第20R その日……
『残り600!先頭はダブルブレード!ココロノソニックは三番手まで後退!』
物凄いざわつきだ。だがちっとも恐れはない。
わかる。向こうが狙っているのは僕が動揺する事だけ。それが自分にとってのたった一つの勝ち筋、いや僕にとっての負け筋だから。
ただじっと待つ。どんどんと追い越されようと、決して山本さんの指示が来るまでは無駄に動かない。
—————来た!
僕のお尻に、鞭の感触が来る。今からが本番だ!
左右を囲もうとする奴らを振り切り、コーナーへと突っ込む。
ああなんだ、二番手の馬がコースを塞ぎに来る!明らかに足が止まっているのに何と言う歪んだ執念だ!
そんな輩に負けてなるか!
「ヒイッ!」
みっともない悲鳴が飛ぶ。視線をやる意味はない。
ほんの少し気合を入れただけでひるむのなら、そんなみっともない真似なんかしなければいい。逃げるならば最初から逃げればいい。
コーナーを回り切ると同時に、敵が見えた。
いや、あっという間に消えて行った。
「何…だ…」
案の定だ。何をしたかったのかは分からないまま、全てを奪われたかのように消えて行った。
あっという間に、文字通りあっという間に消えて行く。はるか後方へと。
「うう、神よ、彼を、救う事は、できないのか…!」
何をほざいているのか。この上なく押しつけがましい言葉を口にしながら消えて行く姿と来たらボロ(馬糞)よりよっぽど汚い。
そのくせ、意志だけはあきれるほどに強い。今のお前は英雄気取りに過ぎない、ただのお山の大将だと言う事を伝えようと言う強靭な思い。
このままでは勝てない、いや勝ってはいけないと言うのか。
馬鹿馬鹿しい。僕が負けるのは僕自身の非力以外に、何が悪いと言うのか。確かにあんな妨害を受けて頭に来て精神を乱したのだって敗因だけど、それだって「僕がそんな程度で動揺したのが悪い」で決着が付くじゃないか。
「威張るな、威張るな…」
威張るな?全く何のつもりだ、僕はしょせんこのニッポンの王者に過ぎない。それも暫定王者。今回もいるけど、次からは年下との戦いが待っている。その戦いも乗り切らずに威張る事が出来る訳がない。まだ僕には倒すべき相手が山と居る、それらを乗り越えずに海外遠征など出来るか。
お父さんは六歳の時、ドバイへ行った。結果は五着。失望はされなかった。でもそれはダートGⅠレース二連勝と言う文字通り勢いの為せる業でありそれ以上でもそれ以下でもない。僕の場合はGⅠ六連勝だから勢いより期待の方が大きく、同時に負担も大きかった。自分としてはダメもとのつもりだったとしても、世間はそれを許さなかった。アッパーグレードたちと共に行ったつもりだったけども、中心にはいつも僕が立たされていた。
窮屈だった。ただの四歳馬でいる事はもうできない。ならばこそ、自分に厳しくするつもりだった。でもどこかで甘えていたのは認める。所詮は四歳だし、まだ一度目の挑戦に過ぎない。ダート界なんて長いんだから五歳、六歳、いやまだそれ以上先がある。
そして、単純に世界は広い。ダート競馬の本場であるアメリカには、僕よりももっともっと強い馬がいる。
「そんな中でどうやったら驕り高ぶり、威張りくさってうぬぼれる事が出来ると言うんだ!」
叫び声と共に、僕は先頭を駆け抜けた。
「なんでまたあそこまで」
「気が弱いだけです」
「ハナ差でも勝ちは勝ちだ。止めなかった方も止めなかった方だけど、それでも少しやり過ぎかもしれないぞ」
結局、八馬身差。単勝110円の馬にふさわしい、文字通り完膚なきまでの勝利。
しかし後ろからは本当に誰も追って来ず、結局強引に前に来たはずの馬たちが二・三着。
一体何なんだろうか。
「山本さん、善悪って何だと思います?」
「善悪?」
「僕は悪である、何とかして改心させなければいけない、今のままでは永遠に僕のためにならない。そんな一方的な思いをぶつけて来る馬がここにはいます」
「一方的な思い…まさか」
山本さんも気付いたらしい。
他の馬たちが、まるで自分たちの勝利より僕の敗北を願っているかのように走っている事に。
「ダブルブレードのヤネ(騎手)もかしわ記念でのダブルブレードのあまりにも急なラフプレーを制御できず、今回(帝王賞)も必死に手綱を引いたのにあの有様だった、ココロノソニックと会うまではこんな事はなかったのに、だ。
どうやらあれは好き嫌いとか言う次元ではなく心底からの憎しみに満ち溢れたそれであり、しかもパドックとかではそれほど敵意を見せる様子もなかった事からして文字通りの絶対的かつ正確無比な悪意である事は間違いない。
一体何が彼をそんなにしてしまったのか、調教師も苦悩している。デビューからシンガリ、ブービーとなった事もあり芝とは全く無縁の競走生活だったが、このままだと芝への再転向まであり得るとさえこぼしていた」
ある競馬ライターさんの記事だ。山本さんも読んではいたけどそこまでになる理由が分からないって流していたらしい。
「勝手に僕は、救われるべき存在になっていたようです」
「王者の孤独…まさかな」
「アッパーグレードは親友です」
「だよな。まったく、ぼくはきみから多くの物をもらった、その上であくまでもお手馬の一頭として扱っている。その方が嬉しいだろ?」
「はい!」
僕にもし他の馬を惑わす力があると言うのなら、他の馬にだって同じようにあるはずだ。そしてそれに負けずに生きる事、いや適当に惑わされてもいいから決して溺れないのが僕らの役目のはずだ。
だと言うのに僕にすっかり溺れてしまったあの馬たちの事は、本当に見るに堪えないとしか言えない。自分の本来歩むべき道を見失ってまで溺れる必要がどこにあるのか。負け続けて悔しいから憎むとか言うならば筋も通ってるけど、あれはもう明らかに憎しみではなく善意。奇形極まりないそれだけど善意。それだけに余計に気持ちが悪い。
そんな存在と……
「あ」
「どうした!」
音が、消えた。
脚が—————痛い。
さて次は外伝から第三章…と言いたいけど間にハッピー・テロリストを挟むかな。




