诀别の時
要塞の奥深く。
外で次第に激しさを増していく戦場とは対照的に、ここだけは妙なほど静まり返っていた。
エレーナは一杯の紅茶を手に、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
テーブルの上では、ティーポットからまだ白い湯気が立ち上っている。
ほのかな茶の香りが、部屋の中へと広がっていた。
テーブルの前に座っていたレオンが、顔を上げる。
そして、妹を一瞥した。
「兄さん」
エレーナが小さな声で呼びかける。
レオンは答えなかった。
ただ、再び視線をテーブルへと落とす。
エレーナは彼の隣まで歩き、静かにティーカップを置いた。
「最近……ちょっと疲れてるみたいだから」
そう言って、彼女は無理に笑ってみせる。
「お茶、飲まない?」
レオンの視線が、カップへと向けられた。
答えはない。
けれど、その目には一瞬だけ、複雑な色が浮かんだ。
――この光景を、彼は知らないわけではなかった。
ずっと昔。
あまりにも遠い昔のこと。
まだエレーナが幼かった頃。
彼女はいつも、不器用ながらも兄たちのためにお茶を淹れていた。
茶葉を入れすぎたり。
湯を熱くしすぎたり。
時には、なぜか砂糖まで入れてしまったり。
そして出来上がった奇妙な味の紅茶を、大切そうに両手で抱えて兄たちのところへ持ってきた。
「兄さん、お茶」
「ガシアン兄さんも、どうぞ」
あの頃は、それが可笑しくて仕方がなかった。
ガシアンはわざと難しい顔をして、カップを覗き込みながら言ったものだ。
『エレーナ……これ、本当に飲めるのか?』
そのたびに、エレーナは頬を膨らませて怒った。
そして、逃げるガシアンを追いかけ回した。
――そんな日々があった。
けれど。
ガシアンが去ってから。
エレーナは、もう二度とレオンのためにお茶を淹れることはなかった。
今日までは。
レオンが手を伸ばす。
そして、カップを持ち上げた。
「……」
すぐには飲まない。
ただ、ゆっくりとカップを口元へ運んでいく。
しかし――
唇がカップの縁に触れる、その直前。
レオンの視線が、カップ越しにエレーナの顔へ向けられた。
エレーナの表情が、ほんの一瞬だけ強張る。
その瞳に隠されたものを、誤魔化すことはできなかった。
心配。
不安。
そして、隠しきれない悲しみ。
エレーナは昔から、嘘が苦手だった。
ましてや、演技などできるはずもない。
レオンは数秒間、黙って妹を見つめた。
そして――
ゆっくりと、カップをテーブルへ戻した。
「……エレーナ」
「なに?」
「お前は、本当に……俺がこの茶を飲めると思っているのか?」
エレーナの身体が、わずかに震えた。
レオンは椅子の背もたれへ身体を預ける。
怒っているわけではない。
むしろ、その表情は不気味なほど静かだった。
「俺は、灰葉村を滅ぼした」
「……」
「何人焼き殺したのかも、もう分からない」
低い声だった。
「老人も、子供も……容赦なく焼いた」
「……」
「それなのに、お前は」
レオンが顔を上げる。
まっすぐに妹を見つめる。
「それでも昔と同じように……こんな罪深い兄を、優しく気遣えるのか?」
部屋が静まり返った。
エレーナはスカートの裾を強く握りしめる。
指先が白くなるほどに。
そして――
顔を上げた。
「……そうだよ」
レオンの瞳が、わずかに揺れる。
エレーナの声は震えていた。
「私は……あなたが大嫌い」
レオンの瞳孔がわずかに縮む。
「あなたは、少しずつ……私が一番嫌いな人間になっていった」
少女の瞳が赤く染まっていく。
「今のあなたは……ガシアン兄さんに顔向けできるの?」
「……黙れ」
レオンの声が低くなる。
けれど、エレーナは止まらなかった。
「もし、ガシアン兄さんがここにいたら――」
「黙れと言った!」
レオンが勢いよく立ち上がった。
テーブルの上のカップが、その衝撃で震える。
「お前だって、ハインリヒ家へ逃げるつもりの公女様じゃないか!」
レオンの声が、ついに爆発した。
「俺に偉そうなことを言う資格があるのか!?」
「俺が変わっただと?」
「だったら、ガシアンはどうなんだ!」
「……あいつは今、どこにいる!?」
エレーナの身体が硬直する。
「どこにいるって聞いてるんだ!」
レオンは一歩、また一歩と妹へ近づいていく。
「一度でも俺たちに連絡を寄越したか?」
「一度でも帰ってきたか?」
「父上や俺たちがどうしているのか、気にかけたことがあるのか!?」
「ない!」
「何もないんだ!」
レオンの声が、部屋中に響き渡る。
「長男だと?」
「後継者だと?」
「結局、俺たちを置き去りにして逃げた臆病者じゃないか!」
エレーナの目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「……違う」
かすかな声だった。
「何?」
「違う……」
エレーナは顔を上げる。
涙が頬を伝い落ちる。
「でも……」
震える声で。
それでも、はっきりと言った。
「ガシアン兄さんのことを……そんなふうに言わないで」
レオンは一瞬、黙った。
そして、鼻で笑う。
「ファンデルク家がここまで落ちぶれたのは、臆病者が多すぎるからだ」
「……」
「父上もそうだ」
「お前もそうだ」
「そして、ガシアンもだ」
レオンは拳を強く握りしめた。
「今のファンデルク家には――」
「龍に認められる資格のある人間なんて、一人もいない」
エレーナが、はっと顔を上げる。
「兄さん……」
その瞬間だった。
――ドォォォォンッ!!
要塞の奥から、耳をつんざくような爆発音が響き渡った。
部屋全体が大きく揺れる。
壁から細かな埃がぱらぱらと落ちてきた。
エレーナの顔色が変わる。
レオンも、勢いよく振り返った。
そして――
もう一度。
――ドォンッ!!
遠くから、兵士たちの怒号が聞こえてくる。
「敵襲だ!」
「正門が破られたぞ!」
「急げ! 援軍を回せ!」
レオンはその場に立ち尽くしていた。
そして、ほんの一瞬で理解した。
彼はもう一度、テーブルの上のカップを見る。
それから――
エレーナを見る。
先ほどまでの表情から、感情が消え失せていた。
「……そういうことか」
「兄さん……」
「お前、わざとだったんだな」
レオンはテーブルの上のカップを掴む。
そして――
ガシャンッ!
床へ叩きつけた。
陶器が砕け、破片が四方へ散った。
「俺をここに引き留めるつもりだったんだ」
「その間に、あいつらを中へ入れる」
「……そうだろ?」
「違う……!」
「エレーナ」
レオンの声から、温度が消えていた。
「俺を騙せると思うな」
彼は踵を返す。
そして、部屋の外へ向かって歩き出した。
「兄さん!」
エレーナは反射的に手を伸ばし、レオンの袖を掴んだ。
「待って……」
「行かないで」
レオンの足が止まる。
「行かないで……」
エレーナは泣きながら訴えた。
「お願い……」
「兄さん……もう、人を殺さないで」
レオンは振り返らなかった。
けれど――
なぜだろう。
その瞬間。
彼の脳裏に、ずっと封じ込めていた記憶が蘇った。
幼いエレーナ。
泣きながら、誰かの服の袖を必死に掴んでいる。
『ガシアン兄さん……』
『行かないで……』
あの頃。
彼女が引き止めていたのは、ガシアンだった。
そして今。
自分の背後にいるのも――
同じ妹だった。
レオンの指が、ほんのわずかに震える。
やがて。
彼は振り返った。
そして、エレーナの手をそっと振りほどいた。
「……離せ」
エレーナの身体が、よろめく。
レオンはもう一度も振り返らなかった。
ただ、足早に部屋を出ていく。
そこに残されたのは――
床に砕け散った茶碗。
そして。
その場に崩れ落ちた、少女だけだった。




