスは答えなかった。


俺は椅子の背にもたれ、目を半分閉じた。


彼女の推測は正確だった。


正確すぎる。


俺みたいに頭のぼんやりした人間でも分かる。


この少女は、ただ推測しているんじゃない。


確かめている。


「それで――」


エレナが聞いた。


「あなたたちは、どの家の血筋なの?」


俺は口を開きかけた。


頭の奥から、名前が勝手に飛び出そうとする。


「フェルミリ――」


鋭い痛みが、脚に走った。


「っ……」


エリスが、卓の下で俺の脚を思い切りつねっていた。


俺は横目で彼女を見る。


エリスは、何事もなかったような顔をしていた。


「ヴァルゾーン」


彼女が俺の言葉を引き継いだ。


声は、とても落ち着いている。


「私たちは、ヴァルゾーン家の末裔よ」


エレナはすぐには反応しなかった。


俺を見て。


それから、エリスを見る。


眉がほんの少しだけ寄った。


「ヴァルゾーン?」


「聞いたことのない名前でしょうね」


エリスが言った。


「帝国は、あなたたちに知らせないでしょうから」


「……」


「ヴァンドリックとヴァルデマー以外の名前は、とっくに記録から消されてる」


エリスの声は自然だった。


まるで、ずっと昔から決めていた話をしているように。


「ヴァルゾーンは、昔のドラコファルで二番目に強かった竜血の家。王家に次ぐ力を持っていた」


エレナは黙って聞いていた。


「聖戦で、一族はほとんど死に絶えた」


エリスは続けた。


「最後まで戦って」


長い沈黙が落ちた。


エレナはエリスを見ていた。


その目には、とても淡い何かがあった。


疑いではない。


同情とも、少し違う。


ある身分の中に、もう一人の自分を見つけたような――そんな目だった。


「……そうだったの」


エレナは、低く呟いた。


それ以上、何も聞かなかった。


俺たちの嘘は、彼女の中で一つの悲しい古い物語に変わったらしい。


そして俺は、さっきエリスが脚をつねった意味を、ようやく理解した。


俺は口を閉じた。


もう、何も言わない。


「それで――」


エリスが聞いた。


「私たちに何をしてほしいの?」


「帝国は、今、西の大きな領主たちが戦を始めている」


エレナが答えた。


「皇帝も重い病で、国をまとめる者がいない」


蝋燭の火が、また揺れた。


「黒茨領みたいな場所では、税は重くなる。兵は荒っぽくなる」


彼女は静かに続けた。


「私は毎週教会に来てる。でも、一人を助けるのがやっと。全員を助けるなんて無理」


エレナは一度、言葉を切った。


「だから、何かできる人を探してる」


その声には、決意があった。


「砦の兵は巻き込みたくない。私一人では無理だと思ってた」


そして、俺たちを見る。


「今日、あなたたちを見るまでは」


「私たちは、ただの薬草採りよ」


エリスが言った。


「あなたたちは、ヴァルゾーン家の末裔」


エレナは答えた。


「それに、お兄さんは私の竜契を一目で見抜いた」


部屋の中が、数秒間静まり返った。


「あなたたちの素性は聞かない」


エレナが言った。


「私にも、聞かれたくないことがあるから」


彼女は一度、俺を見る。


「でも今日、教会でお兄さんがあの言葉を言ったことで、私も動きにくくなった」


「……」


「誰かに聞かれていたら、私もあなたたちも面倒なことになる」


「それで、条件を出しに来たの?」


エリスが聞いた。


「違う」


エレナは首を振った。


「警告に来たの」


少しだけ間を置く。


「それと――お互いに助け合えないかと思って」


彼女は懐に手を入れた。


取り出したのは、小さなハンカチだった。


きちんと四角く畳まれている。


端には、銀色の糸で小さな花が刺繍されていた。


エレナは、それを卓の上に置いた。


「来週、また教会に来る」


「……」


「よかったら、これを持って教会の裏口へ行って。受付に見せて」


彼女はハンカチを指先で軽く押した。


「私のところへ案内させるから」


エリスは、すぐには手を伸ばさなかった。


「嫌なら、それまでよ」


エレナは言った。


「あなたたちは薬を売る。私はパンを配る。それだけ」


エリスはハンカチを見つめた。


それから、顔を上げる。


「私たちが、帝国の人間かもしれないとは思わないの?」


「思わない」


エレナは即答した。


「帝国の人間は、あんな古い方法で髪を染めたりしない」


「……」


「それに、『竜舎』なんて言葉も使わない」


エレナは少しだけ笑った。


「帝国なら、竜騎団か竜契所って言うでしょう?」


俺は黙っていた。


「あなたたちは帝国の者じゃない」


そう言って、エレナは立ち上がった。


古い外套を手に取り、ゆっくりと羽織る。


「来てくれて、ありがとう」


そして俺たちを見る。


「気をつけて帰って」


エレナは、ごく軽く頭を下げた。


扉を開ける。


そのまま、静かに部屋を出ていった。


---


部屋に、俺とエリスだけが残った。


しばらく、誰も何も言わなかった。


やがてエリスがハンカチを手に取る。


裏返す。


戻す。


指先で生地を確かめる。


そして、低い声で言った。


「この生地、けっこう売れるわね」


「……しまっておけ」


俺は言った。


「悪い人じゃない」


「分かってる」


エリスはハンカチをきれいに畳み直し、懐にしまった。


俺はゆっくり立ち上がった。


脚がまだ痺れている。


「痛い?」


エリスが聞いた。


「お前がつねったところはな」


「ごめん」


そう言いながら、彼女は俺の腕を軽く支えた。


「行こう」


エリスが言った。


「暗くなってきた」


食堂の裏口を出る。


通りには、もう灯りがついていた。


灯りが濡れた石畳に落ちて、金のかけらみたいに砕けている。


黒茨町は、昼より静かだった。


遠くの宿屋の前から、酒を飲んでいる男たちの声だけが、ぼんやり聞こえてくる。


俺たちは、並んで町を抜けた。


教会の横を通ったとき、俺は半開きの扉をちらりと見た。


入り口は空っぽだった。


長机も、もう片づけられている。


階段には雀が数羽、跳ねていた。


「アルド」


エリスが、不意に呼んだ。


「ああ」


「さっき、危なかった」


「……フェルミリオンを言いかけた」


「うん」


彼女は前を向いたまま言った。


「あの名前は、もう考えないで」


「……」


「特に、人の前では」


「分かった」


俺たちは黒茨町を出た。


道は、少しずつ暗くなっていく。


月は雲に隠れ、薄い光だけが地面を照らしていた。


灰葉村は、まだ山の向こうだ。


歩けば、かなりかかる。


俺はゆっくり歩いた。


エリスは急かさない。


歩幅を、俺に合わせてくれていた。


一度だけ、振り返る。


黒茨町は、もう夜に沈んでいた。


中腹の砦にだけ、いくつかの灯りがともっている。


白い石壁が月明かりに照らされて、冷たく浮かんでいた。


まるで山に伏せた老いた獣が、目を半ば閉じているようだった。


風が灰燼荒原の方から吹いてくる。


雨上がりの湿気と――


かすかな焦げた匂いを運んできた。


古い場所だった。


その古さが、胸の奥を重くする。


「行こう」


エリスが言った。


「私たち、もうすぐ黒茨領を出ることになるかもね」


俺は視線を戻した。


そして、彼女と並んで灰葉村への道を歩いた。


夜風が、灰燼荒原から吹いてくる。


古い灰と、雨の匂いを運んでくる。


俺たちは、もう何も言わなかった。

お読みいただき、ありがとうございました。


アルドとアイリスは、銀鹿亭でエレナと初めて言葉を交わしました。

互いにすべてを明かしたわけではありません。それでも、互いの秘密にうっすらと気づき始めています。


次章、エレナの兄、レオンが登場します。

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