第5R 「フィールマイハート」
ゲートに入る。
今回はオレンジの帽子。
いわゆる外枠だが、やる事は変わらない。
(序盤から飛ばして行く)
山本さんとの打ち合わせ通り、前に行く。僕に敗因があるとすれば山本さんの言う事を聞かない事だけ。
相変わらず歓声は大きい。ファンファーレも手拍子もやめちまえとか言う馬もいるが、そんな軟弱な馬はぶっちゃけ生き残れない。いやそれを上回る能力があれば生き残るかもしれないし子孫にその性格が遺伝するかどうかは別問題だが、あまり競走馬としてふさわしい素質でない事は間違いない。中央競馬なんかこれ以上のそれが来るのだから、グレードが上がれば上がるだけ歓声も大きくなるのだから。何よりドバイで受けた歓声は中央競馬以上だったかもしれない。あの歓声に負けないようにしなきゃいけない。
しかし、その歓声は一種類ではない。
対象も、発声者も。
(本馬場入場の時はわかる。でも……)
パドックに入って来た時、一番歓声を浴びたのは僕だった。それは間違いない。
だが、僕らサラブレッドの中で一番人気があったのは、僕ではなかった。
ダートホースとは思えないほど線の細い————実際460キロ前後————しかないその彼が歩くたびに、前後の「牡馬」から実際の音である声援こそなかったにせよ温かい目を向けられていた。僕にはない物だ。
フィールマイハートと言う名の彼は三歳夏の時点で一勝馬だったがそこから三連勝して重賞も勝ち、フェブラリーステークスにも駒を進め、そして前走の川崎記念で僕と対峙した。結果は三着、その時にもう勝負付けは済んだはずだ。単勝オッズも20.3倍と格の違いは明らかだ。
気に食わない。負かしてやらねばならない。完膚なきまでに。
(いけない!)
でも感情的になってはならない。あくまでも僕が強いのは山本さんありきだ。山本さんの指示を守らなければ負ける。僕は左も右も見ず、上だけに視線をやる事にした。
ゲートが開く。いつもの事だ。
いわゆる出ムチが飛んで来る。山本さんの期待に応えるべく動き出す。
これまたいつもの事だ。
ペースはやや早いかもしれない。ただ何度もこれで戦って勝って来たそれであり問題はない。そのはずだ。
「一頭で競馬をやるんじゃねえよ!」
そこに割り込んで来る、カースブレイカーでもなさそうな馬の声。いや雑音。まるでこちらのペースを惑わす事が役目だと言わんばかりの走りにも、慣れたくないが慣れてしまっている。
確かに同じように並んで走って相手のペースを乱すのは合法だ、けどそれをやって勝てるかどうかは別問題だ。
この世界に善悪二元論など意味がない。ルールを守れば善破れば悪だが、それ以上の善悪はない。もし僕が、決してルールを破っているつもりのない僕が悪ならばここにいる全ての存在は悪だ。GⅠレースに出る時点で、多くの馬の夢を奪い踏みつけにして来た存在だ。
実際その声は無視しているとすぐに消え、馬蹄の音すら消えた。全く、何のつもりなんだろうか。一頭で競馬をやるな?んなもん常識だろう。
で、ふと落ち着いて左右に目をやってやると誰もいない。前にもいない。ほれ見ろ。これが力の違いって奴だ。大井競馬場の長くもない直線に向けてさらに突き放してやる。そしてそのまま勝つ。他に何をやる事があるのか。
ん?お尻が痛い?山本さん…
あ、行けって事か。よしこのコーナーで一気に飛ばす!
中央に比べれば広くもないコーナーを回り、一気に差を開く。間違いなく最終コーナーだ、このまま一気に行けば大台に乗る。
このままどこまでも勝ち続ける!これが僕の役目だ!
そのはずなのに、脚が乗らない。
どうせもう直線も見えて来たしこのまま行けばいいとは思っているが、それでもかしわ記念の様に突き放せないのがどうももどかしい。
これまでのようにやればいい、どうせこの後は休みなんだから構わず飛ばせ!ココロノソニック!
……やけに静かだ。
まさかまた怪我、いやそんな事はない!
僕だけが静かなのか。
いや間違いなくファンの皆さんは声を上げている。でも何を言っているのか分からない。
違う、口は動いているのになんていってるかわからない。
それが何だ!何だって言うんだ!
ああ、残り200の看板だ!何の事はない!僕は強いんだ!僕は!
ワーッと言う歓声が聞こえる。
なんだ、やっぱり問題ないじゃないか。意外と迫られているかもしれないが、それでもすぐ100の看板、そしてゴール板も見える。何の憂いもない!
いい風がやって来る。
外からやって来る風。
ゴール板に向かう風。
実に爽やかできれいな風。
梅雨時とは思えないほどに軽くいい風。
やけに実体を持った風。
僕のたてがみを揺らさんとする風。
歓声とともにやって来た風。
通り抜けて行く風。
その正体を知ったのは、自分なりに懸命に走る必要がなくなったのに気付いてからだった。
「本当に申し訳ない!」
「自分でもわかりませんでしたよ、あのタイミングでなければ勝てたのかなんて!」
負けた。
全く信じられない内に負けた。
山本さんは早仕掛けを詫びていたけど、意識が飛んでいたとしか思えないあの時の僕で勝てた保証はどこにもない。
なぜだ、何故そんな事になった?
これが噂の二走ボケだと言うのか?
アタマ差とか言うにはあまりにも実感のない、いつ抜かれたかもわかりゃしないほどの差。
三着以下には三馬身を付けている事からして、僕が弱かったと同時に相手が強かったとしか言えない、はずだ。
「おい情けねえな」
「知ってるよそんな事」
「この調子じゃココロノソニックの天下が終わるのも時間の問題か…!」
なぜだろう、随分な事を言われたはずなのに悔しくない。
負けたのは間違いないはずなのに。
フィールマイハートを称える声援も、まあそうだよなで片付けてしまっている僕がいる。
悔しいはずなのに。
いったい何がどうしたって言うんだろうか。




