第23R 東京大賞典
(あーあ……………………)
この世の終わりのような顔をして厩舎に戻って来たアッパーグレードを目の当たりにしながら、入れ替わるように僕は馬運車に乗る。
「……ま、帰って来たら教えてやるよ」
全く力の入っていない目で何を教えようって言うのか、僕には全く分からない。分からないまま、アッパーグレードの姿が遠くなって行く。
確かにシャットダウンには1.2秒の差を付けられた。だが着順としては4着、そんなに悲観的でもない。
シャットダウンはここがピークかもしれないし、アッパーグレードはまだ全盛期が来ていないだけかもしれない。ヒガシノゲンブとワンダープログラムだって同じだ、四歳凱旋門賞で引退したヒガシノゲンブと五歳一杯まで走り続けたワンダープログラムのGⅠ勝ち数は同じ。僕のお父さんに至っては五歳一杯までGⅠゼロ勝だったのが最終的に八勝と二頭を上回った。
(お父さん、かあ…)
そう、今度の東京大賞典はお父さんにとって一番大事なレースだった。
八年前。
初勝利から一年かけてオープン馬に上り二戦目でオープンを勝ちもう二戦目で重賞を勝ち、GⅠに向けて進んでいたはずのお父さん。その後勝てないにせよいい所をずっと走っていたけど春ごろからスランプに陥り全く勝負にならず、ひと月前にGⅢを勝ってようやく立ち直ったと言いたいけど去年走っていたGⅠを走れず内心不貞腐れたらしい。
そしてその頃、あのワンダープログラムさんの引退レースとなった有馬記念。
何とかしてワンダープログラムさんの引退までにと、この上なく気合を入れてお父さんは東京大賞典に臨んだ。
でも結果は二着。
勝てなかった。
どんなに悔しかっただろうか。
それからひと月後、六歳になったお父さんは新年最初のGⅠだった川崎記念を制してようやくGⅠ馬になったけど、既にワンダープログラムさんは厩舎を去っていた。
勝利を示したい相手は、もうそこにはいない。
それこそ、一晩中泣き明かした。
五歳末と言う、文字通りのいい年した存在がだ。
物語そのものだけど、まごう事なき実話だって浅野先生を含むみんなが言っている。
その体験が、「鉄の馬・ココロノダイチ」を作ったとも言われている。
どんなに使われても弱音を吐かず、ただ淡々と、しかしそれでいて重みのある走りをして若駒たちを引き付ける。そしてGⅠを勝ちまくる。なんと素晴らしいんだろう。
そんな存在に僕はなれるんだろうか。GⅠの勝ち数だけならばもう半分まで行ってるけど、ああいう境地に達する事が出来るのかは分からない。
でも。
(お父さんの物語はお父さんのそれでしかない)
僕の考えはそれだった。
確かにココロノダイチと言うサラブレッドにはそういう素晴らしい物語がある。でもそれを僕がわざわざ受け継がなきゃいけない理由って何だろうか。三歳にしてもうGⅠ4勝の僕と五歳にしてまだGⅠゼロ勝のお父さんでは話が違い過ぎる。
だから。
「ココロノダイチの子どもは僕一頭じゃありませんから」
それ以上言う事はないとばかりに、この半年強で三度目となる大井競馬場のパドックに入った。実際お父さんの初年度産駒は八十八頭いる。重賞勝ち馬は僕だけだけど、何せ初年度産駒だ。この後もどんどん増えて行く。物語を刻むのは僕の役目じゃない。刻みたい馬が刻めばいい。
そうだ、通い慣れた大井競馬場の空気は何も変わらない。東京ダービーの時とも、ジャパンダートクラシックの時とも。
違うのは、空気と目線。
来週から僕は四歳、古馬になる。もう三歳なんて言う肩書は存在しない。
挑戦者でも何でもない、ただの馬。GⅠ4勝なんて言うとんでもない肩書がくっついた馬。そんな死んでも消せない肩書を背負った僕の事を、みんなが倒そうとしている。
そして向けられる目線。
今度こそやってやると言う強い意志にあふれた本当の競争馬の意志。どんな戦法を取って来るのか、どうやって僕を倒しに来るのか。もちろん人間からの応援の意思もあるし、同時に僕に数万数十万円をつぎ込んでいるんだと言う意味でのそれもある。
そして同時に、僕に負けることを期待しているそれもある。
(10.2倍って……)
単勝二番人気で、10倍以上。それだけ人気が被っていると言う事であり、僕が負ければとんでもなく配当が跳ね上がると言う事でもある。馬単(1・2着を順番通りに当てる馬券)でも僕→二番人気馬が3.1倍なのに逆は25.1倍。そういう意味での「期待」も、僕を含むすべての馬は背負っている。誰かの勝利は誰かの敗北である以上、僕の敗北を望む視線は消えない。言うまでもないが、僕はそういう人間の都合など知った事じゃない。
いつも通りゲートに入り、いつも通り出て、いつも通り走るだけ。
だけど。
『かなりのハイペースです!』
僕が前を塞がれないようにとばかりに前に出てレースをしようとしたら、多くの馬が同じように出がけから仕掛けて来ている。東京ダービーやジャパンダートクラシックの時と比べて明らかに速い。
このペースに付き合うべきか。僕は山本さんに目線をやる。
—————付き合ってやろうじゃないか—————。
わかった。僕も負けてはいられない。飛ばしてやる。飛ばしまくってやる。
どこかからまだ若いなと言う声が聞こえた気がしたが、そんなのは関係ない。僕はただ前へ行くだけ。
ペースが速いからと言って前に行った奴が全部駄目だなんてのは経験則でありデータでしかない。僕はデータは大好きだけど、データだけで決まるんならば競馬の価値なんてあるのかどうかわからない。
直線だ。
ああもう、まだ付いて来る。こっちが先頭だってのにうるさいったらない。
(ああもう!)
僕が軽く吠えながら前へ出てやるが、それでも下がらない。どうやら同じようにスパートをかけて来たみたいだけど、本当イライラする。
「外!」
外?確かに見えてないけど、外から追い上げて来る馬なんていないじゃないか。と言うか馬の視界は何度あるか誰か知らないけど忘れてるんだろうか。
ああ、やれやれ。
「だろうな…まあしばらくはお休みだしな」
ああ、疲れた。
山本さんの前であからさまなほどにため息を吐いてやったら、山本さんも即座に反応してくれた。
本当に強い。みんな強い。
でも負けたくない。
そう思って必死に走った結果、僕の前にゴールした馬は一頭もいなかった。
それが全てじゃないか。
今回は一馬身差。これまでよりはずっと小さい。
でも勝ちは勝ち、負けは負け。
他に何があるんだって言うんだ。




