竜の誓い
トランの言った古い採石場は、村の西にあった。
本当に辺鄙な場所だ。
両側の斜面は高く、黒茨の木がびっしりと生えている。
谷底は固い砕石の地面で、草が石の隙間から伸びていた。
月はもう出ていて、谷全体を白く照らしていた。
トランと仲間は斜面の上で見張りに立った。
エリスは木にもたれて座り、遠くから見ていた。
俺はエレナを谷の中央まで連れて行った。
「まず、お前のやり方でやってみろ」
俺は言った。
彼女は頷き、手を上げて唱え始めた。
今の帝国の竜契の召喚語だった。
俺は彼女の後ろに立ち、その音が口から出るのを聞いていた。
自分のものではない祈りを、必死で思い出しているようだった。
反応はない。
もう一度試した。
今度は声がさらに小さかった。
風が谷の入り口から吹いて、彼女の髪を乱した。
灰羽は来なかった。
エレナの手が震え始めた。
「あの子も、来方を忘れたのかな」
彼女は言った。
「あの子の問題じゃない」
俺は言った。
「術式の問題だ。小さい頃に覚えた召喚魔法は?」
彼女ははっとして、また唱えた。
今度は帝国の竜契ではなく、もっと古くて、もっと単純な調子だった。
半分まで言って、声が途切れた。
あたりは静かだった。
斜面の上で、ダンが咳をしただけだ。
エレナは手を下ろした。
肩が落ちて、体のどこかが抜け落ちたように見えた。
「契約なんていらない」
俺は一歩前に出た。
「あの子が認めればいい。竜契が駄目なら、竜誓に切り替えろ」
彼女は顔を上げた。
月の下で、目が濡れたように光っていた。
「竜誓って?」
「古いやり方だ。ドラコファルでは、竜騎士は契約で竜を呼ばなかった。誓うんだ。竜神に誓う。聖騎士の誓いと同じ理屈だ」
「竜神?」
「ヴァルゾクシス」
彼女は息を呑んだ。
「聞いたことのない名前」
「聖光教会が消した」
俺は言った。
起誓の言葉を説明して、しばらく彼女に暗唱させた。
それから、折れた黒茨の枝を拾い、地面に簡単な法陣を描いた。
その形は体に残っていた。
手が勝手に動く。
霧の中を抜けて、古い扉の前にたどり着くみたいだった。
「入れ」
俺は言った。
エレナは俺を見て、ゆっくり輪の中へ入った。
「大いなる竜神ヴァルゾクシス。私には竜の血が流れている。私はここに誓いを立てる……」
風は動かなかった。
月が雲に隠れた。
誓いの陣は、何も応えなかった。
彼女は唇を噛み、もう一度唱えた。
「私には竜の血が流れている。私はここに誓いを立てる。私の命を、我が呼ぶ竜と共に歩ませる。祝福を。灰羽を呼ばせて……」
それでも光はなかった。
風と、彼女の声が谷を巡るだけだった。
彼女は焦り始めた。
唇が白くなり、指を絡める。
何度も、何度も、彼女は同じ言葉を繰り返した。
速く、乱れて、声が喉から裂けそうだった。
怖いのだ。
自分ができないことが。
自分のせいで、また誰かが死ぬことが。
自分を信じてくれた人たちの顔が、失望に変わるのが。
俺は歩み寄って、震える両手を握った。
「考えるな」
俺は言った。
「明日も、人も、何も考えるな。お前の竜だけを。あの子だけを考えろ」
エレナは少しずつ落ち着いた。
目を閉じて、胸を何度か上下させた。
月が雲から戻って、彼女を照らした。
簡素な誓いの陣も照らした。
彼女はもう一度、口を開いた。
「大いなる竜神ヴァルゾクシス。私には竜の血が流れている。私はここに誓いを立てる。私の命を、灰羽と共に歩ませる。天であれ、地であれ、あの子が私の名を呼べば、私は必ず応える。祝福を。灰羽に、私の誓いを届けて」
声が落ちた瞬間、法陣が光った。
エリスがその光を見て、そっと微笑んだ。
ごく淡い光だった。
月の光が地の底から滲み出すようだった。
それから、彼女は目を見開いた。
見えたのだ。
輪の外からはわからない。
だが彼女の瞳に、影が映っていた。
灰白色の、頭。
それから角が、目が、鱗が、少しずつ。
「もう、こんなに大きくなったのね」
彼女は小さく言った。
俺は陣の外へ出た。
光が高く昇った。
彼女の目はゆっくり閉じた。
体は動かない。
祈りの形のまま、石像のようだった。
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エレナが目を開けると、そこは採石場ではなかった。
あたりは、果てのない白。
光でも、霧でもない。
古い夢の真ん中に立っているようだった。
足元を見ると、かすかな波紋が広がっている。
そして前方から、巨大な影が立ち上がった。
竜だった。
彼女は、こんな竜を見たことがなかった。
六枚の翼が、折り重なるように開いている。
玉座のようでもあり、嵐のようでもあった。
独立した両腕があり、指先は黒鉄の鉤のようだった。
大きすぎた。
自分が塵の一粒にも満たないと思い知らされる大きさだった。
古竜。
その名を口にしてよいのか、わからなかった。
だが体は先に動いた。
片膝をつき、右の拳を静かに地面へ置いた。
灰羽が後ろにいた。
頭を上げず、静かに伏せている。
声が四方から聞こえた。
「竜の血を引く者よ。命をかけて、この竜と共に死に、共に生き、天と地を往く覚悟はあるか」
エレナは顔を伏せた。
自分の心臓の音と、灰羽の呼吸が、同じように軽く、同じように静かに聞こえた。
「あります」
「もし、お前がこの竜を裏切る日があれば、お前の血は、お前のものではなくなる」
「知っています」
「もし、この竜が天で死ねば、お前は地に独りで生きてはならぬ」
「わかっています」
「ならば、竜神ヴァルゾクシスの前で、誓いを言え」
彼女は顔を上げた。
「私、エレナ・ヴァンドリック。竜の血を引く者。ここに竜神ヴァルゾクシスへ誓います。私の命を、灰羽と共に在らせることを。戦場でも、荒野でも、嵐でも、焼かれた空でも、あの子が飛ぶことを望む限り、私は地上に残らない。私の名を証に。私の血を約に」
声が尽きた。
あたりの白い光が、一斉に彼女へ流れ込んだ。
灰羽が後ろで鳴いた。
雲の奥の鐘のような声だった。
彼女は大きく息を吸った。
再び目を開けると、月は頭上にあった。
風。
斜面の草。
採石場。
アルドが目の前に立っていた。
「終わったか」
彼は言った。
彼女は何も言わなかった。
自分の右手を見た。
そこに、刻印がひとつ。
熱い。
まだ燃えている銀のようだった。
「手を上げろ」
アルドは言った。
彼女は手を上げた。
手の甲に、白い光の法陣が浮かび上がり、ゆっくりと回り始めた。
それは竜契の召喚陣より、はるかに複雑だった。
同時に、同じ模様の巨大な法陣が空に開いた。
あの符文は、生きているようだった。
空でゆっくり回り、月の光を受けて、古い鏡のように輝いていた。
それから、灰羽が月の光から浮かび出た。
高い夜雲の下から。
竜の鳴き声はない。
風だけ。
大きくて、銀白色の夜が、空から降りてくるようだった。
---
トランが斜面から駆け下りてきた。
ダンとクルが続く。
三人は谷の縁に立って、空を見上げていた。
「この竜……綺麗だな」
ようやく、ダンが言った。
灰羽という名だった。
だが、その鱗は銀白色が多かった。
月の光が一枚一枚を照らして、きらきらと輝いていた。
とても美しかった。
エレナは灰羽の前へ歩いた。
手を伸ばした。
灰羽は頭を下げ、鼻先を彼女の手のひらに触れた。
それから、体を低くした。
「乗れって言ってる」
俺は言った。
エレナは振り返り、俺の手を取った。
「一緒に」
彼女の目に、まだ涙があった。
でも、もう溢れてはいなかった。
俺は頷いた。
彼女が先に乗った。
俺はその後ろに座った。
灰羽は立ち上がり、翼を開いた。
その翼は、俺たち二人を合わせたより長かった。
月の光が翼膜を透けて、水みたいに揺れた。
灰羽は数歩、走った。
そして、飛んだ。
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風が強い。
俺は、どこに手を置けばいいかわからないエレナの手を握って、騎乗の仕方を教えた。
灰羽は思ったより安定していた。
彼女の手はまだ冷たかった。
でも、もう震えていなかった。
「あの子、私を覚えてる」
彼女は言った。
「竜は、自分が選んだ者を忘れない」
俺は言った。
俺たちはどんどん高く飛んだ。
黒茨の林は、黒い影の群れになった。
南坡村の灯りは、地面に落ちた星みたいだった。
もっと上へ行くと、雲が足元にあった。
月が、嘘みたいに近かった。
俺も、竜に乗るのは久しぶりだった。
体のなかで、何かがゆっくり目を覚ましていく。
記憶じゃない。
記憶より前にあるものだ。
灰羽が翼を打つたび、竜の背から伝わってくる、とても軽くて、とても確かな力さえも感じられた。
その感覚が、俺を安心させた。
「笑った」
エレナが急に言った。
「笑ってない」
「笑った。手でわかった」
俺はもう否定しなかった。
たぶん、笑っていた。
灰羽は雲の切れ間を飛んだ。
月の光が上から降って、雲を銀色の海にしていた。
俺たちはその海の上を、たった二枚の葉っぱみたいに飛んでいた。
風が耳の横を通り、すべての音が遠かった。
エレナがうつむいた。
肩が縮まった。
それから彼女は言った。
「私、本当に飛んでる」
「ああ」
「契約じゃない。自分で呼んだの」
「そうだ」
彼女は何も言わなかった。
でも、泣いているのがわかった。
背中が、とても小さく震えていた。
俺は聞かなかった。
ただ、彼女の手を少し強く握った。
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降りるとき、灰羽はほとんど自分で角度を合わせた。
採石場に、空から落ちてきた布みたいに、ふわりと降りた。
エレナは竜の背から滑り降りた。
足に力が入らず、地面に座り込んだ。
彼女は灰羽を見上げた。
灰羽も首を下げ、鼻先を彼女の額にそっと当てた。
エリスとトランが走ってきた。
「この竜、本当に綺麗だな」
トランがもう一度言った。
エリスは黙っていた。
しばらく灰羽を見て、それから俺を見た。
その目はとても軽く、「思い出した?」と聞いているようだった。
俺は頷きも、首も振らなかった。
エレナが右手を灰羽へ向けた。
心のなかで「帰って」と思った。
灰羽の足元に法陣が浮かんだ。
光は淡かった。
それから灰羽は、月の光のなかへ退いていくように、ゆっくり消えた。
風が静かになった。
谷が空になった。
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トランの家に戻ったとき、空はもう白みかけていた。
囲炉裏には、赤い火が少し残っている。
エレナは草の敷物に座ったまま、深く眠っていた。
トランは戸口で矢を拭いていた。
エリスが隣に来て、外の空を見た。
「竜誓が戻ってきた」
と、彼女は小さく言った。
俺は黙っていた。
自分の手の甲を見た。
そこには何もない。
でも、皮膚が熱かった。
何かの刻印が、骨の奥から、少しずつ伸びてくるようだった。
エレナは、ようやく自分の竜を呼ぶことができました。竜誓が、戻ってきました。<(ºOº)>
次章、黒茨領の人々は武器を取ります。
それでは、また次章でお会いしましょう。




