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黒荆鎮

翌朝。


雨は、上がっていた。


マルサが言った。


今日は市が立つらしい。


エリスは黒茨町へ行くことにした。


昨日、売り損ねた薬草を売り、教会でパンをもらうためだ。


「兄さんも行くのかい?」


マルサが俺に聞いた。


「行くわ」


エリスが答えた。


「道を覚えさせたいから」


出発の前に、エリスは竈のそばから欠けた陶器の椀を持ってきた。


底には黒い草汁が入っていて、白い湯気が細く立ち上っている。


「頭を下げて」


俺は敷居に腰を下ろし、頭を下げた。


エリスは古い布を草汁に浸し、俺の髪へゆっくりと塗っていく。


まるで、何かに色をつけるような手つきだった。


草汁は苦く、少し冷たい。


髪の根元から染み込み、首筋へ流れていく。


「これは?」


「染め草」


「何のために?」


「あんたの髪、目立ちすぎるから」


「何色に?」


「黒よ」


俺は、


「ああ」


とだけ答えた。


それ以上は何も言わなかった。


エリスの手は軽かった。


時々、指先が耳に触れる。


そのたびに、彼女の手が小さく引っ込んだ。


しばらくして、エリスは身を起こした。


俺の前へ回り、髪を眺める。


「できた」


彼女は満足そうに頷いた。


「雨に濡れちゃだめよ。濡れたら落ちるから」


俺は外に置かれた、ひびの入った水甕を覗き込んだ。


水面に映った自分の髪は、暗い黒に染まっていた。


水面が揺れるたび、泥をかぶったようにも見える。


エリスは、また麦わら帽子を俺の頭に乗せた。


そして、つばをぐっと下げる。


「いい?」


彼女は俺を見上げた。


「取っちゃだめよ」


俺は帽子のつばに触れた。


「ああ」


---


俺たちは村を出た。


道にはまだ水たまりが残っていた。


その一つ一つに、白っぽい空が映っている。


エリスが前を歩き、俺はその後ろを歩いた。


彼女は速くない。


けれど、この道をよく知っている。


曲がり角では迷わず曲がり、分かれ道では一度も立ち止まらない。


半刻ほど歩いた頃。


道幅が、少しずつ広くなってきた。


前方に、灰色の石で造られた低い門が見える。


黒茨町の東門だった。


門の前には、六人の衛兵が立っていた。


二人は長槍を持ち、二人は腰の刀に手を置いている。


残りの二人は脇の石に座り、名簿をめくっていた。


町へ入る者たちは列を作っている。


薪を背負った者。


桶を担いだ者。


薬草を入れた籠を持つ者。


誰もが一人ずつ呼び止められ、簡単な確認を受けてから門を通っていた。


「最近は物騒だから」


エリスが小声で言った。


「町に入るときは調べられるの」


俺たちは列の最後尾に並んだ。


列はゆっくりと進んでいく。


もうすぐ俺たちの番。


そう思ったときだった。


顔に古い傷のある衛兵が、こちらへ歩いてきた。


衛兵の視線が、エリスへ。


そして、俺の肩に掛けられた籠へ移る。


「どこの者だ?」


「灰葉村です。町で薬を売りに」


エリスが答えた。


「何の薬だ?」


「灰葉根です」


エリスは籠を見せた。


「熱を下げる薬で、何日もかけて掘ったんです」


衛兵は刀の鞘で籠の口を開いた。


中から、数本の草の根が転がり出る。


衛兵はそれを確認してから、エリスを見た。


それから、俺を見る。


俺は麦わら帽子を深く被っていた。


見えているのは顎と口だけだ。


「兄貴は、なんで顔を上げない?」


「病気なんです」


エリスはすぐに答えた。


「風が怖いから」


「病気なら家にいればいいだろう」


衛兵の目が細くなる。


「それで、なんで市に出る?」


「家に麦がないんです」


エリスは少しだけ頭を下げた。


「薬を売らないと、粉に換えられないから」


衛兵は黙った。


しばらく俺たちを見ていたが、それ以上は聞かなかった。


籠の中を手でかき回す。


そして、俺の肩を二度叩いた。


「通れ」


衛兵は顎で町の中を指した。


「町で面倒を起こすなよ」


「はい」


俺たちは東門を抜けた。


---


門の先は坂道になっていた。


石畳を登りきる。


その先で、黒茨町の全景が見えた。


黒茨町は、山の南側に造られた町だった。


灰色の石の箱を、山の斜面に沿って下から上へ積み重ねたように見える。


いちばん下には低い民家。


上へ行くほど家々は密集し、屋根と屋根が重なっている。


白く褪せた石畳が町の入り口から斜めに伸び、何度も曲がりながら、家々の隙間へ消えていた。


さらに上。


山腹には灰色の石垣が何段も続いている。


その奥に、四角い塔が一本立っていた。


その向こうにあるのが、要塞だ。


要塞は新しくもなければ、立派でもなかった。


壁面は風雨に削られ、場所によって石の色が違っている。


継ぎ接ぎだらけの古い外套。


そんな印象だった。


最も高い場所には、何本かの旗が翻っている。


風が強く、紋章までは見えなかった。


町へ入る。


石畳は無数の車輪に削られて、ところどころ深くへこんでいた。


そこに昨夜の雨が溜まっている。


両側には二階、三階建ての古い家々。


一階のほとんどは店だった。


鍛冶屋。


革屋。


穀物屋。


木製の看板は古く、文字が擦れて読めないものも多い。


中には、文字すらなく、絵だけを描いた看板もあった。


空気には鉄の粉と古い革の匂い。


その奥から、焼き菓子の甘い匂いも漂ってくる。


灰葉村よりも、人は多い。


けれど、賑やかではなかった。


皆、壁際を歩いている。


声も小さい。


薪を担いだ男が二人、俺たちの横を通り過ぎた。


俺たちには、一度も目を向けなかった。


エリスは二つの路地を抜けた。


向かった先は、町の南側にある教会だった。


尖塔の先端が欠けている。


古びた教会だ。


その入り口には、長い列ができていた。


「ここに並んで」


エリスが言った。


俺も列に並ぶ。


そのほうが、一人分多くパンをもらえるらしい。


雨上がりの教会前は静かだった。


聞こえるのは、人の足音。


そして、パンを受け取るたびに交わされる小さな声。


「ありがとう」


俺は俯いたまま、麦わら帽子をさらに深く被った。


もうすぐ俺たちの番。


そのとき。


エリスが俺の袖を引いた。


「顔を上げないで」


俺はエリスを見る。


彼女は前方を見ていた。


「あの令嬢も見ないで」


「ああ」


前には、あと二人。


長机の向こうに、一人の少女が立っていた。


灰青色の古いスカート。


黒い髪を、青い布紐で束ねている。


老人へパンを渡すときの手つきは、とても軽かった。


まるで、相手を驚かせないようにしているみたいだった。


「こんにちは、エリス」


少女の声が聞こえた。


「エレナ様」


エリスは丁寧に頭を下げた。


俺は動かなかった。


麦わら帽子の影が、顔の上半分を隠している。


少女がこちらを見る。


けれど、すぐに目を伏せた。


彼女はパンを何個か古い布に包み、エリスへ差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


エリスが受け取る。


俺は最後まで、顔を上げなかった。


そのまま教会を出ようとした。


――そのとき。


匂いがした。


パンの匂いではない。


教会の古い木の匂いでもない。


もっと薄い。


古い革。


鉄。


そして――鱗。


俺の足が止まった。


「お前から……」


口が勝手に動いた。


「竜の匂いがする」


自分の声なのに、どこか遠くから聞こえたような気がした。


少女の動きが止まった。


手には、まだ包み終えていないパンが半切れ残っている。


ゆっくりと、顔が上がった。


俺も顔を上げた。


麦わら帽子の下から、彼女と目が合う。


少女は、十七歳くらいだった。


淡い金色の瞳。


黒茨領には不似合いなほど、澄んだ目。


けれど――


その奥にある何かが、俺の言葉に刺されたように揺れた。


長いあいだ隠してきた傷を。


突然、指で示されたような顔だった。


「……なんて言ったの?」


少女が聞いた。


エリスが、ぐいっと俺の袖を引く。


「すみません」


エリスはすぐに頭を下げた。


「これ、私の兄です」


「昔、竜舎で働いてたことがあって……」


一瞬だけ、エリスの声が止まった。


「病気になってから、おかしなことばかり言うんです」


少女は何も言わなかった。


俺を見る。


それから、エリスを見る。


数秒。


沈黙が続いた。


やがて少女は目を伏せた。


そして、残っていた最後のパンも布に包み、エリスへ差し出す。


「……どうぞ」


エリスが受け取った。


少女は、小さな声で言った。


「外で、あんまり雨に濡れないで」


エリスは答えなかった。


俺の袖を引き、そのまま歩き出した。


教会を出る。


雨は、もうほとんど止んでいた。


路地は静かだった。


聞こえるのは、俺たちの足音だけ。


俺は一度だけ振り返った。


あの少女は、まだ長机の後ろに立っていた。


こちらを見てはいない。


ただ――


片方の手で、もう片方の手首を。


ぎゅっと、握っていた。

第7️⃣章をお読みいただき、ありがとうございました。


アルドが、ようやく目を覚ましました。


二人は初めて黒茨町へ足を踏み入れ、エレナと出会いました。


それでは、また次章でお会いしましょう。

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