第5R ドバイ着
「言うほどには暑くないですね」
「湿度が違うんだよ湿度が、ってか何だよその顔は」
ドバイに到着していの一番に出た感想はそれだった。
三月だってのに気温30℃を超える可能性もあるとは聞いていたけど、空気はそんなに重くない。僕の場合ただでさえレースが夕方と言うか夜である事と相まって、別に言うほどの事はなかったなと安堵する。
後は時差だが、それは今回主なライバルになるアメリカの馬だって同じはずだと思っていた。
だがここに来て気付いた。
日本はアメリカより十五時間ほど早いはずだから僕らの午前二時は……午後五時。
なんだこれ、いわゆる薄暮競馬だとじゅうぶん最終レース、それどころか第九レースぐらいの時間じゃないか。
いや普通の日でも最終レースは午後四時二十分ごろであり、午後五時と言うのは十分に圏内である。アメリカの競馬がどういう時間に行われてるかまでは知らないけど、これはちょっとまずいかもしれない。
「いや時差がね」
「お前がそんなもん気にするか。俺だって日本で言えば深夜の時間帯だぞ。お前がいつも通りでいねえと俺らが戸惑うじゃねえか」
「いつも通りって」
「いつも通りレースの事しか考えねえでいろって言う事だよ。俺だけじゃなくてみんながお前のそんな姿を望んでる。ドバイのコースもそれなりに研究して来たんだろ」
「まあね、アッパーグレードにも」
「いいよ。俺は芝でお前はダート」
「他の馬に」
「他の馬は全部俺らより年上だ、んな大事な事をしてねえと思ってるのか!」
「ひっ!」
それでその危惧を正直に吐露した上で仲間であるアッパーグレードたちにも自分なりの思いを伝えようとしたら、凄い顔で怒鳴られた。
レース中でさえも見た事のないような顔で吠えるアッパーグレードを前に、僕だけでなく他の馬や人まで白目を剥きそうになった。
「アッパーグレード!ちょっと何がいけなかったの!僕が差し出がましいのがいけないの!ちょっと!ねえ何が悪かったの!これが威張りくさってるって言うの!ねえ、何が悪いの!説明して!説明!」
「………………………………あー、悪い悪い。つい緊張しちまって気が立ってたんだ。今のは忘れてくれ、頼むから、な、な!」
「無理だよ、あんな恐ろしい声でいきなり吠えつけられて忘れろだなんて!一体何がいけなかったの、改善するから言ってよ!お願いだから!」
「……………………いいか、お前みたいな真っ正直な奴しかいねえって思うんじゃねえぞ。純粋に速ければ勝てるとかってほどレースは単純じゃねえ。本当八つ当たりして悪かったな、本当すまなかった……」
だってのに僕があわてふためいてどうしたのか、何が悪いのか聞こうとすると急にしゅんとしてしまい、その反動かわからないけど僕に負けじとあわて出した。そして僕がさらに迫るとまた黙り込み、深々とため息を吐きながら頭を下げ出した。
要するに何なのか、あまり自分だけが正しいと思って浮かれ上がるな、さらに世界にはそれこそアンフェアな手を使ってでもGⅠに限らず勝とうとする存在がいると言う事を言いたいのだろうか。
海外にだって進路妨害によるペナルティはある。こんな場所でそんな事をすればそれこそ馬自身どころか騎手の人や調教師の人にも恥を掻かせる事になる。どこでも同じだけどこんな世界中の人の耳目を集めている中でそんな事をするような勇気、と言うか馬鹿はいない。渇しても盗泉の水を飲まずとか言うけど、汚い真似をして勝つんなら奇麗に走って負けた方がいい。
逃げ、先行、差し、追い込み。いろんな戦法があるしペースを呼んだ上でどう動くかは馬と騎手の自由。どんなルートを取るかもまた自由。だからこそわざわざ汚い手を取る理由はない。あるいは真っすぐ走る事が出来ず結果的にそうなってしまう馬もいるらしいが、それは本馬の責任であり甚だ迷惑だ。
それに欧米では、日本以上に気性の荒い馬は好まれないとも聞く。香港やオーストラリアなどでは、気性をおとなしくするために優秀な馬でも睾丸のない騙馬と言う存在にしてしまう事が多々あり、そうなると血をつなぐ事は出来なくなる。もったいないとか言うより、そこまでしておとなしい馬を欲しがるのだからいわゆるラフプレーなんかありえようはずがない。
(正々堂々と勝負して勝てばよし、負けたらそれまで。おそらくこの広い競馬場だしあまり枠順による有利不利はない…)
世界中の目がそこにある。正々堂々と走る以外何ができると言うのか。
僕はとりあえずアッパーグレードが落ち着いてくれたことに胸をなでおろし、砂っぽくはあるけど穏やかな空気を吸った。
さてレース当日だ。
と言っても最初の重賞であるゴドルフィンマイルからドバイワールドカップまでは四時間以上ある。正直暇だ。
その暇にかまけて、ゴドルフィンマイルを見る。日本から二頭出しとなったこのレース。
結果は、明暗がくっきり分かれた。
「前有利なのかな」
「展開の差だろ」
「僕も日本でいずれ彼らと戦う事になるのかな」
「ならねえよ、勝ち馬は多分マイルでもギリギリ一杯だったからJBCはJBCでもスプリントとか回りそうだし。あ、マイル戦だとお前とぶつかるか…災難なこったね」
「災難って」
「やっぱお前自覚ねえんだな」
先行集団にいた馬が栄光を掴んだ一方で、後方にいた馬はそのまんま後ろから三番目。
ペースはアッパーグレードが言う通りそれほど早くなかったし単騎逃げとまでは行かないにしてもみんな控えていた事は間違いない。このままならと思ってみんな仕掛けに行くかと思ったがみんななかなか動かず、結果的に早めに仕掛けた日本の馬が勝ったと言う訳だ。
「しかし滝原さんすごいな」
「本当ああいうのが熟練って言うんだろうな」
「でも戸柱さんが一緒なら大丈夫でしょ」
「お前も山本さんが一緒なら大丈夫だろ、ってか戸柱さんの方がこっちは詳しいんだぞ」
「そう言えば…」
そう、アッパーグレードの主戦騎手である戸柱さんは僕のお父さんの主戦騎手。
つまりここに来た事がある。
対して山本さんはドバイ遠征は初めて。
その点は不利かもしれない。
「山本さんは次…」
「ああ。とにかくお互い先輩には悪いけどじっくり見させてもらおうじゃねえか」
そして次のドバイゴールドカップ。芝3200mのレース。山本さんが乗る。
ゲートが開いた、えっと十一頭立ての6枠…4番?ああややっこしい。
とにかく見た所中団にじっと構えそこから抜け出す戦法らしい。ペースはやや速めか、これならば行けるかもしれない。
そして残り1000mほどの所で手が動いた。ロングスパートだ。それに誰も付き合わない。よしチャンスだ!
…と思ったけど、残り400m・二番手に来た辺りから伸びず前を捉えられない。後ろからももう一頭しか来ないけど捕まらないまま時間だけが過ぎ距離がなくなり、結果は三着。
「やっぱり前有利かな」
「…だな。あーあ、あと三時間待ちだぜ本当やんなるな」
そしてドバイシーマクラシックとドバイワールドカップは、この三時間以上後。
本当、海外のGⅠは忙しい。あ、ゴドルフィンマイルもドバイゴールドカップもGⅡだけど。




