第8R かしわ記念
「本当に疲れてねえんだな、知ってたけど」
「ドバイから帰ってくる時にぐっすり寝てたから」
「こっちはまだどこか張ってるんだよ…宝塚行けるかどうかちと怪しいんだよ…」
日本に戻って来た僕らは、これまでのように飼い葉を食べて水を吞んでいる。
ドバイの時に食べたり呑んだりしたそれとの味の違いを、残念ながら僕は覚えていない。ずっとレースの事しか考えていなかったせいか、それともその事に僕が関心を持っていなかったからか。アッパーグレードはやっぱりこっちの飯はうまいとかって言ってるけど、あまり体型が変わった気はしない。
「ココロノソニック、アッパーグレード、軽く行くぞ」
「はーい」
「おうよ」
そんな僕らが再び調教を受ける事になったのは四月の半ば。桜花賞と皐月賞の間の水曜日。
まだ状況を確認って事で、いつもの坂路を一本だけ。それも単走。
「まずはアッパーグレードから」
アッパーグレードが坂路に出て行く。でも本馬が言ってるようにどこか足取りが重い。やはり疲れが取れていないんだろうか。
駆け出して行く。スタートは正直鈍い。
でも調教助手さんの手綱に従ってゆっくりと加速して行く。決して悪いとは思わない。だけど最後の1ハロン、少し脚が鈍った。やっぱり疲れているのか。ドバイシーマクラシックで見せたそれとまでは行かないにせよ、これまでのそれよりはどうしても落ちてしまう。宝塚記念だとしてまだ二ヶ月あるし、あるいはこの後調教もまともになしで当分休むとなればそれこそいくらでも疲れを取る時間はある。
「タイムも悪くないな…次、ココロノソニックだ」
「はい」
次は僕の番だ。走り慣れたはずの坂路が本当に懐かしく思える。
やる事は別に変わらない。調教助手さんの手綱に応え、走る。距離は6ハロン(≒1200m)、最初から飛ばす必要はない。
まずはゆっくりと、久しぶりの坂路の感触を確かめる。
1ハロン、2ハロン、ああこれだこれだ。
よし、今日はどうせ一本だけだし、早速本気で行くか。
「おっと!」
それほど急にでもないつもりだけど加速した事に助手さんも浅野先生も驚いたようだ。ロングスパートを仕掛ける気もないしドバイワールドカップのそれを反省したつもりでもないけど、本気で行ってみよう
「何か速くなってますね」
「ペースを抑え…なくていいか」
「いやこれ多分わかってます、次はないって」
助手さんの鋭い指摘に僕はニンマリする。もし二本、三本とか言うならばこんな事はしない。ダートは芝ほど距離の範囲は広くないけどそれでも距離相応のペースの取り方ってのはある。実際1200m戦なんて走った事ないけど、そこにはそこのやり方ってのがあるんだろう。その上でこの芝でもダートでもない馬場を、自分なりに駆け抜ける。
「元気そうですね」
「…そうだな。一応検疫とかあったはずなのにな。作りが他の馬と違うとは思ってたけどな。かしわ記念行くか」
そのおかげでもないだろうけど、僕のかしわ記念への出走が決まった。ドバイワールドカップから一カ月少々、もし疲れていると思ってくれるならばありがたい事この上ないじゃないか。
「だから今聞いてただろ、お前は他の馬とは作りが違うんだよ」
「同じ四本足の生き物だろ」
「お前はそういう奴だ、いいとか悪いとかじゃなくな」
調教を終えた僕に対するアッパーグレードの言葉は相変わらずだ。
それで僕が首をみんなに向けて振るとみんなうなずいてる。なんでだろう?
「ココロノソニックさんを気にするとやる気なくなるんです」
でそんな風に三歳馬から言われたけど、その彼は芝1200mの勝ち馬でこれからもその路線で行くって浅野先生が言ってたし元から別の世界の馬って事でそんなに意識する事もないと思う。あるいはそこからマイルまで対応してダートを使うようになって…と言うのはあるかもしれないけどその時はその時に考えればいい。まあ実際僕はいきなりスプリングステークスとか皐月賞とか有馬記念とか言われてあわてふためいたけど、みんなそんなうかつでもないはずだ。
「船橋競馬場と…」
枠による有利不利は少なく、直線も308mとそこそこある。前へ行く方が有利だろうか。ついでに今年はJBCも船橋でやるので覚えておかなければいけない。そしてどんな相手が出るかも気にしておかなければならない。
「えっと、ダブルブレード、アイムキングス、カースブレイカー、ネヴァーロスト……」
何だこれ、フェブラリーステークスと全然違わないじゃないか。
もちろん他にも相手はいるけど、主要な敵はおそらくこの四頭。そして一番手ごわそうなのはフェブラリーステークス二着で川崎記念を制したダブルブレードさん。正直後は…と言う気になって来る。
(獅子は兎を狩るにも…いやいやいけないいけない、僕も相手も同じ生き物だ。決して油断しちゃいけない。堂々と戦って堂々とやらなければいけない。それが僕の役目だ。決して手を抜く事なくやってみせなきゃいけない)
僕がどんな立場にあるのか、その事ぐらいは認識している。だからこそ勝たなければいけない、期待に応えなければいけない。
それが、僕の役目だから。
「七枠十二番…」
で、かしわ記念。
僕に与えられたのはかなりの外枠。フルゲート十四頭の中の外から三番目。広いけど距離は喰う。でもスタートの坂があまり強くないのでスタートダッシュは決めやすい。
「…………」
ダブルブレードさんたちは僕を遠巻きにしている。ファンの人も騒ぐ事なく、じっと僕らを見ている。やけに静かだ。地方競馬場のレースにも慣れたけど、地方競馬とか言うそれを取っ払っても静かだ。確かに地方競馬は平日だけど、五月五日は祝日。もっとたくさんのファンの人が来てくれてもいいのに。
いや、来ないのかもしれない。
あまりにも、雄弁な現実を前に。
ついにこんな時が来たのかとうぬぼれると共に驚き、それ以上に感心した。
—————十二番、ココロノソニック、単勝オッズ、1.0倍。




