第19R 温かい笑顔
「何なのその顔は」
「アッパーグレード、着差はともかく着順が…ねえ…」
「少しは話をごまかす事も覚えたじゃない」
ボンバーエンドの笑顔が同い年の僕に向けたそれでない事はすぐにわかる。
引退レースと言えば、それこそこれまでの全てを出し尽くしてしかるべきのはずだ。
確かにボンバーエンドが勝ったGⅠは1600mの安田記念であって2500mの有馬記念は合っていないが、それにしてもと言わずにいられない。
でもそれを言う勇気を持てなかった僕の口は、アッパーグレードの方へと流れた。まだアッパーグレードの顔は見てないけど、きっとすごく悔しい思いをしているに違いない。
「楽しかったわよ。すごく。自分なりに何もかも出し切れたって」
「……………………」
「不満そうね」
「アタマ差アタマ差ハナ差、0.2秒……」
「あんたは自分がストイックだって自覚がないのね、自分がいつ終わるかわからないって自覚はあっても」
「多くの馬は勝てなくなってもう無理だなって見切られてしまう。こんな風に舞台を用意してくれる事自体勝ち組の証だよ」
これが最後のレースだ、と言われて何もかも出し切れたと言って競馬場を去る事が出来る、そんなのは文字通りの特権階級だけ。ジョッキーは比較的そうでもないけどプロ野球選手のようなスポーツ選手はその大半がチームから戦力としては見込めないと言われて続けたいのにやめさせられる。自ら引退を宣言する事が出来るのは百人に一人か、せいぜい二人。やめさせられるにしても活躍した上でああやっぱりなと納得してやめる事になるのは十人に一人いるかいないか。三歳夏の未勝利戦を勝てずに競馬場を去って行く馬たちを僕らは何頭見送って来たか、数えたくもない。いや例え勝ったとしてもどこかで壁に当たりそのまま賞金を稼ぐ事の出来くなった馬もまたしかりであり、地方競馬に流れた存在もたくさんいる。
「私は自分なりにやったの。安田記念の時の様に後方から構えて中山の短いけど厳しい直線を当てにしてね。でもそれまでの間にかなり疲れちゃったし、何よりもペースが上がらなくて。だからアッパーグレードも届かなかったのよ」
で、ボンバーエンドの最後のレースの着順はと言うと十三着。
ずっと後方にいたまんまで、見せ場も何もない。
これが、ボンバーエンドの最後の一戦だと言うのか。
「ならいいんだけど」
「あんたはそんな調子でいつまで続ける気?」
「わからない。僕がもう駄目って思うまでかな。もちろんあまりにもひどい負け方をしたらすぐさまとなるだろうけど」
「あんた、それって自分が勝ち組だって自覚してるって事でいいの?」
「まあね、これだけ勝てば否応なしに」
「ずるい男よあんたは、しかもそれを全く正しいと思って疑わない。その上で私の事を憐れんでる」
「阪神カップとかにすればいいのに」
憐れんでいる。確かにその通りだ。
安田記念と言う牡馬相手のGⅠを制した馬の最終戦にしては、あまりにも寂しい結果。もっとも前走のマイルチャンピオンシップ十着と言う時点でその名はそれなりに傷付いていたが、それこそとどめを刺す事になってしまった。まあ文字通り燃え尽きたと言えば体裁は保たれるけど、正直淋しい話だ。
「考えたわよ、でも私にそれを伝える事が出来ると思う?それに私が有馬記念に出るのは初めてじゃないこと知ってるでしょ」
「去年そこにいなかったけどその事は知ってる、まさかその時」
「そう。私はその時ここで引退するんだなって決めたの」
そう思っていた僕だったけど、僕が厩舎にいない間に走っていた去年の有馬記念にて五着に入っていたボンバーエンドは、その時誰よりもその空気に感動していたのだろう。距離適性的にはやはりギリギリであり1400mの阪神カップならば有終の美を飾れる可能性はあったけど、それよりも有馬記念の感動を求めたんだろう。僕にはあまり納得できない考えではあるけど、ボンバーエンドの中ではそれが正義であり答えだったんだろう。
「確固たる意志があったなんて知らなかったよ…!本当ごめん!」
「あんたはね、どうして他馬をいちいち悪にするの。真摯で真面目である事は百頭中九十頭が考える正義であっても百頭が考える正義じゃないの。そんなに真摯に謝られてちゃ勝利を追い求めなかった私がバカになるじゃないの」
「…………」
「確かに勝つ事は重要よ。でもあんたは他の馬にも同じ事を要求してる。そしてその事を何にも疑ってない、と言うかそうしない存在を認める事が出来ない」
「正直に言えば、今でも出来てない」
勝利。そうでなければ、一つでも上の着順。
それが競走馬の本懐であり僕たちが生まれる前から遺伝子に叩きこまれかつその後も目一杯教え込まれて来たお話。そんな所から逃れられるのは引退するまで、いや引退しても子供の出来によりまた比較される生活が始まる。死ぬまで、いや死んでもなお戦いは続く。リバースエンジニアさんはグランプリ連覇こそならなかったけど有馬記念でも二着に入り、その手土産をもってシャットダウンと同じくワンダープログラムの二頭目の後継種牡馬となる。それこそワンダープログラムさんの血を遺すと言う戦いが、今になってなお続いていると言う何よりの証左だ。
「私だって最初はそのつもりだった。でもあなたと一緒にいる内にそういう生き方に疲れたの。だから私は、あなたと競い合う事をやめた」
「芝、とっ…」
「もう芝もダートもないの。あなたに戦いをやめろとか言うようなバカはいないと思うけど」
「……」
「まあ、アッパーグレードがどうするかは私も聞いてないから。じゃあさようならね」
戦いを望んでいたはずの存在を、僕は変えてしまったと言うのが。もしかすると僕は、ボンバーエンドの可能性を奪い取ってしまったのか。もちろん芝とダートは別物だとわかっているけどその言葉を無理やり飲み込んだ僕に対し、ボンバーエンドはまったく温かい笑顔を向けて去って行く。
もちろんこの厩舎を去るのは来年だけど、おそらく顔を合わせる事はもうない。
あんな、さわやかで温かい笑顔を残した彼女と。




