第89話:模型
平心湯からの返信を受け取ったその夜、アシンは三十平方メートルにも満たないアパートの部屋で、スマートフォンの画面に表示された「そのフィギュア、俺も持ってるよ」という言葉を、長い間ただ見つめていた。胸の奥の何かが、そっと触れられたような気がした。それはとても懐かしい、自分がかつてアニメの最終回に涙した頃に感じていたものと同じだった。
しかし翌日、太陽は変わらず昇り、彼は仕事に行かなければならなかった。
満員電車に揺られながら、前後左右を人に囲まれていても、彼は巨大な機械に無理やり嵌め込まれた一粒の螺子のように感じていた。周りのすべてが自分とは無関係に思えた。車内に溢れる住宅ローンや株、誰が昇進したといった会話も、遠い世界の出来事のように聞こえる。彼は無意識に吊り革を握りしめた。指先が少し冷たかった。
会社に着き、いつもの席に座ってパソコンを起動する。画面上でカーソルが点滅する中、同僚たちは少し離れた場所で、最新の電気自動車の話題で盛り上がっていた。誰かが新車を注文したらしく、試乗会の写真を興奮気味に共有している。流線型のボディが、画面の中で眩しく輝いていた。同僚たちは羨望の声を上げていたが、彼はただ静かに座っているだけで、振り向くことすらなかった。馬力や価格、ローン計画といった数字は、自分とは別世界の言語のように思えた。口を挟むことはできず、何を話せばいいのかさえわからなかった。
同僚たちの目には、彼は透明人間のように映っているのだろう。輪の中に入りたくないわけではない。入れないのだ。毎月の給料から、この狭いアパートの家賃を差し引いたら、残りの一部を田舎の両親に仕送りしなければならない。それは決して揺るがせない、長男としてどうしても背負わなければならない責任だった。だから、同僚たちが投資価値のあるマンションや、値下がりした新車の話で盛り上がっていても、彼はただ黙って俯き、パソコン画面の報告書を見ているふりをする。車を買う?家を買う?そんなことは考えることすら贅沢だった。明日の食事すらままならないのに、人生の何十年もを費やして返済するような「未来」に、どうして思いを馳せることができるだろうか。
彼は俯いて、何年も履き続けた自分の靴を見つめた。靴底の溝はとっくに擦り切れ、縁は剥がれかけていたが、それでも買い替えられずにいた。買い替えたところで、自分の人生が何か変わるのだろうか、と心の中で思う。
唯一「生きている」と実感できるのは、退勤後の数時間だけだった。彼はアパートのドアを開け、ゲームが作り出す仮想世界に自分を放り込む。そこでは、現実で一言も言葉を発せない透明人間ではなく、明確な目標を持つ勇者だった。クリア不可能と思える難しいダンジョンを攻略するため、指が痛くなるまで操作を練習し、戦略を練り上げる。深夜、自転車に乗ってゲーム内の広大なマップを当てもなく彷徨い、ただひたすら希少な素材を集めて、決して強くはない武器を作り上げる。週末にはまる一日かけて、フレンド全員が諦めた隠しボスを独りで倒すこともあった。
その瞬間だけ、彼は自分が磨り減らされた螺子ではなく、問題を解決し、目標を達成できる人間だと感じられた。ゲームが逃避だということは、彼自身が一番よくわかっていた。だが、どうすればいいというのか。息が詰まるほどの重圧に押し潰されそうになる現実や、どんなに努力しても永遠に追いつけないように感じる世界について、考えたくなかった。ただ、この数時間だけは、家族の期待を背負った「アシン」ではなく、現実と向き合わなくていい「プレイヤー」でいたかった。
そんな時、あの返信が届いたのだ。あの「そのフィギュア、俺も持ってるよ」と書かれた返信が。
彼は多くのことを思い出し始めた。大学時代、愛さえあれば乗り越えられない困難はないと信じていた自分。社会に出たばかりの頃、未来にほんの少しの希望を抱いていた若者だった自分。ショールームのウインドウ越しに、中で輝く車をいつまでも眺めていた後、黙ってその場を去った、孤独な背中。
ふと、自分の部屋の小さな一角に目をやる。そこには、幼い頃から集め続けたフィギュアや、今では絶版となったアニメのCD、VCD、DVDがぎっしりと並べられていた。まるまる一か月分の給料をつぎ込んで、こんな「役に立たない」ものを買ったことを、彼は家族に一度も話したことがない。
何年も履き潰した靴すら買い替えられず、少し贅沢な食事さえ負担に感じる彼が、なぜか、僅かな余裕をすべて、他人から見れば無価値なプラスチックやディスクに費やしてしまう。それは、彼が自分に許せる唯一の贅沢だったからだ。アニメの世界は、彼の心が安らげる唯一の空間だった。そこでは、仲間が互いのために命を懸け、物語は彼に、優しさや勇気には価値があると教えてくれる。現実に押し潰されそうな時、彼が逃げ込める、自分だけの心の庭だった。
だが同時に、別の声も彼の心の中で響いていた。それは、幼い頃から聞かされてきた声だった。
「男なら、何でも一人で背負い込め。」
「どんなに疲れても弱音を吐くな。死んでもやり遂げろ。」
「苦しいことがあっても、飲み込め。口に出してどうする。笑われるだけだ。」
これらの言葉は、彼が自ら選んだものではなかった。彼がまだ幼い頃から、この世界が少しずつ彼に刷り込んできたものだ。父親も、教師も、そして見てきた全ての映画が、形は違えど同じ物語を語っていた――男とは、強靭な螺子になれと。圧力にどんなに歪められても、決して緩んではいけない、泣いてはいけない、地面に落ちてはいけない。これが「恐竜の法則」の最も恐ろしいところだ。生活を奪うだけでなく、感情までも奪い去り、苦しみを認めることすら許さない。
しかし、アシンは心の奥底でわかっていた。自分は周囲が思うほど強くなどない。疲れることも、痛みを感じることも、孤独になることもある。深夜、一人きりになると、自分が今にもバラバラになりそうな機械のように感じて、いつ止まってもおかしくないと思う。ただ、ずっと平気なふりをしてきただけだ。
そして彼は、その返信を見つめ、その「そのフィギュア、俺も持ってるよ」という言葉を見つめた。自分と同じようにアニメが好きな見知らぬ誰かが、こんなにも優しい方法で、「わかってるよ」と伝えてくれたのだ。
彼は考え始めた。この世界のどこかに、こんなふうに毎日仮面を被って生きなくてもいい場所が、本当に存在するのだろうか、と。
そして彼は、憑かれたようにネットで日本に関する動画を検索し始めた。商店街の主人が、鉢巻きを締め、鼻歌を歌いながらパン生地を捏ねている。無人の野菜売り場には「お気持ちで」と書かれた小さな木箱が置いてあり、お金は誰も見張っていないのに、むしろ増えているように見える。休息警察の警官が、子供の肩を優しく叩き、休むように声をかけている。自由広場では、大人も子供も入り混じって音楽に合わせて踊り、笑い声が画面を突き抜けて、彼の耳元にまで届いてくるようだった。彼はその映像を、食い入るように見つめた。それはもはや「逃避」ではなかった。彼は心から、この世界を感じ始めていた。自分にその場所へ行くチャンスが、本当にあるのだと知ったからだ。心の底から、この目で確かめたかった。この場所なら、もう「無理して耐える」必要のない男に戻れるのかどうかを、どうしても知りたかった。
そして、「あなたの申請を受け付けました。平心湯へようこそ」という返信と、正式な電子航空券が届いた時、言葉にできないほどの喜びが心の底から湧き上がった。当選したのだ。本当に当選したのだ。彼は何度もそれを見返し、幻覚ではないことを確かめた。その瞬間、胸の奥の炎が一気に燃え上がった。ただ「見ている」だけではいられなくなり、夢中で準備を始めた。
しかし、その喜びは数秒しか続かなかった。すぐに、もっと強く、慣れ親しんだ感覚――現実の重圧が、それを押し潰した。どうやって休暇を申請するのか。その問題が、彼を頭から冷水で濡らしたように現実に引き戻した。会社で彼は、いつも一番静かで、一番目立たない存在だった。遅刻も早退もしたことがなく、ましてや私用で休暇を取ったことなど一度もなかった。それは仕事への熱意からではなく、恐怖からだった。もし数日でも「消えた」ら、自分の席はすぐに他の誰かに取って代わられ、自分の食い扶持すら稼げなかった、あの恐ろしい「役立たず」の状態に逆戻りしてしまう。たった一人、どうにか生きていくだけの給料のために、自分の要求すべてを、埃の積もる最低限にまで抑え込むことに、彼はすっかり慣れてしまっていたのだ。
そして彼は、人生で最大の勇気を振り絞り、戦場に赴く兵士のように上司の席へと向かった。声は、オフィスの空調の音にかき消されそうなほど小さく、手のひらには汗が滲んでいた。彼は手短に事情を説明し、「少し私用があるので」数日間の休暇を申請した。
上司は最後まで顔を上げず、目の前の書類から視線を外さなかった。まるで、立っているアシンなど空気であるかのように。話を聞き終えると、ただ適当に「ああ」とだけ言い、冷たく一言だけ言い放った。「人事部で自分で申請書を書いてこい。」
それは、一言も無駄な言葉をかけず、一瞥すらも無駄だと切り捨てるような、徹底的な無関心だった。しかしアシンにとって、それは人生で一番、冷たくされて嬉しかった瞬間だった。乗り越えられないと思っていた巨大な壁は、こうも簡単に通り抜けられたのだ。彼は早足で自分の席に戻った。心臓はまだバクバクと脈打っていたが、心の中の喜びの種は、そのおかげでさらに太陽の光を浴び、音を立てて根を張り、芽吹き始めた。
その夜、彼はアパートに帰り、いつものようにスマートフォンをスクロールした。しかしそれは、もはや目的のない逃避ではなかった。喉が渇ききった人間のように、彼は貪るように、日本の、この「百パーセントの世界」に関するありとあらゆる動画を探し続けた。しかしそれと同時に、一つの声が彼の心の中で絶えず谺していた。それは「恐竜の法則」に属する、疑いの声だった。この世界は本物なのか?本当に誰かがこんなふうに生きているのか?これはただ旅行客を呼び込むための宣伝ではないのか?すべてはただの嘘ではないのか?
考えは乱れ、答えは見つからなかった。しかし、もっと深い場所から、一筋の幽かな光のように、ある想いが浮かび上がった。
「神様、一度だけでいいから、夢を見せてください。たった一度だけで。それが終わった瞬間に、この世から消えてしまっても構わないから。せめて……もう、こんなに辛い思いをしなくて済むのなら。」
それは、あの冷たい旧世界で、彼が自分自身に与えた最後の慰めであり、そして最も徹底的で、何も顧みない決意だった。自分にはもう何も無いと思い詰めた人間が、その瞬間、何も恐れない勇気を手に入れたのだ。彼はその勇気を胸に抱き、深い眠りに落ちた。夢の中で、彼はいつしか、画面越しにしか見たことのなかったその土地に、もう降り立っていた。
平心湯の午後、陽光がガラス窓を抜けて木の床に降り注ぎ、温かな光の斑を形作っている。しかし、広間の空気はいつもよりずっと重苦しかった。琪琪が座卓の上にタブレットを置くと、画面にはアシンの申請データと、SNSで公開されている彼のプロフィールが表示される。アレンとカノンが両側から覗き込み、天神は相変わらず座卓の横で、猫バスの抱き枕を抱えて目を細めているが、その視線は何気なく画面に向けられていた。
「今度の客人というのは、この方なの?」
カノンが指さした画面の先には、ゲームの掲示板に残されたアシンの書き込みがあった。「正直、自分がいつまで持つかわからない。毎日、仕事に行って、帰ってきて、ゲームして、寝るだけ。人生全部が誰かに決められたプログラムみたいで、俺はただその通りに動く螺子みたいだ。」
その言葉を読みながら、アレンの胸には言い表せない感慨が込み上げてきた。「昔の俺と……同じだ。」
琪琪がタブレットの画面を軽くスワイプすると、別のページが現れた。とあるニュースサイトの掲示板で、タイトルにはこう書かれている。「道で転んだお婆さんを見かけたら、助け起こす?」その下に並ぶコメントを見て、アレンとカノンは言葉を失った。
「絶対に助けるな!後で慰謝料を請求されるに決まってる!」
「いいことなんてないよ、世の中そんなもんだ。」
「俺も昔、人助けをしたら、『あんたにぶつかられた』って言われたんだ。もう二度とやらない。」
「一番大事なのは自分の身を守ることだ。余計なことには関わるな。」
琪琪は静かにそれらのデータを見つめ、電子眼の奥に一瞬の揺らぎが走った。その声は落ち着いていて、何度も検証され尽くした公式を読み上げるかのようだった。「過去のデータおよび履歴の分析によると、旧世界のシステムでは『支援行為』に対する法および制度上の保護が欠如していました。善意が賠償請求の口実として利用された多数の事例が記録されています。人々は生存のために、『不介入』という選択肢を、社会の生存アルゴリズムに組み込んだのです。」
それらの書き込みを見つめながら、アレンは胸がひどく締め付けられる思いだった。「彼らは……優しくありたくないわけじゃない。ただ、たくさん傷ついてきただけなんだ。」
天神はそっと猫バスの抱き枕を置き、居住まいを正した。その眼差しは変わらず優しいまま、そこには何の裁きもなく、深い受け容れだけがあった。
「彼らは間違ってなどいない、アレン。」天神は穏やかに言った。「『分離』を信じる世界で、自分を守ることは、彼らが最初に学ぶべきことだった。彼らは人を助けるのが怖いんじゃない。ただ……『安全』がどんな感覚だったかを、忘れてしまっているだけなんだ。」
彼は窓の外を見つめた。陽の光が彼の顔の上で静かに揺れている。
「だから、私たちの役目は、彼らに『お前たちは間違っている』と教えることじゃない。ここでは、優しさに代償はいらないこと。ここでは、繫がりが傷つけ合うことはないこと。それを、ただ見せることなんだ。」
アレンは言葉を失った。アシンが申請書に書いていた「明日の食事すらままならないのに」という言葉の本当の意味を、彼はようやく理解した。それは経済的な困窮だけではなく、魂の絶対的な孤立だった。
天神は再び皆の方へ向き直り、その口元には、とても淡い、しかし確かな微笑みが浮かんでいた。「私たちがすべきは、彼の恐怖を取り除こうとすることじゃない。私たちは、彼の心の奥底にある愛の篝火に、火を灯すんだ。そして、彼が本当の自分自身――何よりも安全な存在だったということを、思い出せるようにな。」
アレンはしばらく沈黙し、それから顔を上げた。その表情は、何かを固く決意したように揺るぎなかった。
「よくわかったよ。」彼は琪琪の方を向いた。「彼はいつ到着するんだ?」
琪琪の電子眼が一度、軽く光った。
「彼の便は、明日の夕方、到着予定です。」
アレンは深く頷き、そして立ち上がった。
「それなら、明日は俺が駅まで迎えに行くよ。」
窓の外の桜の木を見つめながら、彼の胸の中に、激しい想いが込み上げてくるのを感じていた。アシンという名のその男は、単なる旅行者なんかじゃない。彼は旧世界の冷たさと絶望を映し出す、一枚の鏡だ。そして平心湯は、この世界にはもう一つの温もりがあるのだと、彼に示す場所なのだ。
(第89話、了)
読者の皆さん、いつも応援してくださって本当にありがとうございます。
皆さんが物語を読んでくださるその一回一回が、私にとって最大の励ましです。
第89話「模型」では、旧世界で螺子のように扱われてきた青年が、心の奥に残る光を頼りに、新しい世界へと歩み出す姿を描きました。
この物語が、少しでも皆さんの心に温かさを届けられたら嬉しいです。
これからも精一杯書き続けていきます。どうぞよろしくお願いいたします。




