第3R 人気なんて
「…………」
アッパーグレードは何も言わない。
春の天皇賞の結果、及び宝塚記念についていろいろ考えなければいけない事も多いのだろう。戸柱さんは不満そうじゃなかったけど、アッパーグレードにはいろいろ思う所もあるんだろう。
アッパーグレードの春の天皇賞は、決して悪いレースじゃなかった。五番手ぐらいにじっと構え、最終コーナーの辺りから飛び出して先頭を捉えそのまま抜け出して突き放す。そういう王道のレースを志していたはずだ。
でも京都競馬場と言うのは直線こそそれなりに長いが平坦であり、逃げ切るにはそれほど悪い環境でもなかった。最終コーナーを回った時点でもう二馬身差しかないから大丈夫だと思ったのだろうが、前の馬に余裕がありアッパーグレード以下誰も彼を抜く事は出来なかった。
十二番人気のその馬を。
着順さえよければ人気なんかどうでもいいって事か。まごう事なき真理だし競馬の醍醐味でもあるけど、僕らとしてはいささか腹立たしい。
(……アッパーグレードの気持ちってどうなんだろうな)
GⅠで一番人気と言う肩書を背負って負ける事、それはある意味特権階級のそれかもしれない。でも嬉しい話ではない。僕の時はあんなあからさまな妨害行為があったからなおさらであり、と言うかGⅠで一番人気になる事自体が選ばれたそれの証だ。たった一度だけでも生涯の誉れであり、自慢話にするに値する。慣れ切っただろとか言われるけど、それでも負けるのは嫌だ。ましてやアッパーグレードの場合今回が初経験だったのだから、なおさら悔しいだろう。
「アッパーグレード…」
「…………」
「…………」
「ああ、宝塚記念はやり返すよ」
声をかけても動かず、短い言葉を返すのが精いっぱい。感情のこもっていない目で言い返すその様子は実に重い。
とにかく、僕に二の舞を演じる理由はない。次のレースも勝つ、それだけだ。
「相変わらずキレのいい事だ」
「…でもうまく行きすぎかなとも思います」
「そこら辺の調整は出来るだろ」
「まあ自分なりにやります」
しかしどうしてもテンションが高くなりすぎる。
帝王賞まではまだひと月あるのにどうしても速くなってしまう。
休む事も仕事だとわかっているけど、どうにもその仕事をさぼりたくなる。
しょうがないのでゆっくり休もうにも、どうしても対戦相手とかデータとかそういうのを調べずにいられなくなる。
と言っても、もうかなり慣れてしまっている。初めて大井競馬場、と言うか地方競馬場に来たのが東京ダービーの時。
そう、もう二年前だ。
ストリートビューに映る大井競馬場は、実に奇麗だった。改修とかがあった訳でもなく、良くも悪くも何も変わらない光景だけがそこにある。来るたびに別の顔をとか言うけど、大井競馬場ってとこはモニタ越しどころか網膜越しでさえも変わっていない。
(前座と本番とか言うけど、ぼくにはもう本番しかないじゃないか!)
そして、GⅠレース以外走らなくなってから、やはり二年経つ。
最後に走ったGⅠでないレースはユニコーンステークスであり、それとてGⅢと言う名の重賞だ。重賞でないレースとなるとそれこそヒヤシンスステークスになる。競走馬にとって二年と言うのはあまりにも長く、文字通りの遠い過去だった。
いわゆるステップレースである重賞戦に定量戦はなく、重賞を勝っていたりお金を稼いでいたりするほど重量の重くなる別定戦や公平な勝負ができるように重量を決められるハンデ戦がほとんどだ。それで疲弊して本番振るわなくなっては意味がない。ましてやダート路線なんて日本中を巡るので夏以外GⅠはそれなりに具合のいい感覚にあり、叩き台のレースなんて必要としない環境が出来上がっている。
「兄さん!」
「ココロノサケビか」
「またそんな事やってるの」
「ただの運動だよ、本番までそれなりにしか時間ないし」
「数日前にGⅠ勝っておいてそれ?」
そんな風に考えてるところに、あからさまに言葉を上げながら迫って来る馬がいる。ココロノサケビだ。デビューがいつになるかはわからないけど日々厳しい調教を受けているのに元気な弟に安心すると同時に、不安にもなる。
「生まれたその時から戦いっての始まっている。レースが終わればまたレースだ。引退のその日までは戦いは終わらない」
「兄さんは一体何様なの」
「ただのサラブレッドだ」
まだ、レースへの心構えが出来ていない。僕らの目標、と言うか仕事は走る事であり、誰もが0.1秒でも早くゴールを駆け抜けるために心血を注いでいる。その戦いが終わるのは、それこそ引退の二文字を告げられるまでだ。
「ボンバーエンドさんが言ってた通りだよ、本当に兄さんって重いよ」
「半年休んだから八キロほど…」
「そうじゃないっての!兄さんはこの厩舎中の馬を引きずり回すつもりなの!」
「引きずり回すって、やる気を出せればそれでいいんだけど」
「兄さんって、自分の重さに全く自覚がないんだね。言っとくけど、兄さんは正直人気がないよ」
「ふーん」
人気。確かにその面ではあまり恵まれていないかもしれない。
僕の人気は馬券の時の配当の安さ、倍率の低さであって「ココロノソニック」と言うキャラクターそのものの人気ではない。
どんな時でも勝利に貪欲、決して手を抜かすに走る。それが僕なりのやり方。
それを僕は美しいと考えているが馬たちはそう思っていない。
むしろまだ欲しいのかよ、九つも取ったのにまだ欲しいのか、少しぐらい分けてくれてもいいじゃないかとなるのはわかる。
ああ僕はこの体型のせいか割と食いしん坊であり、アッパーグレードより二割ほど多く飼い葉を食べている。そのアッパーグレードだって牛飲馬食とか言う言葉があるように人間から見れば大食いだから、僕の食べる量がどう思われてるかなんて推して知るべしだろう。
でもそれを決めるのは僕じゃないように、勝負を決めるのは僕だけじゃない。
その場にいる全ての馬たちの働きにより結果は決まる。
そして人気なんて勝てば上がり負ければ下がる物であり、人気でレースをする訳でもない。馬券は人気投票でも勝敗は人気投票じゃないんだ。
って言うか去年も宝塚記念人気投票で五位だったし、一昨年の有馬記念でも六位。今年の宝塚記念の人気投票は、現時点でなんと三位。
その程度には、人気なんて勝手な物だ。




