父親の馬房
ココロノソニックが、十一個目のGⅠを取った。
ここまでやるとは思って、なかったってのは嘘だけど。
「ここが、父さんがいた……」
そんな感想を抱きながら牧場に入ってから、ほどなくして一年。
ほどなくして六歳になる俺は、まだお客様なのかもしれない。
(競走生活は一年間、調教を受けた機関を加味しても二年足らず…別に悔いはないけど、まだこの生活に慣れていないのは間違いない…)
今年の二月から始まった、「種牡馬」としてのオシゴト。それからの三ヶ月強で俺は15億円を稼いだ。競走生活で稼いだそれを上回る額であり、これから毎年それだけの金が動くって事だ。
リバースエンジニアさんって俺と同じ父さんの後継種牡馬が来るらしいけど、どれほどのお金を稼ぐかは現状不明らしい。どうもお金は抑えて数で勝負するような事になるとかで、俺とは結局違う世界の存在として生きる事になるのだろう。
しかしいずれにせよ、俺の新たなる戦いはまだ始まったばかりだ。
俺が産まれた時には、父親は亡くなっていた。
わずか四世代しかいない内の最後の一世代が俺であり、いつの間にか俺は父親の後を継ぐ存在だと思うようになっていた。
(スーパーエリートのはずだったのに、いつの間にか苦労馬と呼ばれるようになり…)
俺の父親、ワンダープログラム。
三歳のクラシック路線三冠皆勤も皐月賞六着、日本ダービーと菊花賞は二着と白星を掴めずその後も出ても出ても勝ち切れない存在になってしまった。
そのワンダープログラムの栄光を阻み続けたのが、ヒガシノゲンブだ。
父さんと俺がいた浅野厩舎に所属していたその馬は、破天荒と言うか破壊的とでも言うべき馬だった。
逃げ馬。
それ自体はよくいる。
だがその逃げは文字通り最初からとんでもないペースでかっ飛ばして後続に数馬身単位の差を付けると言う強引な物であり、日本ダービーの時は誰もが止まると思っていた。けど全く止まらないまま逃げ切り、菊花賞でもそのやり方も着順も変わらなかった。そして菊花賞や宝塚記念だけではなく、フランスの凱旋門賞まで逃げ切ってしまった。その功績によりヒガシノゲンブは殿堂入りし、世界のスーパースターになった。
だが同時にあまりにも危険を孕むレースぶりであり実際二度故障して四歳半ばで引退し、馬以上に浅野先生たちの心胆を寒からしめた。
滝原さんと言う当代一のジョッキー——父さんの主戦騎手——をしてあまりにも危険だと判断され、菊花賞以来となった大阪杯ではヒガシノゲンブの主戦騎手・戸柱さんに代わって騎乗した際に手綱を引き絞り後方からの差し脚を生かす競馬を教え込もうとした。
だがヒガシノゲンブは全く上がる事なく後方を走ったままであり、その一件で滝原さんは大バッシングを受けると共にヒガシノゲンブはその当代一の騎手をもってしても御しきれない存在であると言われるようになってしまった。その後戸柱さんに戻ってからはこれまでと同じように大逃げからの白星を重ねた訳であるけど、そのヒガシノゲンブの後塵を四度拝し続けたのが父さんだった。
世間で言う所の、おとなしい王道の競馬をしていた。中団にじっと構え、外から抜け出して一気に前を抜くと言う無駄のない競馬。だがそんなレースを繰り返していたゆえになのかどうかはともかく、ワンダープログラムはヒガシノゲンブのいなかった三歳時の有馬記念やドバイシーマクラシックでも勝てなかった。
だけど四歳・秋の天皇賞。そこで中途半端な差しではなく直線一気を狙う追い込み戦法に代わってから生まれ変わったようにGⅠを勝つようになり、結果的にヒガシノゲンブと同じGⅠを五勝した。凱旋門賞で勝てなかった事もあり殿堂入りは出来ていないが、それでもヒガシノゲンブと並ぶ名馬として称えられるにふさわしいはずだった。
(その上での、第二幕の戦い。それを多くのファンの皆さんは期待していた。
でもそれは、もはや叶わない……)
だが父は、ヒガシノゲンブではなかった。
ヒガシノゲンブより一世代遅れたのはいいとしても、さっきも言ったようにわずか四世代しか残せずに亡くなってしまった父に対しヒガシノゲンブは来年十六歳になるのに健在だし150頭ぐらいの牝馬を相手にするらしい。
当然産駒の数は増える。
ただでさえ四年連続リーディングサイアーとなり大種牡馬としてその存在を固めている中でそれであり、また最近では産駒種牡馬だけでなく産駒その物が海外に渡る事も多くなっていた。今やヨーロッパやアメリカでも「Higashi no Genbu」の子どもが走り、その血を広げている。
そのせいで後継種牡馬の需要がとか言われるけど、世間的に言ってぜいたくな悩みでありそれだけに対処が難しい。
もっとも今年はリーディングサイアーと言っても二位との差は二億円ぐらいしかなく来年は逆転されるとか言われてるけど、実際にそうなったとしてもヒガシノゲンブって存在が偉大である事は、もう変わりようがなかった。




