第7R 安田記念を見下ろす
「ダービーに行くのか」
「行くよ」
「お互いリベンジ、か」
「…ですね」
アッパーグレードは大阪杯で三着、ココロノサケビは皐月賞四着。
その間僕は帝王賞に向けて怠惰を貪っていた。
「ココロノソニック…」
「正直暇だよ」
「お前、引退したらどうするんだ?」
「種牡馬になるだろうけど」
「お前種付けできるのか」
「もしかして僕に種がないって言うの」
「いいや、お前は死ぬまで走る事しか考えてなさそうだからな。種牡馬なんてのは三ヶ月近く連闘続きな代わりに九カ月の休養って仕事だぞ。四ヶ月の休養ですら怪しそうな奴に九カ月の休養が出来るのか」
「その内慣れるんじゃない?」
九カ月の休養。確かに、果てしなく暇な時間だ。一昨年の南部杯の後怪我をして半年近く休む事になったけど、正直その間の事は覚えていない。一刻も早く怪我を治して走りたいと思ったのは間違いないけど、いろんなレースの光景がテレビから流れてくるたびに焦りがなかったかと言われたら大ウソだったと思う。
だからそれこそ何度も何度もレースを見ては分析し、走れない代わりに「レース」を吸収しようとしていた。そしてフェブラリーステークスが終わった頃に完治して厩舎に戻り、そこからさらに川崎記念まで出られず復帰戦となったのはそれこそ八カ月ぶりとなるかしわ記念。そのかしわ記念やそれ以降のレースでその分析が生きていたのかと言うと、多分生きていない。でなければ帝王賞以降の三連敗はない。
そう考えると、なるほど確かに僕は休むのは下手かもしれない。でもシャットダウンだってあっさり引退して種牡馬って環境にあっさり馴染んだらしい以上、僕が出来ないって保証はないはずだ。
「その内、か…まあ、お前の才能なら出来るかもな」
「絶望的な事を言わないで下さい」
「ちょっとココロノサケビ」
「そこまでうまくやられたらぼくはどうすればいいんですか、例えダービーを勝てたとしてもぼくはあなたの弟でしかない」
ココロノサケビの言葉は悲痛だった。
まるで僕と言うとんでもなく大きな蜘蛛に絡め取られている蝶かのようにあがき、必死に救われようとわめいている。僕自身は蜘蛛ではなく蝶のはずなのに、誰もその事を信じてくれない。確かに僕は暴食の獣かもしれないが、舞台や相手を選ぶぐらいの事はするつもりだ。
しかし実際ココロノサケビは卵子の段階から既に「ココロノソニックの弟」である事を運命づけられており、のほほんと走る事なんか許されない運命だった。そしてそれは誰の責任でもない。
「じゃ異世界転生でもしてみるか」
「そんな方法があるんですか」
「ねえよ。ま、ただでさえサラブレッドって生き物は人間以上に親兄弟の名前が重い。そしてその名前は重い癖にいきなり重くなるから困る」
「いきなり重くなる…」
「ああ。元々こいつは二千万円にもならねえ馬だった。それが今じゃ十億どころか十五億さえ見えるほどに金を稼いでいる。要するにそういうこった」
「重みから逃げようってのが間違いなんだけど」
「それは重みに立ち向かえる馬のセリフです!」
どうしても誰かのせいにするなら、僕に負けた数多の馬のせい。
でも僕が負ければ他の馬が勝ち、その名を背負う事になる。その重みはそっちに移ってしまう。そっちの親兄弟が重みを抱える事になる訳であり、どうしても誰かが背負わねばならないと言う話だ。人様に負担を押し付けてチャンスをつかみ取ろうって手段は悪くないが、それが出来るのは一度だけ。
「でもよ、クソ度胸って意味ならお前も変わらねえぞ?この前の一件でこいつの恐ろしさは身にしみてわかったはずなのに」
「誰かが立ち向かわなきゃいけないじゃないですか」
「若さゆえの過ちって奴かよ。とにかくお互い次終わったら当分休みだからな」
「はい、目の前の一戦に全力を尽くしましょう!」
僕と違って、二人とも元気だ。仲良く手を取り合うように、それぞれの馬房へと向かう。
日本ダービーに宝塚記念。もちろんそれらを見下すつもりはない。それぞれにはそれぞれの目標と夢がある。僕は僕で、帝王賞の勝利を目指さねばならない。
そんな風に思いながらひと月ほど過ごしていた所に開催されたかしわ記念。
一着 ラインラインライン
二着 フィールマイハート
あの二頭が覇を競い合い、今度はラインラインラインが勝利した。
レースの内容はラインラインラインが去年の秋と同じようにスローペースで逃げ、フィールマイハートが後方から一気に差すと言う去年の帝王賞と同じ形。去年の東京大賞典で見せたような強引な脚はない。あれからわずかな間に再修正できるのは見事だけど、それ以上になぜ東京大賞典であんな強引なレースをしたのか。ってかフェブラリーステークスの段階で修正出来ていたのを見落としていた辺り、僕は永遠に未熟なのかもしれない。
改めて二頭のレースを観察しておくに越した事はないと思っていた僕は、更なる不意打ちを喰らってしまった。
「次走は安田記念に行くことになりました」
ラインラインライン、安田記念参戦…?
確かに朝日杯フューチュリティステークスと言うマイルGⅠの勝ち馬だし安田記念ってのは考えられるけど、そこからさらに帝王賞となるとなかなかにハードなローテーションだ。もちろんそれをこなすのは馬の役目だが、確かにラインラインラインは川崎記念とかをスルーしていたとは言え決して簡単な話ではない。
(僕は昔それをやったけど…)
三年前の僕は皐月賞から中一週でユニコーンステークスに出て東京ダービーに回ったけど、それは三歳馬だったからこそだ。古馬なんてのはいくらでも時間はあるしいささか強引過ぎるように思える。そもそも最初からその気だったならばともかく急な変更は良くない。
まさか帝王賞には来ないのか。それならそれでもいい。
だがその上で来るのならば、僕は彼を叩き潰す。
(僕はココロノソニックだ。誰が何と言おうと、ココロノソニックなんだ……!)
絶対王者として、誰にも文句を言わせない走りをする。それが、僕の役目だ。




