第4R 「帰ってくんな!」
「あんな恐ろしい馬だったなんて、知らなくって……」
「競馬場は勝利を追い求める所でしかない」
「そういう奴なんだよ、そういう」
四着だったはずのアスタリスクガールは、顔を青くしていた。
確かに少しばかり気合を入れ過ぎてしまったとは思うけど、競馬場なんて殺気の塊みたいなもんなんだからそんなんでひるんでちゃいけない。
「で、この後ドバイ行くのか」
「行く事になったよ。二年前の無念を晴らすために。アッパーグレードは」
「同行する訳ねえだろ。大阪杯ぶっつけ本番からの宝塚記念だよ、その後は正直知らねえ。お前と一緒にすんな、正直お前といると俺は年を悪い意味で忘れちまうんだよ」
年。
「衰え」に続き、同期の親友からそんな言葉を聞かされるようになった。
結局、僕もそれらと無縁ではいられない。
世の中には
「空前絶後の十二勝目を花道にここで終えるべきだ」
なんて意見もある。
ドバイで引退レースをやってそのまま種牡馬入りと言っても検疫その他でどうせ今シーズンの種付けはもう間に合わない。フェブラリーステークスからならギリギリ間に合うらしい。
(やはり、今年いっぱいなのかもな…)
お父さんの様にはなれない。しょうがないのかもしれない。
まだ二十三戦、つまり半分も走ってないのに。
文字通り日本一の馬になったはずなのに。
「あのさ、お前は俺じゃねえんだよ。俺がやめちまっても、お前だけはずっと生き残って走って行く。親父さんと同じように八歳になっても現役でいて、次々と後輩を見送って行く。お前はそれが出来る、っつーか出来ちまう」
「出来るの?」
「ああ出来る。俺らの物差しなんか気にすんじゃねえ、お前はお前らしくやってろ、
俺らの愚痴なんか気にするな」
アッパーグレードはこう言ってくれたけど、正直その自信はない。仮に八歳一杯まで走ったとしても、どうせ年間多くて五~六戦。積み上げられて四十戦って所だろう。もちろん五十一戦走る事にどれほどの意味があるのかはわからないけど、そちらの方向での輝きはもう得られない。
「ってか愚痴だなんて!」
「俺らの卑しい言葉なんか聞くんじゃねえ」
「バカヤロー!」
そんな苦悩と戸惑いの中にいた僕に投げ付けられた、卑しいとか言う言葉。
しかも僕自身が卑しいとかじゃなく、良血GⅠ二勝馬のアッパーグレードが自分の事を卑しいとか言い出している。
ただでさえ困っていた所に飛んで来た思わぬ言葉に、僕の口から思わず怒声が飛び出してしまった。
「お前…!」
「ああいやその、そんなに卑下する必要がどこにあるんだって話なんだけど」
「だからさ、俺らの言葉なんか半分に聞いとけばいいんだよ、お前は」
「必要だと思えばいくらでも耳を傾けるよ、そう思わなければそうしないだけで」
僕にだって脳味噌はあるし言葉を取捨選択する権利はある。アッパーグレードの言葉でも要らないと思えば跳ね除ける。何でもかんでも受け取ってるつもりは毛頭ない。
「お前のそう思わないの範囲は狭すぎるんだよ、そしてその狭さが俺らをさいなむ」
「了見の狭さはともかくそっちの狭さを責められるとは思わなかったよ」
「責めてねえっつーの…ってかくどいけどよ、お前の頭にはレースの事にしかねえんだってのに、俺もいい加減気付きゃいいのによ…」
レースの事しか頭にない。
それの何が悪いんだろうか。
僕らはそのためにここにいる。勝つために戦っている。
お金?それももちろん重要だけど勝てばお金は入る。みんな同じだ。誰にも覆せないルールだ。
「逆に聞くけどさ、勝利のために走らない馬がいるの?」
「お前だってスプリングステークスとか皐月賞とかの時は勝利する気はなかっただろ」
「あの時は若かったとか言う気もないけど、僕はなぜ芝を走らされているのかわからなかったし今でもわからない。今からでも教えて欲しいんだけど」
「慢心が怖かったんじゃねえのか、敗北を知らせてお前は何でもかんでも出来るような最強馬じゃねえんだぞって。全くの無意味だったけどな」
「何か申し訳ない事をしたかな」
「ま、お前は一万頭に一頭の存在だったからな。千頭に一頭のそれなら有効だったかもしれねえけど」
慢心か。確かに僕だって絶対大丈夫だろって思ってミスした事は何度もある。そのミスを避けるためにも全力で戦い、勝利をつかみ取り続けなければならない。不自然でも何でもない事のはずだ。
「随分と浮かれ上がってるんですね」
「ココロノサケビ」
「アスタリスクガールさんをこんなに落ち込ませてご満悦ですか」
「あ」
そんな風にアッパーグレードと楽しくおしゃべりしていたせいか、アスタリスクガールの事をすっかり忘れていた。ふと横を見ると彼女は僕から離れ、口から「は」と「い」の混ざった音を出している。
「彼女の心を叩き折りライバルを減らして満足ですか!」
「一回負けたぐらいで」
「僕らはアスタリスクガールさんの明るい笑顔に癒されて来たんです、あなたと違って!何とも思わなかったんですか!」
「不覚極まる事に、去年カペラステークスを勝つまで全く視界に入ってなかった」
「大欲は無欲に似たりって言いますけど、無欲も大欲に似るんですかね!」
その見落としに対する、ココロノサケビたちから飛んで来るブーイング。
アスタリスクガールを負かした事がそんなに悪いのか?
全く意味が分からない。
「馬鹿馬鹿しい!強ければ勝ち弱ければ負ける、それだけの事じゃないか!」
「本当、それしか言う事がないのか!」
「ないよ」
「血も涙もねえとはこの事か…」
「そうして勝つためだけに走って何が得られるって言うんだよ!」
「ごめん、ちょっと意味が分からない……」
「ハァ!?」
素直に応じているだけなのに三歳馬たちを中心とした馬たちからのブーイングはますます高まり、厩舎内が急にうるさくなる。
「ああもう、おとなしく寝てる馬もいるんだから騒ぐと迷惑だぞ!」
「その声が一番大きいんだよ!」
「説得力がないよ」
「正直言うよ、日本記録とか言うならよそのレースでやって欲しかった!アスタリスクガールさんの邪魔をしないで欲しかった!」
「ドバイでやれって言うの」
「ああそうだよ!」
「簡単に言うね、ってかフェブラリーステークス勝たなかったらドバイ行きもなかったけど」
アスタリスクガールに勝ち星を譲れ?何を言ってるんだ、そんな事が出来る訳があるか。同じ厩舎だろうがゲートに入ってしまえばただの敵味方。そこに先輩も後輩も牡も牝もあるかい。
「じゃドバイへとっとと行け!帰ってくんな!」
ココロノサケビは文字通り後ろ足で、じゃなくて前足で砂をかけて来た。走ってりゃしょっちゅうだから気にもならない。
ったく、ドバイワールドカップの裏でスプリングステークスがあるってのに何をやってるんだろうか。
本当、情けないったらない。




