獲物
「……来い」
モールはゆっくりと剣を構えた。
処刑台の下。
ガストンは手にした剣を強く握りしめる。
その背後では、三人の兄弟たちもすでに戦う準備を整えていた。
もう、誰も口を開かなかった。
誰もが分かっている。
次の瞬間。
それが、生死を分ける戦いになる。
先に動いたのは、モールだった。
轟ッ!
足元が弾ける。
その身体が、まるで砲弾のようにガストンへと突っ込んだ。
ガキィィン――!!
剣と剣がぶつかった瞬間、火花が四方へ散る。
ガストンの身体が、凄まじい力によって後方へ押し込まれた。
だが、モールは息をつかせない。
二撃目。
三撃目。
四撃目。
一撃ごとに、速くなる。
「老いたな、ガストン!」
「……」
ガストンは答えない。
ただ、ひたすらに受ける。
見極める。
待つ。
モールの剣術が強いことは、以前から知っていた。
だが、実際に刃を交えて初めて気づいた。
この数年で。
モールは自分の剣を、人を殺すための武器へと磨き上げていた。
余計な動きはない。
迷いもない。
振るう剣は、すべて急所へ向かってくる。
ガキィン!
ガストンが一撃を受け止める。
その瞬間、モールが突然、足を振り上げた。
ドンッ!
ガストンの胸に蹴りが叩き込まれる。
身体が後方へ滑った。
モールはすぐさま追いかける。
「震地!」
ドォン!!
地面が激しく震えた。
ガストンの足元が崩れる。
その隙を逃さず、モールの剣先が目の前まで迫った。
「鎖地」
ガストンが低く呟く。
次の瞬間。
足が地面を捉えた。
身体を横へ捻る。
剣先が頬を掠めていく。
一筋の血が流れた。
だが。
ガストンは、その一瞬を逃さなかった。
「牽引」
剣先が突然、軌道を変える。
すでにモールの身体を通り過ぎたはずの剣が、強引に後方へ引き戻された。
ザシュッ!
モールの肩が切り裂かれる。
鮮血が噴き出した。
「ぐっ……!」
モールが数歩後退する。
肩を押さえた。
ガストンは追撃しなかった。
ただ、静かにモールを見つめる。
「お前の剣は……まだ焦りすぎている」
モールが顔を上げる。
その目が、険しく細められた。
「偉そうに説教するな」
そして、再び突っ込んでくる。
---
二人の剣が、再び激突した。
今度、ガストンは正面から受け止めなかった。
ひたすら後退する。
その一歩、その一歩。
すべてが、ほんの僅かな差だった。
モールの剣先が、何度もガストンの身体を掠めていく。
だが。
モールが次の一撃を振り下ろそうとした、その瞬間。
ガストンが一歩、前へ出た。
「裂鳴」
ブゥゥン――。
剣身が低く唸る。
ガキィィィン!!!
二本の剣がぶつかった。
モールの剣が激しく震える。
同時に、握っていた拳の皮が裂けた。
血が流れる。
「何……?」
ガストンは止まらない。
一撃。
ガキィン!
二撃。
ガキィン!
三撃。
モールの腕が、徐々に痺れていく。
そして――
四撃目。
パキッ。
剣身に亀裂が走った。
モールの表情が、初めて変わる。
「お前……」
ガストンは止まらない。
五撃目。
ドォン!!
モールの剣が、完全に砕け散った。
折れた刃が宙を舞う。
そして。
ガストンの剣先が、モールの喉元で止まった。
周囲が、一瞬で静まり返る。
「終わりだ」
モールは、ガストンを睨みつけた。
「……まだだ」
その瞬間。
黒い紋様が、モールの腕に浮かび上がった。
ガストンの瞳が細くなる。
この力は……。
さっきまでとは、まるで違う。
「解放……」
モールが歯を食いしばる。
轟!!
地面が一瞬で裂けた。
漆黒の亀裂が、モールの足元から走り出す。
ガストンは即座に後退した。
亀裂が、足元すれすれを通り過ぎる。
轟音。
背後の石壁が、まるごと引き裂かれた。
「これは……何だ……」
ガストンが、初めて険しい表情を浮かべる。
モールは荒い息を吐いていた。
黒い紋様は、すでに左腕全体へと広がっている。
しかし。
その身体もまた、激しく震えていた。
皮膚の下から、血が滲み出ている。
明らかだった。
この力を、完全には制御できていない。
「はは……」
モールが笑う。
「怖くなったか?」
「これが……俺の力だ」
ガストンは黙ってモールを見る。
「本当にお前の力なら」
「なぜ、お前自身が耐えられていない?」
モールの顔が歪む。
「黙れ!」
轟!!
再び、黒い亀裂が走る。
ガストンは身体を横へ滑らせてかわした。
次の瞬間。
すでにモールの目の前まで踏み込んでいた。
「終わりだ」
剣閃が走る。
ズブッ!
剣がモールの肩を貫いた。
「ぐ……!」
モールの身体が大きく震える。
鮮血が剣身を伝って流れ落ちる。
ガストンは足を振り抜いた。
モールの身体が地面へ叩きつけられる。
モールは必死に身体を起こした。
そして、周囲を見回す。
次の瞬間。
踵を返し、そのまま走り出した。
「待て!」
ガストンが剣を抜き、追いかける。
モールは振り返らない。
もう理解していた。
自分では、ガストンに勝てない。
だが。
ここで死ぬわけにはいかなかった。
要塞へ戻れば。
まだ兵士がいる。
援軍もいる。
彼らと合流さえできれば……。
まだ、勝機はある。
---
夜の闇の中。
モールは傷ついた身体を引きずりながら、東へ向かっていた。
血が、泥の上に一滴ずつ落ちていく。
その後ろを、ガストンが追い続ける。
ガストン自身も、すでに限界に近かった。
それでも。
止まらない。
「モール!」
「逃げられると思うな!」
モールが一度だけ振り返る。
ガストンは、すぐ後ろまで迫っていた。
距離が、徐々に縮まっている。
「くそ……」
モールは歯を食いしばった。
その先。
遠くに、黒茨要塞の灯りが見え始める。
モールの目に、ようやく希望が浮かんだ。
「もう少し……」
「あと少しだ……」
その時だった。
モールが足を止めた。
前方の道に。
一人の死体が横たわっていた。
モールの表情が固まる。
「……何だ、これは?」
数歩進む。
二人目。
三人目。
四人目。
……。
死体は、どんどん増えていく。
すべて。
黒茨要塞の兵士だった。
同じ鎧を身につけている。
手にした武器すら、抜く暇がなかったかのようにそのままだ。
モールの顔から、徐々に血の気が引いていく。
「二隊の援軍が……?」
「そんなはずが……」
低く呟く。
「これは……」
ガストンも足を止めた。
無数の死体を見つめる。
そして。
その視線が、死体の向こう側へ向いた。
そこに。
一人の男が立っていた。
黒いローブ。
顔は、深く被ったフードに隠されている。
その足元には。
最後の兵士が倒れていた。
「お前は……誰だ……」
モールが拳を握る。
黒衣の男は答えない。
ただ、ゆっくりと顔を上げた。
「お前が……モールか?」
モールの身体が僅かに強張る。
「俺を知っているのか?」
黒衣の男は答えなかった。
次の瞬間。
その姿が消える。
ドンッ!!
モールの身体が、凄まじい勢いで吹き飛んだ。
「ぐあっ!」
身体が木に叩きつけられる。
まだ何が起きたのか理解する暇もない。
黒衣の男は、すでに目の前にいた。
その手が。
モールの首を直接掴む。
「ぐ……っ!」
両足が地面から浮く。
黒衣の男の指が、徐々に首へ食い込んでいく。
「お前の身体……」
「少し……妙だな」
モールは必死に抵抗する。
相手の手首を掴む。
だが。
びくともしない。
顔が急速に赤くなる。
視界が、徐々に霞んでいく。
その光景を。
ガストンは暗闇の中から見ていた。
まだ、出てはいけない。
そう感じていた。
なぜなら。
モールの左腕に浮かぶ黒い紋様が、黒衣の男の視線を受けて、ゆっくりと光を放っていたからだ。
「崩界刻印……」
黒衣の男が、低く呟く。
ガストンの瞳孔が大きく開く。
知っている。
この名前を……。
いや。
ただ知っているだけではない。
その口調はまるで。
この力が何なのかを、最初から知っているようだった。
「なるほど……」
黒衣の男が、モールを見つめる。
「これは思わぬ拾い物だ」
「力が足りないわけではない」
「お前の脆弱な身体では、耐えられないということか」
モールは、もう答えることができない。
意識が、徐々に遠のいていく。
そして。
完全に意識を失う、その寸前。
黒衣の男の手が、突然離れた。
ドサッ。
モールが地面へ落ちる。
激しく咳き込んだ。
黒衣の男は、モールを殺さなかった。
ただ。
左腕に刻まれた刻印を一瞥する。
「……まだ、その時ではない」
そう言い残し。
黒衣の男は背を向けた。
そして。
そのまま森の奥へ消えていった。
ガストンは、なおもその場に立ち尽くしていた。
追わない。
追うこともできない。
彼の視線は、地面に横たわる兵士たちへ向けられていた。
二隊の援軍。
全員、死んでいる。
つまり……。
モールが助けを求めようとしていた援軍は。
とっくに消えていた。
そして、それ以上に重要なのは。
あの黒衣の男が、モールの身体にあるものを知っていたこと。
それどころか。
なぜ、その力を完全に引き出せないのかまで知っていた。
ガストンは拳を強く握りしめた。
「……聖灰会、だと?」
ようやく理解した。
これは、単なる黒茨領の反乱ではない。
あの、噂だけが先行していた組織が……。
すでに、この戦いへ介入している。
一体、何が目的なんだ……?
ガストンは、地面に倒れたモールへ視線を落とす。
モールは窒息と重傷によって、完全に意識を失っていた。
数秒。
ガストンは黙っていた。
やがて、剣を鞘へ収める。
「……ここで止まっている場合じゃない」
「このことを、みんなに伝えなければ」
黒茨要塞の方角を見る。
そして。
ガストンは踵を返した。
別の道へ。
要塞へ戻るには、最短の道ではない。
だが。
あの聖灰会の男を避けることができる道だった。
自分が、あとどれだけ持つのか。
ガストンには分からない。
それでも。
今は戻らなければならない。
中にいる者たちへ。
自分が見たすべてを伝えるために。




