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第三観察使

 要塞が陥落し、老ローワンの死が伝えられると、残っていた衛兵たちはついに武器を捨てた。


 城壁の上には、白旗がゆっくりと掲げられる。


 戦争は、終わった。


 投降した衛兵たちはまとめて拘束され、反乱軍は戦場の後始末を始めていた。


 倒れた兵士。


 地面に散らばった武器。


 そして、あちこちに残る血の跡。


 激戦の跡を残した要塞は、ようやく静けさを取り戻し始めていた。


 その時だった。


 遠くから、一人の男がこちらへ歩いてくる。


 俺は顔を上げた。


「……」


 ガストンだった。


 全身傷だらけで、鎧もあちこちが壊れている。


 歩くたびに、その身体が限界に近いことが分かった。


 それでも。


 ガストンは戻ってきた。


 俺たちの前まで来ると、荒い息を吐きながら周囲を見回す。


 そして、城壁に掲げられた白旗を見た。


 戦争が終わったことを確認したのだろう。


 ほんの少しだけ、表情が緩んだ。


 だが――


「……聖灰会の奴に……遭遇した……」


 その瞬間。


 ガストンの背後に、黒い影が音もなく現れた。


「ガストン!」


「後ろだ!」


 俺たちが異変に気づいた時には、すでに遅かった。


 ズブッ――!


 黒い手が、ガストンの胸を貫いた。


「……っ!」


 鮮血が飛び散る。


 ガストンの身体が大きく震えた。


 そして――


 力を失った身体が、地面へと崩れ落ちる。


「ガストン!」


 バルが駆け寄る。


 その背後で、黒い影がゆっくりと立ち上がった。


 黒いローブ。


 深く被ったフード。


 その顔は隠されている。


 エレーナは、その姿を呆然と見つめていた。


 そして――


 瞳を大きく見開く。


「……イサク?」


 間違いない。


 彼女の身の回りの世話をしていた、若い従者。


 馬の世話をし、水を運び、食事を届ける。


 目立つこともなく、騎士たちともほとんど話さなかった少年。


 だが。


 どうして……?


 どうして今まで、気づかなかったのか。


 一体、いつから――。


 黒衣の人物が、ゆっくりと手を上げた。


 指先が、自分の顔に触れる。


 そして――


 ビリッ。


 皮膚が裂ける音がした。


 次の瞬間。


 その顔が、一枚の薄い皮膜のようにゆっくりと剥がされていく。


 イサクの顔が、完全に剥がれ落ちる。


 その下から現れたのは――


 見知らぬ若い女の顔だった。


 顔だけではない。


 身体の輪郭までもが変化している。


 そして何より。


「……初めまして」


 口から出た声も、完全に別人だった。


 若い女の声。


 エレーナの表情が凍りつく。


 目の前にいるのは、もう彼女の知るイサクではない。


 その瞬間。


 俺は動いた。


 ドンッ!


 赤い雷が両脚を包む。


 地面を蹴り、俺は一気に跳び上がった。


 垂直に。


 そして、瞬きする間もなく女の目の前へ到達する。


 刀を突き出した。


 ズブッ!


 刃が頭部を貫く。


 だが――


 次の瞬間。


 女の身体が、水面のように波打った。


 ビクッ、と身体が震える。


 いや。


 違う。


 一枚。


 二枚。


 幾重もの皮膚が、波紋のように揺れ始めた。


 そして顔までもが流動する。


 一つの顔。


 二つの顔。


 三つの顔。


 まるで無数の人間の顔が、その皮膚の下を流れているかのようだった。


「ああ……」


 女は笑った。


「毋庸置疑――」


 その声には、隠しきれない興奮が滲んでいる。


「この古き雷の力……」


「古竜の血を流す者にしか、扱うことはできない」


 女の顔が、再び一つに戻っていく。


 そして、その目が俺を見つめた。


「あなたが……あの伝説の男なのですね?」


 俺は刀を握ったまま、目を細めた。


 くそ。


 こいつ……。


 一体、どこまで知っている?


 隣でアイリスが嫌そうに顔をしかめる。


「……その能力、本当に気持ち悪いわね」


 俺は答えない。


 再び龍雷を両脚へ集中させる。


 そして――


 一気に踏み込んだ。


 二連撃。


 刃が続けざまに女へ迫る。


 ガキン!


 ガキン!


 二度の斬撃を、女は真正面から受け止めた。


 その瞬間。


 女の傷口から、黒い糸が這い出してくる。


 疫糸。


 それは刀身を伝い、瞬く間に俺の手へと伸びてきた。


「……っ!」


 俺は即座に刀を手放した。


 刀が地面へ落ちる。


 同時に後方へ跳ぶ。


 だが、女は追ってこなかった。


 両手をゆっくりと交差させる。


 鋭い爪が、刃物のように擦れ合った。


 シュッ――!


 十本の指に傷が走る。


 そこから大量の疫糸が、一斉に射出された。


「!」


 俺は身体を捻る。


 一つ。


 二つ。


 さらに一つ。


 疫糸が次々と身体の横を通り過ぎていく。


 だが、すべては避けきれなかった。


 数本が俺の身体に突き刺さる。


 触れた瞬間。


 疫糸が、俺の肉体へと猛烈な勢いで潜り込んできた。


 肉の中を這い、さらに奥へと侵食しようとしている。


 だが――


 皮膚の内側へ入った、その瞬間。


 疫糸の動きが止まった。


 力を失い。


 そのまま消えていく。


「……」


 女が動きを止めた。


 そして。


 その瞳が大きく見開かれる。


「……毋庸置疑!」


 女の顔に、狂喜にも似た笑みが浮かんだ。


「やはり……!」


 俺は拳を握る。


 何なんだ、こいつは。


 なぜ、そんなに嬉しそうなんだ。


 その時。


 ヒュッ!


 一筋の矢が飛んできた。


 矢は女の頭部を正確に捉える。


 ズドッ!


「今だ!」


 バルの声。


 同時に、アイリスが一本の刀を俺へ投げてよこした。


 俺はそれを掴む。


 龍雷を両脚へ。


 ドンッ!


 地面が砕ける。


 俺は再び女へ突っ込んだ。


 刀を振り下ろす。


 ガキン!


 女の爪が突然伸びる。


 黒く鋭い爪が刃となり、俺の斬撃を受け止めた。


 火花が散る。


 俺はそのまま二撃目を放つ。


 女は身体を捻って避ける。


 反撃。


 俺は身を低くしてかわす。


 そして、再び踏み込む。


 ガキン!


 ガキン!


 わずか数呼吸。


 俺と女は至近距離で、何度も刃を交わした。


 だが――


 女が突然、後方へ跳んだ。


 両手から大量の疫糸が溢れ出す。


 黒い糸が空中で絡み合い、瞬く間に一枚の巨大な網を形作った。


 俺と女の間を、黒い疫糸の網が完全に遮る。


 俺は足を止めた。


 女は網の向こう側に立っている。


 そして、ゆっくりとローブを整えた。


 その仕草は、まるで今まで戦っていたことなどなかったかのように優雅だった。


 女は一歩下がり――


 優雅に一礼する。


「私は、灰痂修道会の第三観察使」


 若い女の声が、静かに響いた。


「本来の目的は、レオン・ヴァンドリック」


「ですが……」


 女の視線が、まっすぐ俺へ向けられる。


「まさか今日、伝説のドラコファルの竜帝をこの目で拝見できるとは」


 周囲の空気が凍りついた。


 誰も言葉を発しない。


 女は微笑む。


「まことに光栄です」


 そして。


 もう一度、俺を見た。


「それでは――またお会いしましょう」


「アルド様」


 その瞬間。


 女の身体が黒い影へと変わった。


 ガストンを襲った時と同じだった。


 一瞬。


 黒い影が揺らぐ。


 そして――


 消えた。


「……」


 誰も言葉を発しなかった。


 しばらくして。


 ようやく、その場にいた全員が息を吐く。


 俺はゆっくりと振り返った。


 そこにあったのは、複雑な表情を浮かべる仲間たち。


 そして最後に。


 俺の視線は、アイリスへ向かった。


 彼女は俺を見ながら、深いため息をついている。


「……」


 俺も黙ったまま彼女を見る。


 どうやら。


 今回は、何か説明しなければならないらしい。


 その一方で。


 バルはすでにガストンのもとへ向かっていた。


「まずは、ガストンの遺体を安置してやってくれ」


「はい!」


 数人の反乱軍が駆け寄り、倒れたガストンの遺体を慎重に抱え上げる。


 城壁の上では。


 白旗が、静かに風に揺れていた。

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