↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/30

それでも、朝は来る

夜が明ける前、エレナが来た。


一人ではなかった。


教会の医者を二人連れ、薬草と包帯を積んだ驢馬を三頭引いていた。


貴族の令嬢の服は着ていない。


教会へ行くときに着る、古い灰色の外套だけを羽織っていた。


裾は泥だらけだった。


驢馬の首の鈴には布が巻かれ、音はしなかった。


彼女は着くなり、地面に並んで横たわる人々を見た。


足に厚く布を巻かれ、血が滲んでいる者もいる。


その先には、黒い布をかけられた人の形がいくつもあった。


風が吹くと、布の端がめくれて、焼けて曲がった足が見えた。


彼女は、そこに立ち尽くした。


涙が落ちた。


音はなかった。


「ごめんなさい」


そう言った。


誰も彼女を見なかった。


彼女はまだ泣いていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい……」


そこへ俺が歩いていった。


彼女の前に立ち、手を掴んだ。


強くはない。


でも、離さなかった。


「来い」


そう言った。


羊小屋を出て、灰葉村の残骸が見える坂の上まで引いていった。


夜は、まだ明けきっていない。


灰葉村は、まだ煙を上げていた。


大地が呼吸をしているようだった。


「ここで謝るな」


俺は言った。


「聞く力のある者はいない」


エレナは俺を見た。


涙で、目が真っ赤だった。


「すまないと思うなら、忘れるな」


俺は山の下の焦げた土地を見た。


「お前の兄は、また来る。次はここじゃない。別の村だ」


彼女の手を離した。


「止めに行け」


そう言った。


「私、何度も……」


「前は、試しただけだ。今度はやるんだ」


俺は彼女を見た。


「お前には竜がいる。竜の血が流れてる」


「できないことは、俺が教える。今は、お前にしかできないことがある」


それ以上は言わなかった。


風が吹いて、彼女の灰の外套と髪を北へなびかせた。


山の下から煙が何本も昇っていた。


空へ向かって伸びる、無数の手のようだった。


やがて彼女は腕を持ち上げ、袖で涙を拭いた。


「わかった」


と言った。


---


「少し、聞いてください」


エレナの声は高くなかった。


それでも、あたりがしんと静かになった。


「ここを離れようとしている人がいる。それは、わかってます。でも、離れようとするのは、弱いからじゃない。守りたいものがあるからです」


彼女は一度止まり、山の下の黒い土地を見た。


「でも、灰葉村の人にも、家がありました。子どもも、老人もいました。あの人たちは、何も間違っていない。税を払えず、頭を下げただけです。それで、みんな死にました」


「私は帝都で育ちました。あそこでは、辺境の人は野蛮で、愚かで、支配されて当然だと言います」


「ここへ来て、やっとわかった。あの人たちは野蛮なんかじゃない。ただ、耐えすぎるほど耐えてきただけだ」


「でも、どんなに耐えられる人にも、もう立てなくなる日が来る。今日、それを見ました」


彼女は顔を上げた。


「もう、我慢しろとは言わない。我慢すれば、火はまた来る」


「今日は灰葉村。次はどこか。私たちがみんな灰になるまで、連中はそれを平定と呼ぶ」


一歩、前に出た。


「どんな道を選んでも、私は味方です」


「北へ行くなら、通行証と食料を用意する。残るなら、私も残る」


「そして、もし武器を取る日が来たら、私は後ろにいない。あなたたちの隣にいる」


彼女は迷うように一瞬止まり、それから左手を上げた。


袖口をゆっくりと捲った。


手首に、ごく薄い痕があった。


「私にも、竜契があります」


声が震え始めた。


「人前で召喚したことなんて、ない。怖かった」


「でも、みなさんが望むなら、今度こそ、あの子に乗ります」


群衆が、一瞬、静まった。


そのとき、切り株に座っていたバルが立ち上がった。


何も言わず、折れた矢を帯に差し、エレナのそばへ歩いた。


続いて、背の高い男が群衆の後ろから出てきた。


トラン。


南坡村の者だ。


父親は猟師で、一昨年の徴税に逆らって砦へ連れて行かれた。


戻ってきたときは、もう半死半生で、七日だけ生きて死んだ。


彼の顔には古い傷がある。


彼は群衆の真ん中へ歩き、ゆっくりあたりを見回した。


「親父が死んだとき、来てくれた者もいる。あのとき俺は言った。もう我慢できねえ、と」


「お前らは言った。待て、と」


「何を待つ? 税が安くなるのをか? 領主が慈悲をくれるのをか? 竜が飛び去るのをか?」


「灰葉村が消えた。待った末に来たのは、竜と、燃えかすだけだ」


「北へ行けば、山へ入れば、逃げられると思うか? 帝国はもう滅茶苦茶だ」


「西の領主どもは自分らで血みどろに戦ってる。北はもっと貧しい。もっと税が酷い」


「逃げて、どこへ行く?」


「どこに税吏がいない? どこに兵が来ない?」


「山の奥で草の根を食って、子どもを骨にして死ぬか。それとも、どっかの崩れ兵に捕まって、男は兵隊にされ、女は売られるか」


「灰葉村のほうが、まだましだ。せめて自分の家の前で死んで、俺たちが骨を拾ってやれる」


彼は言葉を切り、息をした。


「だから俺は行かない。行く場所もない」


「灰葉村のために、後の者のために、何かしたい奴は残れ。嫌な奴は、今すぐ行け」


腰の古い刀を叩いた。


彼はエレナを見て、それから俺を見た。


「今日ここに立った者は、一人残らず、もう後戻りはできねえ」


「誰かが、命を懸けて、道を開くしかねえんだ」


誰も何も言わなかった。


けれど、誰も後ろへ下がらなかった。


しばらくして、若い男が一人、進み出た。


次に、灰葉村の女が一人。


眠った子どもを抱えたままだった。


南坡村の若者が二人。


そしてバルが、いちばん前に出た。


「俺が一番だ」


と、彼は言った。


エレナは彼らを見ていた。


立っているのもやっとだった。


「いつか、後の者が黒茨領のことを聞いたら」


彼女は言った。


「灰葉村の悲劇だけを思い出してほしくない」


「ここで、故郷のために命を懸けた人たちがいたと、そう思ってほしい」


彼女はゆっくりと、深く、一度だけ頭を下げた。

ここまで読んでくれてありがとう。✌︎ ॑꒳ ॑✌︎


灰葉村は、もうありません。この章は、とてもゆっくり書きました。一人ひとりが、あの火の中から歩き出せるように。


それでは、また次章でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。