第17R 「弟君」
八月三十一日。
晩夏とか呼ぶにはまだ暑い日。
二ヶ月の放牧を経て戻って来た僕を待ち構える視線は、相変わらず多くない。
その事は、別に苦痛でも何でもない。
「たった二ヶ月、って言うか次は南部杯なのになぜわざわざ放牧なんか」
って聞かれる事はある。
正直、僕も答えられない。
まあ放牧されて何をやってたかって言うと、文字通りの食っちゃ寝。その割に体重は増えてなかったけど、気持ちだけは競馬場の喧騒を離れて落ち着けたと思う。それに涼しくて気持ちいい。
「本当お互い様とは言えいい御身分なこったな」
「アッパーグレードはずっとこっちにいたんだよね」
「俺やボンバーエンドのようなセレブには冷房が付いてんだよ、本当勝利の意味ってのはでかいね、この時期になっても未勝利走ってる三歳たちは本当可哀想だぜ」
「全部に付ければいいのに」
「んな金はねえよ」
馬は北海道生まれが大半であるように寒冷地には耐える、その分暑さには弱い。三十五度なんて日常茶飯事の上に湿気の強いこの国の夏は非常に過酷であり、そのため最近じゃ薄暮競馬とか言って正午から午後二時半ぐらいまでレースを休む事が増えた。メインレースが第11レースじゃなくて第7レースになり、最終レースは午後六時半。大井競馬場とかのナイトレースとそう変わらないじゃないか。
「お前知ってるか?先生がどれだけ金もらうかって」
「僕らがレースで勝ったら?」
「そう。オーナーが80%、騎手さんが5%、先生が10%、厩務員さんが5%。つまり俺らが1億円稼いでも先生は1000万しかもらえねえ。1000万と言われれば体裁はいいけど設備を整えるのにそんな金じゃ無理だし、だいたい1億稼げるだけで世間的には超一流馬様だ。もちろん俺らの稼ぐ金だけでやってる訳でもねえだろうけど少なくともホイホイとやれるほど潤沢じゃねえ。お前がどんなに頑張ろうと先生に落とした金はまだ1億あるかないかだ、それでも世間的に言って大成功の極みだけどよ」
「大成功、かぁ…」
そして放牧なんて事が許されるのは成功の代償だ。弱い馬はそれこそチャンスをつかんであがかなければならず、三歳夏の時期の未勝利戦まで走らなければいけないような弱い馬は待遇もそれ相応にされてしまうのは自然だろう。大器晩成とか言うのはいい言葉だけど、実際にそうなる馬は本当一握り。お父さんも日本ダービーの日にやっと初勝利を挙げたからそういう類であり聞いてはないけどきっと勝てば勝つだけ待遇も改善されたんだろう。
「だから、182頭も相手したのかな」
そしてそれは、永遠に変わらない真理だった。
「お前の親父さんかよ、でもいい迷惑でもあるぜ」
「やっぱりそれだけの数を相手にするのって……」
「それもあるけどよ、親父さんに金を寄越してるのほぼお前一頭だぜ。それってブランドイメージ的にはあんまよくないんだよ」
でも僕以外にオープンクラスまで上がれた馬は、調べる限りまだ一頭だけ。
まだ四歳までしかないとは言え本当に僕とその他大勢と言うのが今の力関係であり、要するに「確かにココロノソニックは凄いけど、それ以外は全然ダメ」と思われてるって事か。
「でもそれって」
「ああ、全くお前のせいじゃねえ。けどよく見れば今の時期ぐらいまでに勝ち上がる奴はかなりいる。大半がダートだけどな、そのおかげで地方競馬ではお前の兄弟は…っておっとこれは釈迦に説法だな。でもよ、そんな存在はよっぽどのファンじゃなきゃ目に留まらねえ」
「生産者の皆さんに好かれてくれてればいいけど」
「お前がいなくなったらどうすんだおい」
「それは悪いけど僕の関知する所じゃないよ」
今日のアッパーグレードはしつこい。いつもある程度話していると向こうから話を切り上げるのだが、この日はやけに話を続けたがる。お父さんの種牡馬としての成績なんて、僕がどうにか出来る事じゃない。
「お前に絡んでも無駄だってわかってるけどな、このままだとココロノダイチさんの血を継ぐのってお前しかいねえぞ、シャットダウンみたいにな」
「でもいずれは」
「やめとけ、お前はまさか弟の事を知らねえとか言うのか」
「弟…」
「ああ、お前の三つ下の弟だ。しかも全弟だ、まさか知らなかったと」
「言わないけどさ」
そう、そして古馬になった僕に突き付けられた、特別だけど特別でもないお話。
弟。全弟。
繫殖牝馬が毎年同じ種牡馬に種付けされるわけでもない以上、母は同じでも父が違う兄弟姉妹ってのは山と居る。全弟ってのは父親も同じ弟って事であり、文字通りのココロノダイチの子どもであり血筋は僕と全く同じ。だから、僕と全く同じ活躍を見込まれるって次第だ。
「9000万円だって」
「お前は1700万だったのにな、でも億行かなかったのは幸運だよ。ただでさえ重たい十字架が余計に重くなる」
「来年にはココロノサケビもデビューするんでしょ、ここに来るかどうかは分からないけど」
「さあな。ちなみに俺の妹はまだ一勝しか出来てねえ、美浦トレセンにいるから顔を合わせる事もねえけど、アッパーグレードの妹って言われてさぞ苦しんでるんだろうな、何も悪くねえのにな」
そして、既にココロノサケビと言う名前も決まっている。
生まれた時には僕は既にヒヤシンスステークスを勝ちスプリングステークスを二着していた、そういう存在の全弟として生まれ落ち、一年後にはGⅠ六勝馬の弟になっていた。お母さんに取っての初仔であった僕と、背負う物があまりにも違い過ぎる事は僕だってわかる。
(でもそれって、僕の責任?)
だけどもし、僕が駄目ならばココロノサケビもどうせ大したことないんだろと言われるって事でもある。そうして侮られるのは冷静に考えれば悪くはないけど、いずれにせよココロノサケビにはもうそんなチャンスは来ない。生まれた時からずっと、「ココロノソニックの弟」でいなきゃいけない。ちなみに僕のひとつ下の世代は不受胎で、二つ下の世代の妹はお父さんが違うしまだデビューしてないからどうなるかわからない。
ただ、0歳の妹や今お母さんのお腹の中にいる仔の父親は、僕と同じココロノダイチ、つまり全弟妹であり同じように「ココロノソニックの弟妹」と言う肩書を背負わされる存在。
だけどそれは、何が悪いんだろうか。
僕がココロノサケビやいずれ来るかもしれない弟妹に出来る事は、今の所何もない。
目の前のレースを、勝つ事だけ。




