最終R 僕は、どうしてもやめられない。
七歳になってもなお厩舎に残っていたのは、「最後の仕事」のため。
アッパーグレードは、もういない。
僕よりも早く、年が明ける前に厩舎を去って行った。
「大丈夫なんですか」
「大丈夫だ。それでも一刻も早くって事で引退式も知っての通りなしって事で」
「寂しいですね」
「もうやり切ったって言ってたよ。何の未練もなさそうな顔をしてさ、三年後にはアッパーグレードの仔がここに来るの…かな」
「ちょっと!」
「浅野先生はもう六十七歳だ」
騎手は定年のない仕事だが、調教師の定年は七十歳。「浅野厩舎」はあと三年で終わる。
いや馬と違って人間が誕生日もそれぞれ違うから……と言いたいけど、たぶん七十歳ぴったりになる前に浅野先生は看板を下ろすだろう。僕が今年早速種付けを始めたとしてもその仔が走るのは三年後。
「シャットダウンなら…」
「ああ、シャットダウンの仔は今年二歳になる。既に何頭か入る事が決まっている」
「その仔たちを育てるのが、最後の仕事…」
「だろうね」
「浅野厩舎」にいるであろう馬を誰が受け継ぐのか、それは僕の関与できる問題ではない。シャットダウンの仔がどこへ行くのかを決めるのもまた同じ。浅野厩舎ではなく他の厩舎もシャットダウンの仔を求め、シャットダウンの仔同士の戦いが繰り広げられる。ってかそうであってもらいたい。
そう言えばボンバーエンドの初仔の父親もシャットダウンだった気がする。同期の英雄たちが結ばれてその仔を新世代に送り出す。本当にきれいな話だ。
ただそれと共に大金が動くのが馬の世界だ。シャットダウンの仔は去年セリに出され億を超える値が付いた馬が六頭おり、うち一頭は海外で走る事になった。シャットダウンは種付けもうまいらしく受胎率は三年連続83%越え、今年はさらに種付け料を上げてまた数も増やすらしい。
「あ、ココロノソニックの分は残ってるから」
僕の心を読んだのか、そんな事も言われた。
繫殖牝馬の数は有限であり、誰かがたくさん付けると言う事は他の誰かのパイを奪うと言う事でもある。
ただでさえ一回1000万円とか言うとんでもない額を吹っ掛けているのに、想定数は二〇〇回。不受胎なら返還とか牝馬ならば100万円返すとか一年後までに死んだら500万円返すとかいろいろな条件が付いてるけど、少なくとも二〇〇頭分の種付けを奪う事になる。と言うかお父さんさえも130万円からあがったとはいえ600万円だってのに1000万円とは、自分が怖くなる。
「未勝利戦、新馬戦、金杯……」
「そういうのはもういいんだって。しばらく休め」
休め。確かにその通りだ。
途中休養はあったとは言え延々四年半、ずっと僕は走って来た。ただ、正直何をすればいいか分からない。いや、いっそ何もしないのが正しいのか。それは嫌だ。
「牝馬の体に欲情するには」
「バカ野郎…」
それで、思い付いたのがこんな事だった。種牡馬として大事なのはいかに相手の牝馬を孕ませられるかでありそれが出来なければ価値はない、とか言うごもっともな理屈を振りかざしたのに厩務員さんに苦笑いされる。
アスカキングスが見てなきゃいい名と思いながら首を動かすと、やっぱり見てた。
ああもう恥ずかしいったらない。しかも全然リアクションしてくれないし…。
でも本音だから、しょうがない。どうしようもない。
僕は、まだ競走馬だった。
そして一月中旬。冬そのものの中、平日の昼間だと言うのに満員のスタンドの中。
大井競馬場へとやって来た僕と、山本さん。
東京ダービー、帝王賞、東京大賞典。僕が築いて来た栄冠が、ここにある。
初勝利を挙げた中山競馬場でとか、フェブラリーステークスを勝った東京競馬場でとか言う声もあったけど、あんな事が起きてしまった中山競馬場にはもう行きたくないし東京競馬場が開くまではもう待てないしって訳でここでやる事になったのは正直ありがたい。
「ソニック!」
「ソニック!」
「ソニック!」
僕の名前を呼ぶ、ファンの皆さんの声。
もちろん全力疾走などせずゆっくりと走るだけだが、これだけの声援を受けながらも強引に走る気が起きない。山本さんが手綱を引き締めてくれているせいもあるが、不思議なほどにその気が起きない。
「なぜなんでしょうか」
「新しい段階に進んでる、って事なのかな」
山本さんの声が、耳に心地よく入る。四年間、ずっとお世話になって来た存在。山本さんがいなければ僕はどうしていたか。
この実に心地いい声援とも、今日でお別れ。そう思うと、脚が進まなくなる。
(あれ…)
なぜだろう、なぜ涙が出て来るんだろう。
悲しいのか。寂しいのか。惜しいのか。
アッパーグレードが死んじゃうかもしれないと思った時とは違う涙が、出て来る。
「それでいいんだよ」
山本さんは、またそう言ってくれた。
泣いていいんだ。
そう思うと、今度は涙が引っ込む事はなかった。
良馬場だったはずの大井競馬場を、稍重馬場ぐらいにはしそうなほどに泣いた。
涙が涸れたのは、一周回り切った後だった。
「終わりましたか、何もかも。ああ無事終わったんですね」
「うん」
「お帰りなさーい!」
そして浅野厩舎へと帰って来た僕を待つ、アスカキングスとアスタリスクガール。
多くの馬も人も、一緒だった。
「さて…早速ですけど明日には本当の本当にお別れですね」
「早いなぁ!」
「ココロノソニックさんに合わせただけですよね」
「予定通りだったからね。本当は厩舎に帰らず直にってのもあったらしいけど」
「どうせここに来るまでの間寝てたんでしょ」
「うん」
大井競馬場から浅野厩舎まで、昼間だってのに寝てた。これからはそんな悠々自適な生活が当たり前になるのだろう。
「あなたの馬房は、しばらく空きになるそうです。あなたの後が務まる存在じゃなきゃ無理ですから」
「ココロノサケビは」
「ここに来ないって時点で察してください」
僕の名前の付いた看板もいずれ取り外され、新たな馬が来るのだろう。
その馬がどんな成績を残しどんなドラマを描くのか、楽しみにしてもいいだろうか。
「まあとにかく、お疲れ様でした」
「ありがとう」
アスカキングスの言葉と共に、三歳馬たちだけでなく古馬たちも各々の場所へと戻って行く。厩務員さんに馬房に連れられ、最後の一夜の夢を見る。
ずっと、ここで寝て起きて来た。
種牡馬として牧場に、故郷へ錦を飾って帰る…って事にはならない。
僕を産んだのは生産牧場であって、種牡馬としての牧場ではない。
お父さんのそれとも違う、また別の牧場。
もう僕は、競走馬ではない。しかし、戦いをやめる事は出来ない。
種牡馬として、どれだけの仔を産めるのか。質も量も、優れていなければいけない。
優秀なる成績を上げて存在だけが、生き残れるステージ、新たなるステージ。
そこで何が待つのか。
どうしても、僕はそこから逃げられない。
ならば、受け入れるまで。
(……ごめんね)
死ぬまで、いや死んでも戦いをやめられないのならば、戦い続けるまで。
僕は、誰に向けてかは分からないけど、心の中で謝りながら、新たな戦いに思いを馳せた。




