第19R 静かなる大逃げ
「付ける薬がないとはこの事だな」
一ヶ月近くも騎手の人を出走停止状態に追い込んだ自分を棚に上げて、何のつもりだこのダブルブレードとかって奴は。
「…………」
「ボクはキミの目を覚まさせるためにやったのに、全く伝わらなかったようだな。自分こそ特別な存在ですだなんて思い込んで、英雄然として振る舞うその姿は文字通りのナルシシスト。それこそ父親さえも望まぬ姿」
「…………」
「ああわかったわかった、どうしても本気でかからねば受け付けないと言う事だな。わかった、我々は本気でお前を負かす。そして目覚めさせてやる。礼を言え」
芸術的なほどの、雑音。
いや、騒音。
年齢とか実績とか上から目線とか以前に、いやかしわ記念にてあんな真似をした前科がある事を差し引いても、こんな聞くに堪えない音声があっただろうか。
「黙るのか?黙るって事は認めたって事だな?」
「…………」
「おおそうかそうか、我々に負かして欲しいのだな!殊勝な心掛けだ、感心したぞ!フッフッフッフ…アッハッハッハッハッハ…!!」
で、無視を決め込むとこうして勝者として去って行く。
まったく、どこの世界から来たんだろう。
もう相手にするだけ無駄、わかっているけど他に言いようがない。
でも向こうは相手にして来る。同じ競馬場にいる限り相手をするしかない。
そしてまともに戦おうともしない。それこそあんなラフプレーと言うのもおぞましいぐらいの真似を平気でやる。勝つためでなく、負けさせるために。本末転倒以外の何でもない。
いやもっとひどい、それこそ悪口とは言われたくない言葉だってフレーズそのものを具現化したような存在。
—————なら。
「なんかえらく疲れてるようだけど」
「……逃げましょう」
「え?」
「ずっと先頭に立ちましょう、マイルなら行けます」
僕が山本さんに提案した答えはこれしかなかった。
「そうか、でも」
「いえ、山本さんと一緒にいると落ち着くんで」
三ヶ月も休んだ。体は十分元気だ。精神衛生上の問題はある。同じ場所にいながら関わらない方法を、僕は他に知らなかった。
(運も実力の内だよね!)
一枠二番。文字通りの絶好枠。一頭の三歳馬を除けば、見慣れた対戦相手。
何か変な事でも起きない限り、勝てる。ただその変な事が起きるのが競馬であり、変な事を起こすために皆動く。ルールをわきまえていればどんな手段でも別に構わない。もし僕がルール違反をしていたら容赦なく指摘して欲しいし、こっちだっていくらでも改める。
ゲートが開いた。
作戦通り、行く。
『おっとココロノソニック!今回はいきなりかかったかのように飛び出す!』
かかったとか言うならばそれでいい。それこそ二ケタ馬身ぐらいつけてもいい。もちろん山本さんが止めるんなら止めるけど、山本さんが止めないんならば止まらない。
『おっとまだ400mなのに七馬身は開いているぞ!』
その結果がこれ。暴走のつもりもないのにこの数字、実に気持ちいい。
と言うか、こんなにも静かなレースは久しぶりだった。
絶対王者。そんな風に言われたのはいつからだろうか。
去年の東京大賞典か。それとも今年のフェブラリーステークスか。少なくともも海外遠征で負けて帰って来た頃から、僕に対する風当たりは強くなった。
負けたからか。あれほどまでに勝ちまくったのに二着すらなれずに負けたからか。だったら勝つしかない。その思いを自分なりに込めて挑んだはずだったかしわ記念で待ち受けていたあまりにも非業な仕打ち。一度つまずいたらもう立ち上がれねえんだろとか言う気か?誰も彼も何度もつまずいては立ち上がって来た、お父さんだってそれは同じだ、たかが一度や二度の敗戦で立ち上がれなくなるほど弱っちいとか思われてるのならば心外としか言えない。
「お子ちゃまにはお仕置きが必要なようだな」
「…………」
………………………………背後霊と言うより悪霊じゃないか、しかも無自覚な。
これがもし戦術とかではなく本当の意味での正義だと言うなら、僕は悪でいい。
こんなにも醜悪な、歪み切った正義。一体どこからそんな感情が沸き上がって来ると言うのか。
って言うか、この大逃げに反応してこのままじゃ危ないとでも思ったのか。
いやただそれだけならばごもっともなお話なのに、なぜ余計な事を突っ込むのか。
そしてそのおせっかいとかええかっこしいとか言う単語すら生ぬるい存在は、決して一頭だけではない。
(単騎逃げが怖いのは分かるけど、それにしてもあまりにも早すぎる…)
まだそれほど本気を出しているつもりもないのに、スローダウンの暇さえ与えてやらないとばかりに後ろから突き回して来る。
二頭、三頭、四頭……もう先行集団と言うより押っ取り刀にもほどのある暴走集団じゃないか。こんな風に前が強引に競り合って得をするのが一体誰なのか、少し考えればすぐわかるはずだ。それなのに我先にと挑みかかるのは追走じゃない、ただの特攻だ。特攻するしか勝つ方法がないにしても、乱暴すぎる。
もしその得をする存在を勝たせようとか言うのならば、それこそ意味不明を通り越した自爆だ。騎手さんにもオーナーさんにも調教師さんにも、何よりファンの人にも申し訳ない。ここまで勝手なレースに何の意味があるのか、もしそんな事を最初から自分のために動いているはずの人たちに命令されたのだとしたら許せないし、自ら志願したとか言うならば止めるべきではないか。
「…………」
でも、僕にはしなきゃいけない事がある。彼らの目を覚ますためにも、正々堂々と、王者らしく勝たねばならない。最初からこれならばともかく、途中から上げるなど明らかに暴走。そんなのを顧みる必要などどこにもない。
山本さんを信じて、ただそのまま走る。それだけでいい。
だから。
『ここでなんとダブルブレードが先頭に立ちました!ココロノソニックは二番手、いやさらに後退!』
何も、気になどする必要はない。
山本さんの指示以外。




