第6R アッパーグレード
「次はどうするの」
「トライアルを叩くかダイレクトの皐月賞かだってよ、お前は」
「まだ何も聞いてない」
アッパーグレードはうざったそうに答える。
どうせ僕とぶつかる事なんかないのに何がそんなに不機嫌なのか。自分が聞いておいてこっちが何も知らないのはどういうことなのかと腹を立てているのかもしれないけど、それについては平謝りするしかない。
「ああ勝手に聞いちゃったならごめんなさい」
「お前ってよくわかんねえよな、図太いんだか繊細なんだか」
「そうかな」
「とりあえずお前が案外走りたがりってのは知ってるつもりだけどよ、ソエやってる間もまだなのかまだなのかって言ってたじゃねえか、たった二ヶ月で回復してそれからもう一ヶ月でレース出られるだなんてお前はついてるな」
「そうかもね」
僕が恵まれている事は間違いない。でもその中でさらに恵まれているとすれば、自分は一体何なのかわからない。
「ねえ、皐月賞に行ったらダービーに行って、その後菊花賞に行くんでしょ」
「わからねえよ。ダービーが無理だと思ったらNHKマイルカップに、菊花賞が無理だと思ったら秋の天皇賞に、秋の天皇賞が無理だと思ったらマイルチャンピオンシップにって風に俺の道はまだどこに向かうかわからねえ。いやそれすらできず、それこそ共同通信杯が最後の勝ち鞍って事にもなりかねねえ」
「お互い様だと思うけどね」
今日のレースが最後になるかもしれない、ってのは笑い事じゃない。レース中の事故で競走中止、予後不良と言う名の死を迎えるケースは残念ながら少なくない。また勝てば勝つほど相手は強くなるから強い相手にぶつかって勝てなくなりそのまま引退って事もあるからノーザンスザクさんのように勝って引退だなんて事はそれこそ超一流にしか許されない事だろう。
「簡単に言うなお前は」
「でも僕だってヒヤシンスステークスが」
「お前は平気だよ」
「なんで?」
「そのなんでってのが答えだよ」
その当然のはずのお互い様って言葉に対し、アッパーグレードの答えはやっぱり素っ気ない。まだ僕は三歳だけど誰だって壁にぶつかるとか能力が衰えるとかそういう事態には直面する。みんな同じはずだ。それなのに、一体なぜそんな事を言うんだろうか。
「もうちょっと待ってくれ」
で、浅野先生に聞いてみてもやっぱりこれ。
とりあえずお金には余裕が出来たから次は自由だけど、どこに行くんだろうか。中京の昇竜ステークスか、少し間を開けて京都のユニコーンステークスか、それとも地方重賞に行くんだろうか。
あ、その前にテレビを見なきゃいけない。
フェブラリーステークスだ。
ダートのGⅠレースとして初めてJRAに認められた歴史と伝統のあるレース。
ヒヤシンスステークスと同じ東京マイル。
『上位人気馬が揃って外枠と言う事で波乱は起きないのではないかと言われていますが』
『でも逃げ馬が一枠一番ですからね、あまり簡単に逃がすと危険かもしれませんよ』
『その点では最終オッズ十三番人気ながら注目が集まるかもしれません』
どうなるのか、アナウンサーや解説者の皆さんも緊張している。
聞き慣れた、ってのは嘘だけどゲートの音が鳴り響く。解説者さんの言った通り一枠一番の馬が先頭で飛び出した。決して無理をしている訳ではない、戦法としての逃げ。でもその程度のリードでいいのかと言う気もする。もっとめちゃくちゃにリードを空けて後続を惑わすのもありかもしれない、もちろん無謀かもしれないけど何が正解か分からないからギャンブルなんだって思う。
で、結果から言うとアナウンサーさんが言ったように二ケタ番号の人気上位三頭によるワンツースリー。三連単でさえ4000円を超えない無難なレースだった。
でも、あの逃げた馬も五着に残っている。
(1500万円かぁ…)
1500万円の内1200万円は馬主さんに、225万円は調教師さん及び厩務員さん、75万円が騎手さんに行く事になる。僕がオープン特別で一着になるのとそんなに変わらないお金を得られるんだからやっぱりGⅠは凄いし、それ以上にあの逃げ粘った馬も凄い。
ちなみのその馬は七歳だ。
僕のお父さんは八歳まで現役を続けGⅠを取ったけど、それでも普通は七歳ともなるとピークは過ぎる物らしい。だからそんな年齢まで現役でいるのはかなり少なく、牝馬だと余計に少ないと言う。
お父さんは去年、七十頭の牝馬を相手にした。たった一頭で七十頭だ。牡馬と牝馬なんて数が同じはずなのに、三ケタの牝馬を相手にする事もある種牡馬もいるように種牡馬ってのは繁殖牝馬よりも圧倒的にハードルが高い。見切りが早くて済み、牡馬の様に「いつか開花するかもしれない」となりにくいんだろうか。
あとレースには芝とダートだけじゃなく障害レースってのもあってそっちも現役生活は長いけど、そこで活躍する牝馬ってのはダート以上にいないらしい。この厩舎の先輩でお父さんの同期のユアアクトレスさんって人も五歳になって障害を走ったけどその年で引退したって言う。
さらにさらに昔は、古馬の牝馬のためのGⅠレースもなかったと言う。それこそクラシックが終わったらとっととお嫁に行けばって調子だった事じゃないか。
「随分と熱心ね」
「ボンバーエンド」
「熱心なのはいいけど、あまり熱くなりすぎると倒れるわよ」
ボンバーエンドだ。僕と違ってひと月近くレースに出てないから普通に調教を受けて帰って来た道すがら馬房を通った彼女は春の始めを感じさせるさわやかな汗をかいている。ヒヤシンスステークスの時はすごく寒かったのに。
「別に走ってる訳じゃないし、それでキミ次は」
「チューリップ賞。桜花賞と同じ阪神マイル戦で様子見て、まあその次はどっちみち桜花賞だけどさらにその次をどうするかって」
「僕はまだ分からない。でシャットダウンはやっぱり弥生賞とかスプリングステークスとか」
「ダイレクトに皐月賞も有り得るわよ」
「アッパーグレードと同じか」
「まあどっちもトライアルに出すとしたらダブらない事は確実でしょうけどね。私だって一勝クラスの仔のためにフィリーズレビューじゃなくてチューリップ賞にしてくれって言われたし」
そしてクラシック路線と言う名の花形ルートには、それこそ全ての馬が全てを込めて集まって来る。
一度しかないチャンスを求めて。
僕だって勿論僕なりのチャンスを求めている。
「だからさ、あんた世間じゃ浅野厩舎のトリプルエースとかって言われてるけど私は認めてないからね」
「え?」
「…ごめんなさい」
ボンバーエンドもまた、何も言い切らずにいなくなってしまった。
何が言いたいんだろうか。
レースが近いから無駄に体力を使いたくないんだろうか。
しかしトリプルエースだって?まだ重賞も勝ってないのに?
それならボンバーエンドのがふさわしいのに…とか思っちゃいけないんだろうか?




