竜と少女
要塞正門。
「……なんだ、あれ」
一人の衛兵が、目の前に広がる煙を呆然と見つめていた。
巨大な正門は、すでに吹き飛ばされている。
濃い煙が、雲のように要塞内部へと流れ込んでいた。
別の兵士が、ごくりと唾を飲み込む。
「敵が……入ってきたのか?」
誰も答えない。
その時だった。
煙の向こうで――
赤い光が、突然輝いた。
バチッ――!
炎ではない。
雷だ。
真紅の雷光が、煙の中で激しく弾けている。
「な、なんだ……あれは!?」
赤い光が、こちらへ近づいてくる。
速い。
あまりにも速い。
煙の中から、一つの影が飛び出した。
「敵――」
その声が最後まで響くことはなかった。
ヒュッ――!
矢が喉を貫いた。
鮮血が舞う。
そして――
その瞬間。
俺の視界が、戦場を捉えた。
目の前に広がる敵兵。
その顔に浮かんだ恐怖。
手にした短剣へ、紅い雷が絡みつく。
――バチィッ!!
俺は止まらない。
「突っ込め!」
「アールデ様に続けぇぇぇ!」
後方からバルの声が響く。
俺は短剣を握り直した。
身体が、思考より先に動いている。
五百年。
五百年もの間、俺は暗闇の中にいた。
けれど。
再び大地を踏みしめた今、ようやく分かった。
――この身体は。
戦い方を、まだ覚えている。
---
俺は崩れた城壁を一気に駆け上がった。
短剣を横薙ぎに振るう。
「一人」
刃が喉を裂く。
「二人」
身体を捻る。
「三人目」
血が城壁を赤く染めた。
四人目が槍を突き出してくる。
俺は身体を半歩ずらし、その一撃をかわす。
そして。
短剣を、その胸へ突き立てた。
「四人」
最後の弓兵が振り返る。
だが、もう遅い。
俺はすでに目の前にいた。
刃を振り下ろす。
「五人目」
男が崩れ落ちた。
俺は城壁の上に立った。
わずかに息を吐く。
だが、疲労はない。
身体の動きに鈍りもない。
手首の感覚すら、記憶の中にあるものと何一つ変わっていなかった。
どうやら――
五百年の眠りは、俺から戦士としての本能までは奪わなかったらしい。
その時だった。
俺は、突然何かを感じ取った。
前方から伝わってくる。
覚えのある気配。
俺は顔を上げた。
要塞正門の奥。
そこから、一人の男がゆっくりと歩み出てくる。
血に濡れた鎧。
そして――
俺が絶対に見間違えるはずのない、その眼。
「……」
レオン・ファンデルク。
その唇が動いている。
召喚詠唱。
俺は瞬時に理解した。
「全員!」
俺は振り返る。
「レオンだ!」
「龍に注意しろ!」
次の瞬間。
――ゴォォォンッ!
巨大な紅い魔法陣が、レオンの足元に展開した。
血のような魔力が、まるで濁流のように噴き上がる。
バルは一切ためらわなかった。
弓を引き絞る。
「くたばれ!」
ヒュンッ!
矢が空気を切り裂く。
狙いは、レオン。
だが――
信じられない光景が起きた。
レオンは、ただ左手を掲げた。
――パシッ。
矢が、その腕を貫いた。
血が矢柄を伝って落ちる。
レオンは自分の腕を一瞥した。
そして。
何事もなかったかのように――
小脇に刺さった矢を、力任せに引き抜いた。
「……」
レオンが顔を上げる。
その視線が、混乱する戦場を一直線に貫いた。
そして。
正確に、バルのいる場所を捉える。
俺は息を呑んだ。
矢を受け止めただけじゃない。
これだけの混戦の中で、射手の位置まで一瞬で見抜いた。
こいつは――
以前よりも、さらに危険になっている。
その時。
レオンの足元に展開した魔法陣が、完全に輝きを増した。
紅い光が夜空へと伸びていく。
そして――
巨大な黒い影が、その中から姿を現した。
鱗。
鋭い爪。
巨大な翼。
そして、息をすることさえ忘れてしまいそうな圧倒的な威圧感。
赤疤。
その姿が現れた瞬間。
戦場全体が、一瞬だけ静まり返った。
次の瞬間。
「グォォォォォォォォン――――ッ!!」
龍の咆哮が夜空を震わせた。
城壁に並ぶ松明が激しく揺れる。
突入部隊の兵士たちが、一斉に空を見上げた。
誰かの顔から血の気が引く。
誰かが、無意識に一歩後退した。
「龍……」
「赤疤だ……」
「あんなもの……どうやって戦えっていうんだ!?」
一人の兵士が背を向ける。
「逃げろ!」
「もう無理だ!」
だが――
次の瞬間。
巨大な黒い影が、頭上を横切った。
レオンはすでに赤疤の背へ飛び乗っていた。
赤疤が翼を広げる。
そして――
轟音とともに空へ舞い上がった。
その口が、大きく開く。
喉の奥で、赤い光が膨れ上がっていく。
「やめ――!」
――ゴォォォォォッ!!
龍炎が、空から降り注いだ。
正門から逃げようとしていた兵士たちが、瞬く間に炎へ呑み込まれる。
悲鳴は、ほんの数秒しか続かなかった。
レオンは龍の背に立っていた。
「……はは」
そして。
「ハハハハハハハッ!」
笑った。
その声は、次第に大きくなっていく。
「そうだ……」
「これだ」
「これが戦争だ!」
赤疤が再び咆哮する。
レオンは両腕を広げた。
まるで目の前に広がる光景すべてを、抱きしめるかのように。
血。
炎。
悲鳴。
死。
――それこそが。
こいつが求めていたものだった。
殺戮。
「止まるな!」
バルが叫ぶ。
「全員、要塞へ突っ込め!」
「中へ入れなければ、俺たちは全員死ぬぞ!」
誰も迷わなかった。
全員が一斉に正門へ向かって走り出す。
俺も周囲を見回した。
探しているのは――
「エリス!」
返事がない。
「エリス!」
もう一度叫ぶ。
俺は振り返った。
そして――
ようやく見つけた。
混乱する兵士たちの中。
銀色の髪が、炎の明かりに照らされている。
「こっち!」
俺は彼女のもとへ駆け寄る。
その手を掴んだ。
「俺から離れるな!」
「アールデ――」
「説明は後だ!」
俺はエリスの手を引き、正門へ向かって走る。
背後では、赤疤が暴れ続けている。
龍炎が落ちるたびに、誰かの命が消えていく。
止まるわけにはいかない。
絶対に。
要塞の中へ入る。
それしか、生き残る道はない。
その時だった。
前方に、正門が見えた。
「急げ!」
「門を閉めるぞ!」
数人の衛兵が、必死になって重い鉄門を引いている。
ギギギギギ――
門の隙間が、少しずつ狭くなっていく。
「早く入れ!」
誰かが叫んだ。
俺たちは全力で走った。
そして――
俺とエリスが門へ到達する、その直前。
ヒュッ!
一本の矢が、要塞の内側から飛んできた。
それは、門を閉めようとしていた衛兵の手を正確に貫いた。
「ぎゃああああっ!」
衛兵が絶叫し、思わず手を離す。
「閉めろ!」
「早く閉めるんだ!」
残った衛兵たちが、慌てて門を動かす。
巨大な門が、再び閉じ始める。
俺は顔を上げた。
狭くなっていく門の隙間。
その向こうに――
夜空が見えた。
そして。
巨大な黒い影。
レオン。
そして赤疤。
赤疤が、大きく口を開く。
その奥で、紅い光が膨れ上がっている。
俺の全身から、血の気が引いた。
「……まずい」
近すぎる。
避ける時間なんてない。
俺は反射的にエリスを抱き寄せた。
その身体を、両腕で必死に包み込む。
「エリス!」
「俺にしっかり掴まれ!」
灼熱の魔力が迫ってくる。
そして――
その瞬間だった。
戦場を貫くように、一つの声が響いた。
はっきりと。
力強く。
決して揺らぐことのない声。
「――灰羽!」
俺は目を見開いた。
その声。
俺は知っている。
「……エレーナ?」
俺は顔を上げた。
正門の外。
白い光が、突然弾けた。
空中に巨大な魔法陣が展開される。
そして――
一頭の巨大な白い影が、その中から降り立った。
「グォォォォォッ!!」
銀白色の鱗が、炎の光を反射する。
巨大な翼が大きく広がる。
白龍は、赤疤が龍炎を放つことすら許さなかった。
――ドォンッ!!
灰羽が赤疤へと真正面から突っ込む。
二頭の龍が、同時に咆哮した。
赤疤の身体が、強引に後方へ押し戻される。
口元に集まっていた龍炎も、強制的に途切れた。
――戦場が、静まり返った。
誰もが、その光景を見つめていた。
燃え盛る炎の中。
美しく、神々しいほどの白龍が、ゆっくりと頭を持ち上げる。
そして、その前に――
一人の少女が立っていた。
銀白色の髪が、炎と風に煽られて舞っている。
エレーナは、龍誓の刻印が刻まれた手を高く掲げていた。
頬には、まだ涙の跡が残っている。
それでも。
その瞳には、一切の迷いがなかった。
レオンは、ただ呆然と妹を見つめていた。
「……」
「エレーナ……」
少女は、一歩前へ踏み出す。
灰羽の前に立つ。
そして――
自分の兄と、アールデたちとの間に立ちはだかった。
身体は、かすかに震えている。
それでも。
一歩も退かなかった。
「兄さん……」
エレーナは、赤く腫れた目でレオンを見つめる。
その声だけは、不思議なほど強かった。
「もし……それでも、続けるつもりなら……」
彼女は、龍誓の刻印が刻まれた手をゆっくりと下ろす。
そして――
再び涙が、その瞳からこぼれ落ちた。
「兄さん」
幼い頃から、ずっと自分を守ってくれた人。
その人を見つめながら。
エレーナは、静かに告げた。
「……私を先に殺して」




