第22R あの音が聞こえない
『先頭はなおもココロノソニック!後続も付いて来ている!』
アッパーグレード以下十五頭を、先導する体制が出来た。
ペースを落としたい。
そう思っていると山本さんの手綱が少し締まった。ここが息の入れどころ、少し呼吸を整える。
だがこの隙を付いて来る馬は絶対居る。
追い越されるかもしれない、
並ばれるかもしれない。
でもその時はその時だと割り切る。
直線で、いやもっと前からこれまでと同じように二の脚を叩き付ける。
二の足を踏むんじゃなくて、二の脚を叩き付ける。
追い抜いたと思った相手に抜き返される事。
それこそ一番打撃が大きいはず。
またそれをするだけのスタミナは十二分に残っている。絶対的なスピードの差は認めるけどそこは何とかする。他に勝つ方法はない。
今はゴール前のそれと反対側の直線、いわゆる向こう正面。
正直に言えば、一番嫌いな場所だ。
内回りコースなのであまり距離はないが、それでも客席からは遠い。
僕らを楽しみにしてくれている人があれほどいるはずなのに声は届かず、どこか薄っぺらい絵画みたいだった。
ある意味静かでいいって言う馬も多いけど、僕は面白くない。ましてや今回は大歓声が轟く中山競馬場だ、ちょうどこの辺りは歓声も少なくて静かなので余計に面白くない。
いや、我慢だ、我慢。ここでじっと我慢して二の脚を使う。そのために今は耐える時。
肺や脚だけでなく目も耳も使い、後方に神経を回す。
……来ない?差が詰まってない?
『三番手以下は三馬身の差が付いています』
先頭は僕、二番手があのステイヤーズステークスの勝ち馬。それが僕の一馬身半ほど後ろにいる。
つまり後続は、ざっと五馬身近く離している事になる。
危機感がないのか?それとも芝じゃどうせ大したことはないと舐めているのか?
(くっ…!)
頭が熱くなる。まだ本気を出すべきじゃない。少なくとも最終コーナーまでは我慢する。そこから一気に突き放す。
しかしどうしても後ろが気になる。どんな顔をしているのか、どんな走りをしているのか。
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
でも、そんなセリフとも言えないセリフが似合いの顔をしている。実に正しい。こんな時にわざわざ顔を緩める必要もない。しかめる必要はあるだろうけど、皆が皆涼しいと言うか何事もないような顔をしている。
「まさかみんな直線の長さを」
「忘れてはいない。でもそれでも勝てるって自信があるんだろう」
「そうですよね」
山本さんも答えてくれる。
ふざけてるのか。
競馬に限らずスポーツってのはルールのある喧嘩だって誰かが言ってたけど、そうやって静かにしている事こそ喧嘩を売っていると言うのか…
—————もしかして。
いや、それはお互い様じゃないか。
僕は折り目正しく動く事により、むしろ多くの馬を刺激して来たのかもしれない。
でもどんな行動を取ろうが癇に障る存在ってのがいる事も僕は知っている。
○○って理由があるから—————ではなくただ面白くないから気分を悪くするのであり、それこそ理屈ではまるで説明のつかない悪意としか言えない。
お前って理屈っぽいと言う事なら何度か言われたと思う。
そうするだけの理由があったからそうした、それの何がいけないのか。
例えばレースに対して貪欲である事。
それはそれこそが僕らの本分だからしょうがないってだけの事。
そのためにきつい調教も受けたし、ご飯も食べるし水も呑むし、先生や山本さんたちとも仲良くする。じゃなんで他の馬と仲良くしないんだよとか言われても、お互いに言葉を交わす事は大事だと思うけどそれが自分を強くする事につながるかって言うと別問題だと僕は考えた。それまでの話だ。
相手やコースを分析し、どのような展開で走るのか望ましいか考える事。
過去のレースの映像や馬場を理解し、どのような展開になるか考える事。
もちろん自分の戦法を間違えちゃいけないだろうけどあらゆる可能性を視野に入れなければいけない。天気もチェックしなければいけない。
それらの事を、僕は当然だと思ってやって来た。実際この有馬記念についても中山競馬場の直線は長くこそないが坂がきつく戦法の有利不利はあまりなく、ましてや最終週だから馬場も荒れているだろう以上枠順も距離ほどには不利はない。調べた上でやる事は変わんねえのかよと言われればそれまでだが、いずれにせよ知ると知らないとでは安心感が違う。
なぜそれらの事を怠るのか、それがどうしてもわからない。
だから、今ああして無表情で追って来ている彼らの事はよくわかる。
何が何でも勝つために、必死にその時を待っている。
僕が止まるのを待っているのか、それともここだと言う場面で仕掛けて斬り飛ばすつもりか。だが僕は前者で負けた記憶はない。負けた時は後者だ。帝王賞のフィールマイハートのように、いつの間にか後方からやって来て僕の首を搔いて去って行くのを狙っているのか。
ならば首を搔いた時には、ゴール版を過ぎ去っていてやろうじゃないか。
『いよいよ最終コーナー!!残りもう500もない!』
舞台は整った。
まだ僕は先頭。
後ろはやや詰まっているかもしれないけど決定的な差でもない。
いよいよ、本当に本当の最後の戦いが始まる。
一滴たりとも残すつもりはない。ついさっき走って来た直線、あの坂を誰よりも速く駆け上がり、そのままゴールへとなだれ込む。
そのために、最後の力をもらうべく、僕は耳をそばだてた。
最後の直線。僕らを見に来た皆さんの喉から出て来る言葉。
来る!
大歓声。
僕のためだけじゃないとはわかっているけど、僕はそれを使う。
このレースを、誰よりも楽しみにしてくれている人たちのために!
……………………聞こえない。
おかしい、歓声が、聞こえない。
声は、ある。
だがそれは、歓声じゃない。
悲鳴だ。
悲痛な、叫び声だ。




