燃えない者
「もっと飛べ」
レオンの声が、空から響いた。
紅痕が急降下する。
灰羽は咄嗟に進路を変えた。
二頭の飛竜が、すれ違う。
凄まじい風がエレーナの頬を打った。
彼女は必死に灰羽の鱗へしがみつく。
「灰羽!」
灰羽が低く唸った。
再び翼を大きく羽ばたかせる。
その巨体が、一気に上昇した。
だが、紅痕はすでに旋回していた。
灰羽より一回り大きな身体が、再び迫ってくる。
「来る……!」
エレーナは歯を食いしばった。
もう、声に出して指示はしなかった。
ただ、身体を低く伏せる。
灰羽も、ほぼ同時に進路を変えた。
二頭はほとんど同時に、横へと身体を翻す。
紅痕が、その上を通り過ぎた。
レオンの目が、わずかに動く。
「……そうだ」
彼は妹を見た。
「それでいい」
紅痕が翼を大きく羽ばたかせる。
再び追撃する。
灰羽は正面から迎え撃たなかった。
高度を何度も変える。
上昇。
下降。
速度を生かして距離を取る。
エレーナも、少しずつ灰羽の動きを理解し始めていた。
逃げているわけではない。
機会を探している。
「灰羽……」
エレーナが小さく呟く。
灰羽は答えない。
ただ、飛び続ける。
次の瞬間――
その身体の周囲を、雷光が走った。
エレーナが目を見開く。
分かった。
「今!」
灰羽が、勢いよく旋回する。
雷が空から落ちた。
轟!!!
紅痕が咄嗟に身体を逸らす。
雷光が、その身体を掠めた。
数枚の鱗が吹き飛ぶ。
「……!」
レオンは視線を下げた。
紅痕の身体に刻まれた傷を見る。
そして、再び灰羽へ目を向けた。
「だんだん、竜騎士らしくなってきたな」
だが、その声は依然として静かだった。
次の瞬間。
紅痕が翼を広げる。
速度が、一気に上がった。
「!」
エレーナが反応するより早く。
紅痕は、すでに灰羽の目の前にいた。
轟!!!
二頭の竜が、正面から激突する。
灰羽の身体が大きく弾き飛ばされた。
エレーナの身体も、その衝撃で浮き上がる。
「きゃあ――!」
彼女は必死に鱗へしがみついた。
灰羽が慌てて体勢を立て直す。
だが、紅痕はそれを許さない。
尾が横薙ぎに振られる。
灰羽が急降下する。
巨大な尾が、その頭上を掠めた。
エレーナが顔を上げる。
目の前に、紅痕の腹部が見えた。
――好機。
「灰羽!」
灰羽が即座に進路を変える。
再び雷光が集まり始める。
だが、その瞬間――
紅痕が突然、身体を翻した。
レオンは、その一瞬の隙を逃さなかった。
「遅い」
紅痕の巨体が、灰羽へ叩きつけられる。
轟!!!
灰羽が、そのまま地面へ向かって吹き飛ばされた。
「灰羽!」
エレーナは灰羽の身体へ必死に抱きつく。
地面が、どんどん近づいてくる。
要塞の外で燃え上がる炎さえ見えた。
灰羽が翼を大きく広げる。
落下の軌道を、無理やり変えた。
轟!!!
地面すれすれを掠める。
砕けた石が飛び散った。
エレーナの身体が大きく揺れる。
それでも、落ちなかった。
彼女は顔を上げる。
「……まだ、いける」
灰羽が低く唸る。
そして再び翼を羽ばたかせた。
エレーナは、ようやく身体を安定させる。
最初の頃のような混乱は、もうなかった。
灰羽が、どう飛ぶのか。
少しずつ分かってきた。
そして――
灰羽なら、自分を落とさない。
そう信じられるようになっていた。
「もう一度」
灰羽が、再び空へ駆け上がる。
一方。
レオンは、そんな妹を見ていた。
「まだ足りない」
紅痕が再び急降下する。
今度は、直接攻撃を仕掛けなかった。
灰羽の周囲を、何度も進路を変えながら飛び回る。
左。
右。
上。
下。
何度も灰羽の飛行軌道を制限していく。
エレーナは、やがて気づいた。
「……私たちを、下へ追い込んでる」
灰羽の高度が下がっていく。
どんどん低くなる。
レオンは答えない。
紅痕が、さらに距離を詰める。
エレーナは地面を見た。
このままでは――
地上へ追い戻される。
そこで戦えば。
紅痕の力と体格の差は、さらに大きくなる。
「灰羽」
エレーナは手を伸ばした。
そっと、その鱗へ触れる。
「一緒に」
灰羽が低く唸った。
次の瞬間。
灰羽は下降しなかった。
逆に、一気に上昇した。
「っ!」
エレーナの身体が後ろへ持っていかれる。
それでも、手を離さない。
灰羽は雲を突き抜ける。
紅痕も、その後を追った。
二頭の竜が、再び空で交差する。
雷光と炎が同時に閃いた。
轟!!!
巨大な爆発音が、空を震わせた。
---
地上。
俺は空を見上げていた。
二頭の飛竜は、すでに何度も交差する二つの影としか見えない。
隣にはアイリスがいる。
彼女も空を見上げていた。
「エレーナ、少しずつ慣れてきたね」
「うん」
俺は頷いた。
少なくとも今は。
もう、ただ灰羽の背に乗っているだけじゃない。
竜誓騎士とは何なのか。
少しずつ、理解し始めている。
だが――
俺は紅痕を見る。
眉を寄せた。
レオンは、まだ全力で攻撃していない。
ずっと観察している。
エレーナの弱点を探している。
そして、紅痕の力と体格の差も。
灰羽が簡単に埋められるものじゃない。
「……」
その時。
空から、突然大きな音が響いた。
轟!!!
二つの影が、高空から急速に落下してくる。
俺は咄嗟に顔を上げた。
灰羽が落ちている。
紅痕が、その後を追っている。
「まずい」
アイリスが空を見る。
「エレーナ!」
俺は拳を握った。
---
空中。
エレーナには、もう何も聞こえなかった。
耳を埋め尽くすのは、風の音だけ。
灰羽は、急速に落下している。
「灰羽!」
彼女は灰羽の身体へしがみついた。
灰羽が再び翼を動かそうとする。
だが――
紅痕が、すでに上から追ってきていた。
レオンが手綱を握り直す。
その目から、先ほどまでの静けさが消えていた。
「終わりだ」
紅痕が急降下する。
鋭い爪が、灰羽へ襲いかかる。
灰羽はかろうじて身体を逸らした。
だが、完全には避けきれない。
爪が身体を掠めた。
巨大な衝撃。
灰羽の身体が大きく揺れる。
そして――
エレーナの身体が、宙へ放り出された。
「――っ!」
手が離れる。
身体が、地面へ向かって落ちていく。
「灰羽!」
灰羽が悲鳴を上げた。
すぐに振り返ろうとする。
だが、その前に紅痕が立ちはだかった。
レオンは落下するエレーナを追わない。
灰羽を見る。
「まずは自分の心配をしろ」
紅痕が、再び灰羽へ突っ込む。
轟!!!
灰羽が遠くへ弾き飛ばされた。
そして――
エレーナは、なおも落ち続けていた。
どんどん速くなる。
「……」
彼女は目を見開く。
視界が激しく回転する。
地面。
炎。
煙。
要塞。
何も掴めない。
「灰羽……」
手を伸ばす。
けれど、そこには何もない。
次の瞬間。
エレーナの身体が地面へ叩きつけられた。
轟!!!
土煙が一気に舞い上がる。
---
「エレーナ!」
俺は、土煙の向こうを見る。
アイリスも駆け出した。
だが、その時。
空から、低い竜の咆哮が響いた。
俺は顔を上げる。
紅痕が空を旋回している。
そして――
紅痕が、地上へ顔を向けた。
レオンの視線も、何かを探すように地面を見下ろしている。
「……また、この感覚か。紅痕」
そして。
レオンの視線が、俺を捉えた。
紅痕が、ゆっくりと口を開く。
俺は足を止めた。
「アルド!」
アイリスの声が響く。
俺は答えない。
ただ、紅痕を見上げる。
「竜焔!」
レオンが叫んだ。
紅痕の喉奥に、炎が集まっていく。
どんどん明るくなる。
レオンの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
紅痕が、その巨大な顎を開く。
次の瞬間――
竜焔が、猛烈な勢いで吐き出された。
轟――――!!!
凄まじい炎が、一瞬で俺を呑み込んだ。
真っ赤な炎が地面を覆い尽くす。
周囲の者たちが、一斉に動きを止めた。
すべての視線が、その炎へ集まる。
紅痕の背に立つレオンは、炎を見下ろしていた。
そこに疑いはない。
迷いもない。
「終わった」
竜焔は燃え続ける。
やがて炎が弱まり。
濃い煙が、ゆっくりと立ち上った。
レオンは煙を見つめる。
そして――
その表情が、凍りついた。
「……」
煙の中。
一つの人影が、ゆっくりと姿を現した。
俺は、そこに立っていた。
倒れていない。
膝もついていない。
それどころか――
傷一つ、負っていない。
周囲が静まり返る。
レオンの目が、少しずつ見開かれていく。
遠くにいた帝国兵たちも、動きを止めた。
反乱者たちも、息を呑んでこちらを見る。
この光景を見た者たちは――
アイリスを除いて、皆同じ表情を浮かべていた。
驚愕。
恐怖。
そして――
理解できないものを見た顔。
俺は、誰も見なかった。
ただ振り返る。
遠くにある、エレーナが落ちた場所を見る。
そして――
空を見上げる。
「行け、エレーナ」




