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竜の絆、領主の最期

「……なぜだ……?」


レオンは、目の前の男を睨みつけていた。


先ほどの竜炎に、アルドは完全に呑み込まれたはずだった。


なのに――


炎が消えたあとも。


その男は、そこに立っていた。


身体には、わずかに焦げ跡が残っているだけ。


それ以外に、傷はない。


呼吸すら、まったく乱れていなかった。


「……あり得ない……」


レオンの声が低くなる。


彼は赤疤の背に跨ったまま、アルドを睨み続けていた。


この男は……


いったい、何者なんだ?


その一瞬だった。


赤疤の背後。


突然、光が現れた。


最初は、かすかな白い光。


バチッ……


バチバチッ……


背後から、細かな電流音が響く。


レオンの瞳孔が大きく開いた。


反射的に振り返る。


「……?」


次の瞬間。


その白い光が、まばゆいほどに膨れ上がった。


赤疤の背後で、無数の白い雷光が激しく集束していく。


「赤疤――!」


遅かった。


轟――――!!


雷撃の吐息が炸裂した。


赤疤の左側の背中へ、凄まじい雷が叩き込まれる。


貫いたのではない。


命中した瞬間――


炸裂した。


無数の太い雷が、着弾点から四方八方へと弾け飛ぶ。


「グオオオオオオオオオオッ!!」


赤疤が、凄まじい咆哮を上げた。


巨大な身体が大きく弓なりに反る。


左側の背中を覆っていた鱗が、次々と吹き飛んでいく。


雷光の中で、肉が無理やり引き裂かれる。


最も深く損傷した部分では――


白い肋骨が露出し、そのさらに奥には、脊柱までもが覗いていた。


鮮血が噴き出す。


しかし流れ出た血は、雷の高熱によって瞬く間に蒸発していく。


焦げた黒と、生々しい赤が入り混じる。


雷はなおも傷口の中を激しく走り続けていた。


赤疤の身体が激しく痙攣する。


身体の均衡を失ったことで、片方の翼が激しく羽ばたく。


だが、その翼自体が雷撃を受けたわけではない。


そして――


背中に乗っていたレオンは、炸裂した雷撃によって吹き飛ばされた。


「ぐ……ああああああああっ!!」


ドンッ!!


レオンの左顔面が、一瞬で黒く焼け焦げる。


左半身を覆っていた鎧も、完全に破壊された。


皮膚と肉は雷に焼かれ、黒く炭化している。


そして左腕は――


その瞬間、根元から断ち切られた。


鮮血が噴き出す。


レオンの身体は、そのまま地面へ叩きつけられた。


轟!!


土煙が舞い上がる。


その一方で。


赤疤もまた、空から地面へ落下した。


巨大な身体が地面を転がる。


何度も転がったあと、ようやく止まった。


左側の背中からは、なおも血が流れ続けている。


呼吸するたびに、血肉がむき出しになった傷口が大きく動く。


赤疤は、苦しそうに頭を持ち上げた。


まだ死んではいない。


だが――


もう、ほとんど力が残っていなかった。


戦場が、静まり返る。


誰もが、その一人と一頭を見つめていた。


――


「……」


アイリスは、遠くからその光景を見つめていた。


倒れた赤疤。


そして――


地面からゆっくりと身体を起こすレオン。


左顔面は黒く焼け焦げている。


左腕も、もうない。


それでも。


残された右目だけは、まだ消えていなかった。


「……赤疤……」


レオンが、低く呼びかける。


その声を聞いた赤疤が、ゆっくりと頭を上げた。


そして――


レオンのもとへ這っていく。


一歩。


また一歩。


進むたびに、左側の背中から血が滴り落ちる。


やがて赤疤はレオンのもとへ辿り着いた。


頭を下げる。


残された力だけで、レオンを庇うように身体を寄せた。


「赤疤……」


レオンは残された右手を伸ばした。


赤疤の鱗を掴む。


その瞬間。


彼の視界に、空が映った。


白い翼が、再び大きく広がっている。


その背に――


エレーナが乗っていた。


少女の白い髪が、風に揺れている。


その光景を見た瞬間。


遠い記憶の光景が、今の景色と重なった。


幼かった自分。


地面に立って。


空を見上げていた。


あの頃も――


自分は、こうして竜の背に乗る誰かを見上げていた。


竜の翼が、空を駆けていく。


その背中が、少しずつ遠ざかっていく。


それは――


かつて自分が憧れた姿だった。


そして今。


同じ翼。


同じ空。


ただ、その竜の背に乗っているのは――


自分の妹だった。


「……エレーナ……」


レオンは、呆然と彼女を見つめた。


エレーナは答えない。


ただ、兄を見つめている。


握り締めた手が、わずかに震えていた。


俺は、彼女の後ろに立っていた。


短剣は、まだ手の中にある。


今なら――


レオンを殺せる。


あの赤疤を追うこともできる。


だが。


俺は動かなかった。


俺の目に映っていたのは、あの竜だった。


あれほど傷ついているのに。


それでも、騎士を置き去りにしない。


帝国の竜契であろうと。


古き竜誓であろうと。


形は違っているのかもしれない。


だが――


竜と騎士の間にあるものは。


どうやら、決して変わらないらしい。


俺は赤疤を見る。


そして、エレーナを見る。


彼女は命じなかった。


俺も、命じなかった。


赤疤は最後の力を振り絞り、レオンを抱えるように身体を動かした。


そして――


翼を広げる。


一度目。


失敗した。


巨大な身体が地面から浮き上がった直後――


再び地面へ落ちる。


轟!


赤疤は地面に伏した。


荒い呼吸を繰り返す。


それでも。


諦めなかった。


二度目。


今度こそ、赤疤はどうにか空へ舞い上がった。


その身体は、大きく揺れている。


左側の背中から、血が絶え間なく滴り落ちていた。


それでも。


レオンを乗せたまま。


少しずつ。


戦場から遠ざかっていく。


エレーナは、ずっと二人を見つめていた。


追わなかった。


俺も、追わなかった。


あれほどの傷を負っている。


たとえ生き残ったとしても――


もう、ここへ戻ってくるのは難しいだろう。


エレーナの瞳が、わずかに揺れる。


それでも。


彼は――


彼女の兄なのだ。


「……兄さん」


エレーナが、小さく呟いた。


声は、風に消えそうなほど小さい。


「……行って」


赤疤とレオンの姿が、少しずつ遠ざかっていく。


やがて二人の姿は、遠い空の向こうへ消えていった。


エレーナは、その方向を見つめたまま。


しばらく何も言わなかった。


俺は短剣を収める。


追わない。


追う必要もない。


この戦いは――


ここで終わった。


――


その頃。


黒茨要塞内部。


重傷を負った赤疤が飛び去っていく姿を、多くの兵士たちが目にしていた。


「レオン様が敗れた!」


誰かが叫んだ。


その言葉を聞いた瞬間。


抵抗していた兵士たちの表情が、一斉に変わった。


「何だと?」


「竜騎士が……敗れた?」


「赤疤も……」


誰も信じようとしなかった。


だが――


外から聞こえていた竜の咆哮は、もうない。


あの男の姿も、戦場から消えている。


要塞内に残っていた抵抗の意思が、急速に崩れていく。


「退け!」


「もう持たない!」


「反乱軍が中まで入ってきているぞ!」


兵士たちが次々と後退していく。


その隙を逃さず、反乱軍の突入部隊は要塞の奥へと一気に進んでいった。


東側通路。


大広間。


内城の廊下。


進めば進むほど、彼らの前に立ちはだかる兵士は少なくなっていく。


そして――


ついに。


彼らはガレス・ローワンの部屋へ辿り着いた。


「開けろ!」


ドン!!


扉が勢いよく破られる。


「……」


部屋の中には――


誰もいなかった。


机の上の書類も残っている。


椅子も、いつもの場所にある。


だが――


ガレス・ローワンだけがいない。


「どこだ?」


バルが部屋を見回す。


返事はない。


アイリスも部屋へ入った。


その視線が、ゆっくりと室内を巡る。


そして。


彼女の目が止まった。


窓。


開いている。


夜風が部屋の中へ吹き込んでいた。


カーテンが静かに揺れている。


その窓枠に――


一通の手紙が、折り畳まれた状態で置かれていた。


バルが歩み寄る。


手紙を手に取った。


封筒には宛名がない。


ただ、一行だけが記されていた。


――黒茨領の民へ。


バルはしばらく黙っていた。


やがて、手紙を開く。


そこに綴られていた文字は、端正で、落ち着いていた。


最後の瞬間に至ってなお。


そこには、一人の貴族としての品位と節度が残されていた。


「黒茨領の民、諸君へ。」


「我がローワン家がこの地を賜り、幾星霜。百年を超える時が過ぎた。」


「我が先祖は、この地を守ることを己が務めと定めた。私もまた、その責を負う者として生きてきた。」


「しかし今、この地を顧みれば――」


「我がローワン家は、この土地を守ることも、守るべき民を守ることも、果たせなかったと言わざるを得ない。」


「諸君が受けた苦難も、そして灰葉村の惨禍も、すべて我が領地において起きたことである。」


「領主たる私に、その責を逃れる術はない。」


「ただ、深く恥じ入るばかりである。」


バルの指が、わずかに強く紙を握る。


そして、続きを読む。


「私は、諸君の赦しを乞う資格を持たない。」


「まして、この死をもって赦免を得ようなどとは考えていない。」


「私がこれより為すことは、ただ己の負うべき責を、最後に果たすためのものである。」


そこまで読んでも。


文章は静かだった。


嘆願もない。


弁明もない。


だが――


最後の数行だけは、違っていた。


「ただ一つ、願いがある。」


「我が息子、ダミアンについてである。」


「彼は気性荒く、振る舞いも度を越しており、諸君に数多の苦しみを与えた。」


「父として、私はその所業を弁護することはできない。」


「それでも、もし諸君の中に、なお一分の寛恕が残されているのなら――」


「どうか、あの子の命だけはお許しいただきたい。」


「彼は多くの悪行を重ねた。だが、幸いにも、これまで人の命を奪ったことだけはない。」


「彼の罪が死に値しないなどと、申し上げるつもりはない。」


「ただ、父というものは――」


「己の子が不肖であると知りながらも、別れの間際には、最後の情を断ち切ることができぬものらしい。」


「もし、あの子に生きる道を残していただけるのであれば――」


「この恩を、我がローワン家は来世に至るまで忘れぬ。」


最後に。


一行だけが残されていた。


「願わくば、黒茨領の民が、いつの日か再び己らのための夜明けを見ることがあらんことを。」


「ガレス・ローワン」


部屋の中に。


長い沈黙が落ちた。


バルが、ゆっくりと手紙を下ろす。


アイリスもまた、黙ってその手紙を見つめていた。


二人とも、もう理解していた。


ガレス・ローワンは――


この世には、もういない。


窓から吹き込んだ夜風が、部屋の中を通り抜ける。


机の上の紙が、静かに揺れた。


そして。


窓枠に置かれた手紙の端も、風に揺れる。


「……自ら、命を絶ったのか。」


バルが、低く呟いた。


誰も答えなかった。

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