第24R なぜ、涙が引っ込んだんだろう。
「競走中止だ」
「競走、中止……?」
競走中止。
絶対に聞きたくない四文字。
これ以上競走を続けるのは無理と言う意味。
障害レースで飛越を誤り落馬とか言うならともかく、平地でこれが起きると言うのはただ事ではない。
故障。それもこれ以上走る事も出来ないと言う重篤なそれ。
そしてその先に待つ、もっと最悪な四文字。
「あ、あ、ああ…!!」
僕は今まで生きて来て、ここまでにないぐらい叫んだ。
そして、いつの間にか泣いていた。
「おい!」
「おいもなにもありませんよ!」
ほどなくして七歳になるくせに、泣いた。泣きわめいた。
考えたくないけど、考えてしまわずにいられない可能性。
そして、それと同時に、いかに彼を僕が大事に思っていたのかって現実。
(どんなに、僕が高みに上っても、彼だけはずっと同じ目線でいてくれた。それがどんなに、ありがたかったか!)
今からちょうど三年前、僕はGⅠを既に五つも勝っていた。アッパーグレードはまだゼロ。
翌年には八対一、翌々年には十一対二。
日本の地方GⅠって言うかJpnⅠとドバイシーマクラシックって言う国際GⅠじゃ話が違うかもしれないけど、僕ら二頭の間にはそれなりの格差はあったはずだ。実際ココロノサケビのように弟とかって言う切り札がなければ、他の馬は僕と気安く話す事は出来なくなってしまっていた。
若い仔たちはいたけど、今年のドバイワールドカップとアスタリスクガールの一件以降僕の事を恐れて話さなくなった。たまに話して来てもご機嫌取りのような言葉ばっかりで、へりくだってるとか媚びを売ってるとか言うよりただ怯えている感じだった。
そんな中、同じ目線で話し続けてくれた存在。耳の痛い事を言ってくれた存在。
実際に言ったとして僕の耳に入っていたかは分からないけど、実際に口にしてくれていた存在。
そんな存在を、こんな所で失うって言うのか!
「よう」
「えっ!?」
「ったく、お前は…」
「ここはどこ!?キミは誰!?」
「バカヤロー、俺だ、アッパーグレードだ!ああただでさえ苦しいってのに何やらせてたんだてめえはよ…!」
「僕は、僕は…!」
そんな僕の耳に入る、アッパーグレードらしき声。
まさか、僕もアッパーグレードと同じ所に…と思った所で、何かが頭に当たった。
「アッパーグレード!?」
「何を考えてんだよお前は、ああ、ハアハア…」
「大丈夫!?脚は!脚は!?」
「ちげーよ、心房細動だよ」
心房細動。
その四文字を聞かされた途端に、涙が一気に引っ込んだ。
「あのさお前、いや話は全部後でするからさ……」
そして、力が完全に抜けた。
僕は改めて文字通り引きずられるだけの存在となり、長い馬道をただただ歩かされた。
(これが、これが僕の終わりだって言うのか……)
産まれこそ平凡だったけどデビューから三連勝。
本職ではない芝で二着、五着。しかも後者は皐月賞。
そしてダートに主戦場を移してからGⅠ六連勝。
その時も含めて三年連続GⅠ三勝。
最後にはブリーダーズカップクラシックと言う全世界のダートレースの頂点まで取った。
その存在の終わりが、こんなにもみじめな有様だと言うのか。
なぜ、こんなにも、あっと言う間に涙が乾くのか。
自分がこんなにも薄情なのか。
恐れていたのは死であって、その恐れさえなくなればどうでもいいと言うのか。
確かに命より大事な物はないが、少なくとも競走中止と言う完走すらできない形での終焉ではある。三着と競走中止、どっちがましかだなんて明白じゃないか。「ただの競走中止」であった事にここまで安堵するなんて、一体何のつもりだ。
「やはり、か……」
「やはり!?」
「アッパーグレードが心房細動で競走中止になった。その途端じゃないか、キミの脚が鈍った、いや音が聞こえなくなったのって」
そしてその中で山本さんから告げられた、確かに一番ごもっともな理屈。
確かにいきなり競走中止なんて事態が発生すれば、みんなレースどころじゃなくなる。
ましてやアッパーグレードと言うGⅠ二勝馬、それも僕と同じように引退レース。ファンもたくさんいた事が想像に難くない存在があんな事になったとなれば歓声とか以前にみんな息を呑み無事を祈るのは全く不自然でも何でもなかった。
「じゃあ、僕は……」
「敗因はそれだ。他に考えられない。君の優しさが、ここに来て発揮されてしまうとは……本当、運命ってのは皮肉だ」
そのせいで、僕は何も感じ取れなくなり、力が入らなくなり、前へ進めなくなり、そして負けたと言うのか。
イレギュラーのせい?
負けたのはイレギュラーのせいだって言うのか?
「…………いつから、僕はそんなに他の馬の言葉を気にするようになったんでしょうか」
「自分が何気なくやってる事が、他の馬たちに影響を及ぼしてる事に気付いちゃったからだろうね。ぼくだってココロノソニックのおかげで国際GⅠジョッキーにもなれたし勝ち星数はともかく賞金獲得額では四年連続ひとケタ順位だ。既に来年のクラシック候補のお手馬も出来ちゃったしね」
「ただ、自分なりに普通に走ろうとしていただけなんですけどね」
その普通が普通じゃない事は僕だって自覚していた。
でも僕の視野は、正直広くはなかった。目の前の一戦、目の前の一戦を繰り返し、決して必要以上に拡大させる事はなかった。その必要はないと思ったから。
その結果自分が負かして来た存在に対しては勝利を重ねる事で自分なりに責任を取れているとは思ったし、実際その流れで今までやって来た。
その大きさを実感したのは、おそらく今年になってから。
あのフェブラリーステークスの時、アスタリスクガールってスーパーアイドル様を僕があっさりと負かした時、若い仔たちは本馬たちが言う所の無思慮な憎悪をぶつけて来た。
その憎悪を受け止めてしまった僕はドバイワールドカップを勝てず、その情けない敗北を若い仔たちは責めなかったと言うか責めてくれなかった、脅え切っていた。
勝っていたのならばともかく、負けたのに場を支配してしまう。その事の恐ろしさに、その時は何となくの違和感として残り、今になってようやく気付いた。
だがそれを糧にするには、もう遅すぎた。




