第26R 「ホープフル」ステークス馬、アスカキングス
「大丈夫ですよ。もうその必要もなくなりますから」
ホープフルステークスを制したアスカキングスの言葉は、軽い癖に重かった。
「それは」
「あなたはもう、自分の子どもが二歳になるまではレースを気にしなくともいいのです」
「確かに、ねえ…」
「でもそれがあなたにとっての最初の試練であり、現役時代における最大の悲しみです」
そして、この上なく鋭い。
僕はそれこそ走る事だけを考えて生きて来た。
もう精根とも尽き果てたつもりでいたけど、正直四年半燃やして来たそれが一日で燃え尽きるなどあり得ない。しばらくは、その四年半との戦いになるのだろうか。六年半もやって来たお父さんはどうなのか、話を聞いてみたいけどたぶんできない。
「出来るかな」
「それが出来るのはあなたの特権です。一応ボクもGⅠ馬にはなりましたがそれだけでその特権を行使できるかどうかわかりません。忘れてるんですか、偉そうなことを言ってますけどボクは二歳馬なんですよ」
「意見の正誤に年齢は関係ないと思うけど」
「あなたは正しい。本当に正しいお方だ。だがその正しさはもう必要なくなる。その事をあなたは知っているのか」
「それは……」
競走馬としての正しさは、もう要らない。種牡馬としての正しさが、これからの僕にとって必要になる。
「これからあなたに求められるのは、怠惰な生活です。それこそ種牡馬として三ヶ月の労働期間と、九カ月の休養と言うサイクルです。ただその代わり三ヶ月間は連闘どころか毎日単位とも聞きますけど」
「体力はまだまだ要るって事だね」
「その発想が要らないのです。あなたはもう他の馬の何倍も努力して来た。凄まじいほどの成果も挙げた。そんな存在が引退してなお、現役復帰の機会もないのに努力を続ける姿は過去の栄光にしがみ付いているそれに見えます」
「でも種付けにも」
「それはもう牧場の人に任せていいのです。あれほど強かったはずの母も牧場の人に任せていたそうです。丸投げと言えば言葉は悪いですけど」
浅野先生や山本さんに任せていたそれが、牧場の人に代わるってだけか。それならばなんとかなる気もする。
「でも最大の悲しみって」
「置き去りにされる事です。ボクはこれからあなたを含め多くの馬に先に去られます。わき目もふらずに走り続けるとか言うにしてもあなたがそうして来たように多くの屍の上に立つ事になる」
「そしてその行き着く先は」
「後ろからやってくる相手と戦い続ける事になる。そして、自分は置き去りにされた事を悲しむくせに相手を置き去りにする。それが馬の流れです。
しかしほとんどの馬はそんな事を考えなくて済みます、そんな余裕なんかないからです」
余裕などない。その通りだ。
自分の事で目いっぱいなまま引退して行く馬がほとんどであり、戦った相手やその先に行われるだろうレースの事を気にしながら引退するだろう馬なんてほんの一握りだ。そのほんの一握りが僕であり、その中でも頂点に立ってしまったのが僕だ。
「最後の戦いにして最初の戦いが、あなたを待っています。しかもすぐ」
「戦い……」
「はい。来てくれますか?」
僕はその最後にして最初の戦いとやらに臨むべく、アスカキングスの言うままに付いて行く。
決して無理をしない速度で、いつもの場所へと向かう。
二十七回やって来た、馬運車の入退出口。
今回、僕は走りに行くわけではない。
「見送り?」
「ええ。僕だって母とはすぐ別れましたけど牧場の人からはそれなりに思い出もありました、浅野先生のとこに来るに当たって悲しい思いもしました。種牡馬ってのはやるだけやって後は丸投げって仕事です、まあ紙の上での知識ですけど」
「多くの子どもを送り出しておきながら…」
「ココロノダイチさんがあなたを含む全ての子どもを見送りましたか?ってか全ての子どもを把握していますか?」
「してるんじゃない、かなあ」
「あなたを基準にしないで下さい。確かに種牡馬なんてのは暇な仕事ですけどいちいち動向を追っていたらパンクします。今年のココロノダイチさんの種付け数をご存じですか」
「117頭」
「アッパーグレードさんが手こずるはずですよ……あ、来ましたよ」
匙を投げかかっているアスカキングスのとこにやって来たのは、さわやかな笑顔を浮かべる一頭の牝馬だった。
「ココロノソニックさん!」
「アスタリスクガール…!」
「おかげさまで前走はGⅠ取れました!東京大賞典も頑張ります!」
「うん、おめでとう…」
「ラインラインラインさんもフィールマイハートさんも強敵です。あ、カースブレイカーさんもまだ健在ですね」
ラインラインライン、フィールマイハート、カースブレイカー……。
「わかってるって、私が何とかするから!」
「頼むよ」
「ココロノソニックさんも安心して見ててくださいね!じゃ、行ってきまーす!」
すごくきれいな笑顔で、手でも振りそうなほどに爽やかな笑顔を浮かべている。
だけど、その笑顔が頭に入って来ない。
「しっかりと聞きましたか」
「ああ…」
「安心して見る事。そしてどんな結果が出ても受け止める事。それが新たなる役目です。特権階級ゆえのぜいたくな悩みであり、自力ではどうにもできないお話です。あなたがどれほど勝とうとあなたと同じココロノダイチさんの子どもの中には全く走れない馬も出て来る、そういう事です」
「なるほどね」
「………………………………」
僕がアスカキングスの理路整然とした説明に深くうなずくと、アスカキングスは下を向いて押し黙ってしまった。一体何のつもりなのか。
「ココロノサケビさんは既に出ています。あなたと顔を合わせたくないからって。本当、そういう所ですよ」
「大井は初めてだからな、いろいろ現地で学ぶ事もあるだろうし」
「その輝きを受け止められる馬ばかりではないのですよ。
あなたにははっきりと、東京大賞典を見ていただく責務があります。アッパーグレードさんも承知して下さるはずです」
「わかったよ」
アスカキングスの目がつり上がり、僕を強く睨む。
一体僕に、何を求めていると言うのか。




