ココロノダイチさん
「キミがワンダープログラムの…」
「あなたは」
「ココロノダイチだよ、よろしくね」
一年前、俺がこの牧場にやって来て初めて出会ったサラブレッドは、実に優しい笑顔で僕を出迎えてくれた。
ココロノダイチさん。
父やヒガシノゲンブと同期だけど、八歳まで走ってGⅠ級レースを八勝したダートで活躍した馬。だから種牡馬入りしたのは九歳になってからであり、父親になったのは十歳になってから。
要するに、ココロノソニックが初年度産駒だった。
「全く、何を言ったらいいか…」
「どうぞご自由に、俺は気にしませんから」
「ココロノソニックとはどうだったの」
「彼はいい馬でしたよ、性格的にも実力的にも」
「裏表がないんだね」
第一印象はとりあえず悪くはないみたいだ。少なくとも「鉄の馬」とか呼ばれた現役時代のそれとは似ていないのに少しはほっとした。
もっとも俺が聞いていたのはヒガシノゲンブの初年度産駒でありココロノダイチさんと現役を共にしたノーザンスザクさんが語ってくれたそれを除けばほぼデータだけのそれだが、二歳の夏からほぼ八歳一杯まで走り続ける事がどれだけ大変かは先人たちのそれを見るまでもなく明白である。だから鉄の馬とか言われたのだろうけど、接してみればいい意味でただの馬である。
「それで、一体何頭ぐらいと」
「今年までは七十頭ぐらいだったけどね、来年は三ケタは堅いって言われててさ。ったくこの仕事も六年目になるけど慣れないんだよね」
「六年目…ですか、競走生活に追い付きますね」
「だね」
六年の反動は六年で消えるのかは分からない。だがだとしてもココロノダイチさんの顔は実に穏やかであり、かつてダート界でその名を鳴らしたそれと同じ馬には思えない。
「僕の事、どう聞いてる?」
「自分にも他馬にも厳しいって」
「自分には甘いと思うけどね」
「そうですか」
「若い時から自分に厳しければGⅠ十勝まで行けてたかもしれない。特に初めての重賞を取った後は良くなかったね、あの時は浮かれ上がってGⅠなんかいずれ取れるだろって世の中をなめてた。重賞を勝つまでに二十四戦もしたってのに、十八回も負けたのに」
「十八回も、ですか…」
ココロノダイチさんの初めての重賞と言うのは四歳秋のシリウスステークス。そこまでの短期間で二十四回も走るだなんてそれだけで一流の証であり、たった八戦で競馬場を去った俺からすればケタが違う。
「しかしそれで…」
「ああ。しばらくGⅠは惜敗続きだったけど別にいいやと思ってた、でもマーチステークスってレースの時から調子を崩し、半年近く全く勝ち負けできなかった。その頃ワンダープログラムは本調子になってGⅠを勝ちまくってね、その時にはヒガシノゲンブももういなかったし完全に差を付けられたと思った。元から桁違いの差があったと言うのにね」
「桁違いの差って」
「それでも何とか立ち直ってGⅠを勝とうとした。でも東京大賞典で惜敗して、ワンダープログラムの引退には間に合わなかった。翌年、六歳にして川崎記念を勝った時にはもう手遅れだった。
それからはもう、いろいろ余計な事を考えるのをやめていた」
GⅠ八勝の内八勝、つまりその全てが六歳からだったココロノダイチさん。
その根源が、父に対する無念にあったとは。
「俺には、そんな物はありませんでした。最初からこうなるために、一刻も早くこうするために戦って来た。皐月賞を勝った時には、もう何時でもこうなっていいと思っていた」
「現役に執着はなかったの」
「ないですね。三冠馬になってもああこれで父の名は保たれるなぐらいにしか考えてませんでした。有馬記念が終わった時には本当、もう走る事はないんだなって思いましたよ」
「本当に割り切れるもんなんだね。まあ僕だって八歳のチャンピオンズカップで勝てたから、ってかその前の連続の惨敗で割り切れたけどそれがもし惜敗だったら九歳になっても現役にしがみつきたがったかもしれない」
「それは特権階級の権利だと思いますけどね」
「全くその通りだよ。僕は自分がヒガシノゲンブやワンダープログラムとは違う庶民のつもりでいたけど、いつの間にか特権階級の側になっていた。驕り高ぶるとか言うのとは違うけどさ」
いくらサラブレッドと言う血統が物を言う世界でも新たな特権階級なんてのはいくらでも生まれる。
確かに競走馬として全然ダメでも血統を買われて種馬となり活躍する馬もいるが、GⅠを勝ちさえすればほとんどの場合いくら血統がしょぼくても種牡馬と言う特権階級になれる。
って言うか元々優秀だから残っていた訳であり先祖返りとまでは行かないけどかつての地位を奪い返したと言えない訳ではない。
逆に成績が振るわなければすぐさまのその地位を追われる程度には、この世界の特権階級と言うのは脆い。得やすいと同時に失いやすいその地位を、しかし皆競って求めたがる。
もちろん、俺もだ。




