灰葉村
第五紀元。
聖恩帝国北東辺境――黒茨領、灰葉村。
最初にあったのは、声だけだった。
遠い。
水の底から、ゆっくりと浮かび上がってくるような声。
少女が話しているのか。
それとも、歌っているのか。
言葉の意味は、ひとつもわからない。
けれど、その一音一音だけが、やけに重かった。
暗闇へ落ちた声が、波紋のように広がっていく。
「――古竜の神、ヴァルゾクシスよ」
「灰燼に眠りし者、再び目覚めよ」
「過去を忘れし者、その火を再び燃やせ」
「竜痕の主――アルド・ヴァーミリオン」
「その目を、開け」
古い言語が、狭い空間の中で炸裂した。
まるで、長いあいだ封じられていた何かが、檻から解き放たれたようだった。
その瞬間。
身体が、戻ってきた。
最初に訪れたのは、痛みだった。
右肩。
左腹。
右足。
三箇所を、焼けた鉄の杭で同時に貫かれたような激痛。
肺へ入った空気が刃物となり、喉の奥を切り裂く。
心臓が、胸の中で大きく跳ねた。
どん、と。
そのまま喉から飛び出してしまいそうだった。
俺は必死に息を吸った。
灰。
塵。
何百年ものあいだ、誰にも触れられなかった場所の、古びた苦い匂い。
ゆっくりと目を開く。
視界の中を、銀色の光が満たしていく。
灰だったものが、少しずつ肉へと戻っていく。
骨が。
血が。
皮膚が。
失われていたはずの身体が、銀の光の中で再び形を取り戻していく。
光が、狭い空間を照らし出した。
黒い石。
折れた柱。
そして――
すぐ隣で跪いている、一人の少女。
金色の瞳。
黒く染めた髪。
けれど、その根元からは不完全に白い色が覗いている。
少女は両手を前へ伸ばしたまま、指先にほんの少しだけ銀色の光を残していた。
まるで、ついさっきまで燃える何かに触れていたように。
「起きた?」
少女が言った。
俺は口を開いた。
けれど、声が出ない。
喉がひどく乾いている。
まるで五百年分の錆が、そこに詰まっているようだった。
それでも、無理やり声を絞り出す。
「……エリス」
自分でも驚くほど、自然にその名前が口から出た。
記憶の中にいるエリスよりも、ずいぶん小さくなっていた。
少女の手が、一瞬だけ止まった。
金色の瞳が、暗闇の中で光る。
猫の目のようだった。
「うん」
彼女は小さく頷いた。
「私」
それから。
エリスは頭を下げた。
そして、額をそっと俺の胸へ押し当ててきた。
その額は、やけに熱かった。
まるで、俺の胸へ何かを焼きつけようとしているみたいだった。
「遅かったね、アルド」
彼女は、静かに言った。
三本の聖釘を俺の身体から抜くのに――十年かかった、と。
「五百年よ」
その言葉だけが、暗闇の中に落ちた。
俺は黙っていた。
五百年。
それが、何なのか。
俺にはわからなかった。
昨日が何だったのかさえ、思い出せない。
俺たちは地下の廃墟から、外へ向かった。
道は長く、暗く、果てが見えなかった。
エリスが先を歩き、俺はその後をついていく。
右足の奥を、何かに食い荒らされているようだった。
一歩踏み出すたび、力が抜けていく。
エリスはしばらく俺の身体を支えてくれた。
けれど、やがて手を離した。
自分の足で歩け、と言うように。
外へ出る。
雨が降っていた。
強くはない。
灰のように細かな雨だった。
周囲には、黒く崩れた壁ばかりが残っている。
土の中から半分だけ突き出したそれは、まるで死人の歯のようだった。
北から吹く風が、焼けたものの匂いを運んでくる。
「ここは、昔あなたの王都だった」
エリスが言った。
俺は彼女を見る。
けれど、エリスは振り返らない。
そのまま歩き続けた。
「……今は?」
「灰燼荒原」
彼女は俺の半歩前を歩いていた。
道案内をしているようでもあり。
同時に、風から俺を庇っているようでもあった。
しばらく歩いたところで、俺たちは衛兵に遭遇した。
雨は、さっきより強くなっていた。
俺たちは大通りを避けた。
エリスによれば、夜は巡回が多いらしい。
小道は歩きにくい。
けれど、木々が生い茂っているため、見つかりにくい。
俺は、とてもゆっくり歩いた。
エリスは俺の手首を引き、そのうち腕を支えてくれた。
黒茨の枝が頬を打つ。
痩せた指のようだった。
「あと、どれくらいだ?」
「この坂を越えたら」
エリスがそう言い終えた、そのときだった。
背後に、光が見えた。
衛兵が二人。
坂を下ってくる。
手には風灯。
雨に濡れていて、顔はよく見えない。
ただ、鎧だけが黄色い光を反射していた。
「おい! あそこに誰かいるぞ!」
一人が叫んだ。
エリスは走らなかった。
その場に立ち止まり、俺を背中に庇う。
「動かないで」
小さな声だった。
衛兵二人が、目の前までやってくる。
背の高い方が剣に手をかける。
もう一人が風灯を持ち上げ、俺たちの顔を照らした。
「何者だ?」
エリスは胸元の籠を抱えたまま、声を小さく、柔らかくした。
「私たち、荒原のそばで薬草を掘っていたんです」
そして、俺をちらりと見た。
「この人は兄です。病気で、歩けなくて……」
エリスは籠を差し出した。
「この薬草、全部あげます」
「灰葉根っていう薬草です。売れば、お金になります」
「だから……お願いです。通してください」
背の低い衛兵は籠を奪い取った。
中を二度ほどかき回す。
そして――
薬草をすべて泥の中へ捨てた。
灰白色の根が地面へ散らばり、雨に打たれながら泥の中へ沈んでいく。
「金」
衛兵が手を出した。
エリスは懐から銅貨を数枚取り出した。
両手で差し出す。
衛兵はそれを奪い取った。
そしてエリスを見る。
「お前は、そこで待っていろ」
「あとで調べてやる」
背の高い衛兵が、俺の前まで歩いてきた。
俺は麦わら帽子をかぶっていた。
男が手を伸ばす。
帽子を取ろうとして――
「顔を見せろ」
俺の身体が、先に動いた。
手が上がる。
衛兵の手首を掴んだ。
次の瞬間。
赤い雷が、掌から溢れ出した。
雨を伝い、男の腕全体へ走っていく。
「――ッ!」
背の高い衛兵の身体が、糸を切られた人形のように後方へ弾け飛んだ。
泥の中へ叩きつけられる。
鎧の隙間から、白い煙が立ち上った。
風灯が地面へ落ちる。
そして――消えた。
「ひっ……!」
背の低い衛兵が、エリスから手を離した。
そして逃げようとする。
俺は、一歩踏み出した。
指先では、まだ赤い雷が跳ねている。
それは勝手に形を変えていく。
細く。
長く。
やがて、槍のような形になった。
名前は知らない。
けれど――
俺の身体が、この技を覚えている。
「やめて!」
エリスが叫んだ。
駆け寄ってきた彼女が、俺の手首を掴む。
雨が強く降り注いでいた。
彼女の顔は、もうびしょ濡れだった。
「殺さないで」
エリスが言った。
俺は彼女を見る。
金色の瞳。
その目は、恐怖で揺れているわけではなかった。
もっと別の何かを知っている目だった。
この先に何が起こるのか。
すべて、わかっているような目。
俺はしばらく黙っていた。
やがて――
雷を消した。
背の低い衛兵は、這うように逃げていった。
エリスは地面に落ちていた剣を拾った。
そして両手で持ち上げる。
「……え?」
次の瞬間。
鈍い音が響いた。
エリスは、その男の後頭部を剣の柄で殴った。
男は低く唸り、そのまま泥の中へ顔から突っ伏した。
動かない。
雨だけが降り続いていた。
俺たちは二人の衛兵を茂みの中へ引きずり込んだ。
俺は背の高い衛兵の懐から、銅貨を二枚抜いた。
けれど――
エリスに睨まれた。
俺は無言で銅貨を戻した。
「行こう」
エリスが言った。
灰葉村の灯りは、まだ消えていなかった。
*
マルサの家は、村の東。
いちばん外れにある石造りの家だった。
戸口は低く、入るときには頭を下げなければならない。
中へ入る。
囲炉裏では黒茨の枝が燃えていた。
壁には干し草が吊るされている。
そして、空気には灰葉根を煮たような苦い匂いが漂っていた。
「帰ったのかい」
奥から、マルサが出てきた。
古い羊皮の上着を羽織っている。
彼女はまずエリスを見た。
それから、俺を見る。
何者なのかとは聞かなかった。
「兄さん」
エリスが言った。
「私の兄」
「入りな」
マルサは、それ以上何も聞かなかった。
「びしょ濡れじゃないか」
彼女は乾いた布を取りに行き、囲炉裏へ薪を二本くべる。
小柄な身体。
少し曲がった背中。
歩く姿さえ、この家と、この村に長いあいだ押さえつけられてきたように見えた。
俺は囲炉裏のそばに座った。
濡れた服が身体に張りついている。
マルサは熱い汁を二杯運んできた。
薄い汁だった。
中には灰葉の葉が浮いている。
一口飲む。
苦い。
けれど、不思議と身体が温まった。
「兄さんは病気なんだから、もう雨に濡らすんじゃないよ」
マルサがエリスに言った。
「わかってる」
エリスは俯いたまま汁を飲む。
俺の顔は、見なかった。
*
夜。
俺は草を敷いただけの粗末な寝床に横になった。
屋根を叩く雨音を聞いていた。
エリスは奥の部屋で眠っている。
マルサは戸を閉めなかった。
蝶番が壊れているらしく、隙間からずっと風が入り込んでくる。
眠れない。
頭の中で、何かが鳴っている。
記憶ではない。
記憶より、もっと前にあるもの。
竜の翼。
燃え上がる王城。
空から降りてくる、黄金の十字架。
断片的な光景だけが、長い夢のように浮かんでは消えていく。
けれど。
その夢に出てくる「あの人」の顔だけは――
どうしても思い出せなかった。
雨音だけがある。
静かな夜だった。
やがて、奥の部屋から小さな物音がした。
エリスが寝返りを打ったのだろう。
草の敷物が、かすかに音を立てた。
俺は目を閉じたまま、その音を聞いていた。




