第23R 本当に疲れたよ
歓声ではなく、悲鳴。
いったい何が起こったって言うのか。
有馬記念って言う夢と希望が詰まっているはずのレースが、漆黒の闇に捕らわれている。
空は青く澄み切っているのに、音が聞こえない。
聞こえるべき音が聞こえず、聞こえてはいけないはずの音さえもない。
悲鳴とか言ったけど、本当は沈黙。紛れもない競馬場と言う名の馬も人間も山といるはずの場所なのに、反応は何もない。
「行くぞ!」
あ、山本さんの声だ。
そうだ、今はレースだ!
最後の最後だ。
持てる力を全て叩き付ける!
それが、僕のすべき事のはずだ!
なのに、なぜか脚が重い。
鈍いと言う訳じゃなく重厚だと言う自負はあるけど、それでも前へと進んでいる気がしない。
静かだ。静かすぎる。
視線ばかりが強く輝き、僕の何かを願い続ける。
何かってのが何なのかはわからない。
勝利か。それとも…
歓声はなぜ聞こえない。
僕以外にも応援する存在なんかたくさんいるはずなのに、なぜだ。
なぜみんな黙ってしまう。
わからない。
わからない。
わからない。
「あああああああああああ!!」
初めてかもしれないほどに、強く歯を食い縛る。
もう最後の直線だって事は分かる。
あのきつい坂だ。
もうゴール板は見えている。
一歩でも早くたどり着けば勝ちだ。
今までも何度も何度もやって来た事だ。
そのはずなのに、やけに遠い。
なぜだ。山本さんすらいるかどうかわからない。
「山本さん!」
「わき目もふらずゴールを目指せ!」
鞭が入る。山本さんの声が聞こえる。そうでもされないと山本さんの存在を認識できない。
どうなってるんだ。どうしてだ。
残り200のハロン棒が見えた。ああもう、なぜこんなに時が進むのが遅い!本当ならもうゴール板を、でないとしてももう残り100ぐらいのはずなのに!
なぜだ。どうしてこんなにも、こんなにも静かなんだ!
有馬記念って舞台は、ここまでも恐ろしいのか!
ああ、お客さんの目線が僕を向いていない!
後ろばかりに向いている!
どういう事だ!
まだ後ろからやって来ていないのか!
(怠け者め!)
そう内心で毒づいてみたけど、すぐもっと後ろの方に向いている事がわかる。何が起こったと言うんだ、何がこの競馬場から全ての音声を奪ったと言うんだ!
そんな事はどうでもいいとばかりに走ろうにも、ゴール板はちっとも近付かない。脚が止まってしまったのか?いや違う、感触は紛れもなくいつも通りのそれだ。いや正確に言えばややスローダウンしてるけど、大ブレーキとか言う訳ではない。それなのに音が消え、視界が曇り、前が遠くなる。
まさか、別世界に迷い込んだと言うのか。
そりゃ確かに有馬記念って舞台を別世界のそれだと思っていた事は否定しないし2000mより長い距離を走った事がなかったのは認めるが、それにしてもこの別世界って奴は異様だった。
まさかシャットダウンやアッパーグレードはこんな世界を毎回体験していたのか、いやそんな訳はない。こんな空間に何度も何度も出くわして無事でいられるほどタフな馬が一体どれだけいるのか。
(お前のような力の持ち主はそうそういねえよ、走力も、体力も、精神力も)
アッパーグレードは散々そう僕を持ち上げて来たけど、こんな状況は僕でも出くわした事がない。
アッパーグレードは何度もあるって言うのか。
何度もあるってのにあんな事を言ったのか。
いや馬鹿を言え、彼がそんなに不誠実な訳があるか!
事の真相を聞くまでは僕は負けない、負けられない!
「ああああああ!」
また、吠えた。
けど、ダメだった。
今度ははっきりと、ダメだと分かった。
目でなく、耳が答えを叩き付けて来た。
二頭分の、馬蹄の轟。
僕の横を通り抜けて行く、八本の脚。
それでも一滴たりとも残すまいと、必死に前へ前へ体をやる。
僕は何のためにここにいるのか。
僕はファン投票でも、馬券投票でも一番人気。
その期待に応えずして、何が競走馬だ。
何がGⅠ十四勝馬だ。何が国際GⅠ馬だ。
うるさい、来るな!
もうこれ以上、これ以上くじけたりはしない!
寄って来るなぁぁぁ!!
「お疲れ様だったな」
「…………あ、やっと、なんか、聞こえて来た……」
勝ち馬と、0.2秒差。
二着馬と、0.1秒差。
四着馬と、アタマ差。
これが、僕の最後のレースの結果。
その事を知らされると共に、観客の皆さんの声が入り込んで来た。
そしてようやく気力が戻ったが、体力はもうない。予定通りとは言え全部吐き出してしまった僕は文字通りの抜け殻であり、身体を引きずるだけの存在に成り下がっていた。
「しかしどうしたんだ、やっぱり距離か」
「いえ……なぜかわからないけど急に静かになって、それでやる気と言うか走る気がなくなって脚が重たくなって……こんな事、山本さんに言ってもわからないですよね、ハハ、ハハ、ハハハハハハ……」
こんな情けない笑い声が僕の口から出たのには自分でも驚いた。僕は元々あまり笑う馬ではなく初勝利の時も初GⅠの東京ダービーの時も、ブリーダーズカップクラシックの時でさえも笑った記憶がない。その事が鉄の馬と言われたお父さんに似ていると指摘された事もあるけど、もちろん名誉だと思っていた。
それなのに、勝った時ではなく負けた時にこんな風に笑えてしまうだなんて。
これが、僕が競走馬として終わったって証明なんだろうか。
そう結論付けようとしたら、山本さんが急に深刻な顔をしてどこかへと向かう。
僕がおかしくなったと思ったのか。
いや実際僕はおかしくなってるけど、それだけじゃないはず。
いったい何があったのか、あの長い長い直線の時の様に山本さんを待ってると、山本さんは深刻な顔をぶら下げて戻って来た。
「何があったんです!」
「アッパーグレードは何着だったか気にならないか」
「あ、それは……」
そうだ、アッパーグレードだ。
アッパーグレードは掲示板に入ってなかった。
ひどい負け方をしたのか。それとも進路妨害とかで……
「競走中止だ」




